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Channel: 宮城県復興応援ブログ ココロプレス
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今年もまた多くの出会いを。

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石野葉穂香です

明けましておめでとうございます。

『ココロプレス』の一員として、宮城県内、あちらこちらを走り回りましたが、いちばん出掛ける機会が多かったのは南三陸町です。

年末には、震災後の南三陸町の人々の日常を追いかけたドキュメンタリー映画『ガレキとラジオ』の現地上映会におじゃましました。

全国各地で開かれた「『ガレキとラジオ』を観る会」の会場で
観客が寄せ書きしてくれたフラッグ(の一部)です

映画上映のあとのトークショーでの梅村太郎監督のお話が、すごく印象に残っています。

「阪神淡路大震災は記憶が風化していくのが早かった。東日本大震災もそうなってはダメです。忘れずに、そして〝今〟をちゃんと知ることが大切です。
もうすぐ3年がたちますけれども、でも、被災地のためにできることはまだまだたくさんあります。きっと何かできる。被災地を、南三陸を忘れないために、いつだってアクションは起こせるんです――」

震災を忘れない。被災地のことを忘れない。
それが〝まだまだできること〟のはじめのひとつかなと思います。

こちらは「復興屋台村気仙沼横丁」の寄せ書きダルマ。
コメントびっしりです

そうして、今度は実際に町へ遊びに行ってみる。
「海鮮丼」を食べる。
魚屋さんで季節の魚を教えてもらう。
屋台村で地元の人と会話してみる。
仮設前のカフェでおばあちゃんの思い出話を聞く。
〝今〟を撮影して、FBやブログにアップしてみる……。

人と人が出会えば、それぞれの思いがぶつかり合って「摩擦熱」が生じます。
例えば友情や恋愛だって、その「熱」に浮かされてはじまったりするもの。
熱が長引いてまた出掛けたくなったり、心を温めあったり。

「南三陸さんさん商店街」の寄せ書き招き猫。
「南三陸町サ 遊びサ来てけさいんね~」

ほんと、できることって、まだまだたくさんあるはず。
『ココプレ』が、そんな〝出会いのキッカケ〟になれたらいいなと思っています。

今年もよろしくお願いいたします。


2014年、始まります

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あけましておめでとうございます。
昨年は、多くの方々と出会い、貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。
そして、ココロプレスを毎度、読んでいただいている皆さま、ありがとうございました。

2014年、初めてのChocoのブログですが、
私が温めておいた写真を紹介したいと思います。

「雨ニモマケズ」
岩手県花巻市

築100年以上の家の前にライトアップされているこの言葉は、私の故郷である岩手県の詩人、宮澤賢治のもので、私の好きな詩です。
実は、このライト、私の親戚の叔父さんが12月上旬から作り、飾ったものです。

この詩は、震災後に、日本中、世界中に広がったと聞きます。
震災から1カ月後の4月11日にアメリカのワシントン大聖堂で日本のための礼拝が行われたそうです。そこで、サミュエル・ロイド3世首席司祭が祈りを捧げた後、「雨ニモマケズ」の英語版を朗読したそうです。

—————————————
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
—————————————
この詩は、いつも私に心の強さを教えてくれます。
これからも1日1日を大切にしていこうと思います。

皆さまにとって、幸の多い年でありますように

今年もよろしくお願いいたします。

(平成26年1月1日)

しなやかな馬の走りで前へ

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新年おめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。
今年もよろしくお願いします。
皆さまにとって幸多き一年でありますことをお祈りしております。

少しずつ復興の進む気仙沼市

昨年もたくさんの方々にすばらしいお話を伺いました。
ありがとうございました。

今年は常に「命の有限性」を意識し
「一日一生」と心得え
私自身が精一杯生きることで「復興」の力になりたいと思います。

しなやかな馬の走りのように
被災地の復興が進んでいくことを願っています。



平成二十六年    元日

2014年、復興は続きます。

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新しい年が始まりました。


宮城県慶長使節船ミュージアム サン・ファン館
http://www.santjuan.or.jp/


ココロデスクです。

400年前、仙台藩祖伊達政宗は、このサン・ファン・バウティスタ号を建造し、ヨーロッパに使節を送り出しました。
東日本大震災に並ぶほどの被害をもたらしたと言われる「慶長の大津波」から、わずか2年後のことです。

絶望的な災厄に屈するどころか、それまでこの国には無かった西洋式艦船の建造にすぐさま挑戦した叡智。

大きな災いに正面から立ち向かい、未来を拓くために、まさにその災厄の元である大海原へと乗り出して行った勇気。

この叡智と勇気にも相通じる試みや取り組みが、まだまだ伝えきれないほどたくさん、今の宮城にはあります。

2014年もココロプレスは「復興の今」をお伝えしていきます。

映画『ガレキとラジオ』が伝えてくれたこと(南三陸町)

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石野葉穂香です。

『ガレキとラジオ』という映画をご存じでしょうか?

