「今度、被災地にボランティアに行きたいんだけれど、どうすればよいのかなぁ?」
それは1本の電話から始まりました。
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ココロデスクです。
東松島市の宮戸島で、公園の植栽活動ボランティアに参加して来ました。
といっても、今回の主役はこの人たちです。
「新宿区若松地区協議会まちづくり分科会」 東北支援復興ツアーの皆さん |
冒頭の電話の主は、東京は新宿区在住の土屋慶子さん。「新宿区若松地区協議会まちづくり分科会」のリーダーで、地域のスポーツ振興をはじめまちづくり全般に熱心に取り組んでいます。
実は彼女はココロデスクの中学の時のクラスメイト。剣道部でも一緒でした(私は、てんでかないませんでしたが)。
このお盆に同窓会で会った時に、ココロプレスのことを話したら、
「まだボランティアには行っていないなぁ。被災地に行かなくちゃなぁ」
「ぜひ来てくれよ。待っているよ」
そんな会話を交わしたのでした。
冒頭の電話を受けたのは、それから1カ月ほどたったある日のこと。
地区協議会まちづくり分科会には研修費の予算があって、今年度は被災地の復興支援を計画していたのだそうです。しかし、なかなか具体的な受け入れ先が決まらないでいたところに、私の話を思い出してくれたのだそうです。
相談を受け、いくつか案を考えて彼女に伝えたのですが、その後の行動力は、さすが元美少女剣士。会社経営をこなしつつ、役所(若松町特別出張所)との調整や参加者募集、こちらとの連絡など、バッサバッサと片付けていきました。
私もそんな彼女のパワーに押されて、拙いながらも当日の案内役まで務めさせてもらうことになったのです。
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仙台・東京間は、バスで5~6時間。 路線バス運賃は閑散期の昼間が3,000円、繁忙期の夜行でも5,500円です。 ツアーバスならさらに安い場合もあります。 |
夜行バスに揺られて仙台駅東口に着いた一行は、70代男性を筆頭に10人。うち2名は女性。
23歳の息子さんとその父親の2世代で参加した人も。
新宿区若松町特別出張所の所長と職員2人も、私人として参加。
加えてあと2人、山形から私たちのクラスメイトも駆けつけてくれました。
「新宿区若松地区協議会まちづくり分科会」。名称が長過ぎるので、これからは「新宿組」と呼びます。・・・・・・「若松一家」まで付けたら、なんだかちょっとコワい人たちみたいですね(笑)?
このバス会社のグループ会社では、 震災の記憶を伝える「語り部タクシー」にも取り組んでいます。 |
作業開始の時刻まで余裕があるので、沿岸部の現状を見てもらいながら現地に向かうことにしました。
仙台港から多賀城を過ぎるあたりまでは、損壊したままの建物が時折目に入るほかは、あらかた片付いた感はあります。
しかし七ヶ浜町の高台を通って浜に降りると風景は一変します。
基礎だけが残った建物。田んぼだったのか畑だったのかさえ見分けられないほど草の茂る農地。壁が突き抜けたのに手付かずで取り残された無住の民家・・・。マイクロバスの車内に、深い溜息が広がります。
そんな皆さんに希望の光を見ていただきたくて、ある場所に案内しました。
七ヶ浜町・吉田浜にて(提供 井上敦さん) |
ここは収穫間近の大豆畑です。
えっ? 枯れ草の原っぱにしか見えませんか?
夏に食べる枝豆と、味噌や豆腐の原料となる大豆は、同じものです。まだ青い間に収穫すれば枝豆に、すっかり熟して乾いてからだと「大豆」として出荷できます。熟したあと十分に乾燥させるために、こうして生えたまま枯らしているのです。
もともとここは水田でした。津波で潮をかぶったために稲作が難しくなり、当面のつなぎとして大豆を栽培しています。
七ヶ浜町には川がなく、昔から「ため池」の水をを農業用水として使ってきました。かつては、たまった水は1回限り。大切に少しづつ落として使っていたそうです。動力ポンプが導入されてからは、最下流で集めた水をため池まで戻して繰り返し使っていました。
津波で使えなくなった農業用水設備 |
その機場(ポンプ施設)が津波によって破壊されたため、今は除塩をしようにもそのための水が無いのです。そこで、比較的塩分に強い大豆を栽培しているわけです。
宮城県は全国でも有数の大豆の産地です。ここには加工用として定評の高いミヤギシロメが植えられています。(平成24年8月に撮影) |
「本当にここまで津波が? 海なんてどこにも見えないのに・・・」
どうしても信じられないという表情で、一人がつぶやきました。
塩釜のマリンゲートの前を通過したのは、ちょうど観光遊覧船が到着した時でした。団体や家族連れが楽しげに乗り降りしていました。
仙石線の陸前浜田の近くまで来ると、右側の車窓に「これぞ松島」という風景が見え始めます。ちなみにここは、内陸部の町というイメージのある利府町の唯一の海岸です。
松島の瑞巌寺の近くにマイクロバスを停め、しばし休憩。「松島」も、瑞巌寺を中心としたこの松島町のエリアは、震災後の沿岸部としてはいち早く息を吹き返して観光客もだいぶ戻って来ています。まだ9時前というのに国道45号はそこそこ渋滞し、観光バスが何台も出入りしていました。
奥松島パークライン(県道27号)に入って、一路、宮戸島へ。交通量はどんどん少なくなっていきます。野蒜海岸まで来ると、まばらに立ち残った松の防潮林や、冠水した農地が目に入ってきます。
マイクロバスはようやく嵯峨渓を渡り宮戸島へ。江戸時代の地図には船の航路が示され、れっきとした海峡だったはずですが、今はほんの短い橋を渡るだけです。
さあ、ようやく今日の活動現場に到着です。
この続きは、あらためて。
(3回シリーズでお送りします)
次回は・・・
「新宿組」ボランティア随行記 その2 爪あとをいたわるように(東松島市宮戸島)
(取材日 平成24年11月17日)