12月22日、その映画の舞台となった南三陸町で、「『ガレキとラジオ』を南三陸町で再び観る会」が開催されました。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

震災直後、被災地の市役所や町役場は、停電や通信の遮断などで、防災行政無線や防災メールといった手段が使えず、住民たちに知らせたい情報が発信できないもどかしさに苦しんでいました。
安否情報、物資の配給や炊き出しといった救援情報、地元の被災状況・・・・・・。大切な情報はたくさんあるのに、それをどうやって告知しようか?

そんなとき、大活躍したメディアがありました。

ラジオです。

全国各地で上映されたとき、観客の方々が「南三陸町の皆さんへ」と寄せてくださったメッセージ

震災直後、岩手、宮城、福島の3県では、20局を超える「臨時災害放送局(臨災局)」が開局しました。
「臨災局」とは、災害発生時、現地での被害を軽減するために、地方公共団体(市役所や役場)が開局できるFMラジオ放送局のこと。管轄官庁である総務省も、当時は電話一本の申請で、すぐに開局を許可していました。

そして2011年5月17日、震災から2カ月後の初夏、南三陸町でも「みなみさんりくさいがいFM=通称・FMみなさん」という、小さなラジオ局がコールサインを発信しました。

映画『ガレキとラジオ』は、その「FMみなさん」が放送を続けていた10カ月間の様子を追いかけたドキュメンタリー映画です。

同じくメッセージフラッグです。
ちなみに私(石野)は知り合いの知り合いの名前を発見しました

ラジオ局のスタッフは、元サラリーマン、元ダンプ運転手、元劇団員・・・・・・など地元住民男女9人。
スタジオは総合体育館「ベイサイドアリーナ」の2階トイレの前。
身分は自給840円の臨時雇用職員。
もちろん誰ひとり、ラジオの放送になど携わったこともありませんでした。

そんな〝素人集団〟が、試行錯誤、暗中模索を繰り返し、四苦八苦、七転び八起きしながら、被災地の人々を結び合わせ、リスナーを獲得していき、クリスマス会や「出発式」といったイベントなども開催していく――というストーリー。というか実話。
同局のスタッフたちの奮闘を中心に、被災後の町で〝あれからの日々〟を懸命に生きてきた人々の日常を、涙あり笑いありのエピソードで綴っています。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


映画の全国公開は2013年春でした。
南三陸町では前年の夏、実は試写会が開かれたのですが、そのときは告知不足だったせいか、観客数はわずか百数十名でした。

「地元が舞台の映画だもの。地元の人たちにこそ見てほしい。もう一度。今度はもっと多くの人たちに――」
愛知県から南三陸町役場へ応援職員として赴任している篠原英明さんや、多くのボランティアの方々が中心となって、今回、「『ガレキとラジオ』を南三陸町で再び観る会」が開催されたのでした。

篠原英明さん(左)と佐藤仁町長

篠原さんと、『ガレラジ』の出会いのエピソードは、『ココロプレス』の過去記事
『出会いこそ支援。派遣職員大活躍!』
 http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_331.html
を、ぜひご一読ください。

さて、この日の会場は、「FMみなさん」のスタジオも設置されていた町の総合体育館「ベイサイドアリーナ」です。
ちなみに「ベイサイドアリーナ」は震災直後、町の災害対策本部が置かれ、また津波から逃れてきた1500人もの方々が避難していた施設でもあります。

間もなく開演! 

この日の来場者は会場の定員いっぱいの480人。
映画上演はもちろん、元スタッフたちを交えたトークショー、スペシャルサポーターとしてやって来てくださった「ワタナベエンターテインメント」の所属タレント、歌手の皆さんによるコンサートなども行われました。

南三陸町へ駆けつけてくださった「ワタナベエンターテインメント」の皆さんです。
マルシアさん(中央)、泰万里子さん(マイク)、黒崎ジュンコさん、モノマネのあしべさん(帽子)、
奥村政佳さん(左)、そして「D-BOYS」の皆さん。
「D-BOYS」の皆さんは、上映時間中、別室で、町の子どもたちと一緒に遊んでくださっていました

スクリーンには、スタッフやリスナーのおばあちゃん、町の住民たち、子どもたちが過ごしてきた〝あれからの日々〟が生き生きと映し出され、会場には、時には笑いが起き、時にはそっと涙を拭う人も。

トークショーで、梅村太郎監督が
「震災後、ラジオから聞こえてきた佐藤仁町長の『町を助けてください』というメッセージを聞いて、自分に何ができるだろう、と考えたとき、自分にできることは映画人として『記録すること』だと思ったのです」

映画上映のあとのトークショーには、「FMみなさん」のスタッフも登場しました。
左から司会の宮島咲良さん、元ダンプ運転手で記者の和泉博文さん、
元サラリーマンでFMみなさんのリーダー工藤浩典さん、元自動車整備士でアナウンサーの芳賀淳さん、
映画『ガレキとラジオ』の梅村太郎監督、南三陸町の佐藤仁町長、
マルシアさん、泰万里子さん、アカペラグループ「RAG FAIR」の奥村政佳さん、俳優の土屋シオンさん

そして、
「阪神淡路大震災は、実は風化して行くのも早かった。東日本大震災もそうなってしまっちゃいけない。忘れずに、ちゃんと知ることが大切です。もうすぐ3年が経ちますけれども、でも、まだまだ僕たちは、被災地のために〝何か〟ができる。被災地を、南三陸を忘れないために、いつだって〝何か〟はできるんです――」
と語っていたのがとても心に残りました。

このあとは、お待ちかねのコンサート。
ワタナベエンターテインメントの皆さんによる、歌やモノマネによる楽しいアトラクションが、会場を盛り上げてくださいました。

ステキな歌や楽しいモノマネなどで会場はもう笑顔、笑顔

出演者の皆さんと記念撮影ができるプレゼント抽選会も行われました

『ガレキとラジオ』は、実は、映画館での上映は、もう終了しています。
しかし、「ぜひ観たい!」「もう一度観たい!」という声は、今もプロダクションに続々と届いていて、上映会は、日本各地で開催され続けています。

自分の町や地域で観たい、学校で子どもたちと観たい、学園祭で観たい、会社のみんなで観たい・・・・・・という方は、こちら→ 「ガレキとラジオ公式サイト」http://www.311movie.com/ から、
さらにこちら →http://www.311movie.com/screening.html へアクセスしてください。

『ガレキとラジオ』のウォールペーパー。
なお映画のナレーションは役所広司さん、
音楽はMONKEY MAJIKの皆さんです
目標は全国1000カ所での上映です。
震災を忘れない、南三陸を忘れない。
忘れずにいること。被災地の今を見に行くこと。まずは〝遊び〟に行ってみること。

そして、誰かと出会って、一緒に泣いたり笑ったり。

できることってまだまだたくさんあるんだ・・・・・・。
元気と勇気がもらえます。

出演者の皆さんと記念撮影。楽しいひとときでした

――震災直後の現地では、その景色、そこに暮らす人々に、カメラのレンズを向けることが何となくはばかられるムードがありました。
けれども、地元の方々は、デジカメも携帯電話も流されたり壊れてしまったりして「自分たちの町に起きた〝あの日〟こと、そして〝あれからの日々〟を記録できなかったことがひどく残念だった」とおっしゃっています。

左から、「FMみなさん」の元スタッフで映画の出演者でもある和泉さん、工藤さん、
(出演はしていませんが)佐藤仁町長、そして芳賀さん。
そして〝スクリーンの中にいた〟多くの皆さんです
映画『ガレキとラジオ』は、そんな大切な日々の記録でもあります。
映像が、記録が残されて、ほんとうによかった。
そうして私たちも、感動と勇気をもらうことができた。

そう思わせてくれる映画です。
『ココロプレス』もおすすめします。

あなたの町で、あるいは職場で、学校で、「『ガレキとラジオ』を〝もっと観る会〟」を、ぜひ開催してみませんか?

「ガレキとラジオ 公式サイト」 http://www.311movie.com/
「ガレキとラジオ Facebook」 https://www.facebook.com/garekitorajio

(取材日 平成25年12月22日)

東日本大震災から1000日~乳幼児と母親たちを支えてきたNPOピースジャム~(気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。

平成25年12月4日で東日本大震災から1000日を迎えました。
この間、たくさんの人にお会いし、たくさんのご支援をいただきました。心から感謝しています。
未曾有の大震災と大津波から1000日。
未だ(平成25年11月8日現在)2651人の方が行方不明のままです。1日も早く行方不明の方が家族のもとへ帰れるようにお祈りしています。

被災された皆さんにはとても長い1000日だったことでしょう。
被災地を見守っている皆さんには「復興」に向かう被災地がどう映っているのでしょうか。

これまでココロプレスで取材させていただいた中で、現在も「復興」に向けて努力されている方々から震災から1000日を前にメッセージをいただきました。

気仙沼で東日本大震災を機に立ち上がった、赤ちゃんとママを救済する団体「NPO法人PEACE JAM」の副代表、齋藤賢吾さんに震災から1000日を振り返っていただきました。

気仙沼で母子支援を続ける齋藤賢吾さん

「震災当初はこの活動も1年もたてば必要が無くなると考えていました。しかし、活動を続けていく中でさまざまな問題にぶち当たることとなり、継続的な活動の必要性を感じています」

「震災により街の様子や人々の生活も変りましたが、人の経験や知識、心はずっと積み重なり残っています」

「街があるから人がいるのではなく、人がいるから街になるのだと思います。住民それぞれが一丸となって次の世代へ希望をつなぐ地域づくりを行っていくことが大切だと感じています。私もその一人として精進していきます。」



齋藤賢吾


齋藤さんは理想の「イクメン」(育児に積極的に取り組む男性)です。イクメンだから気が付く支援があると活動を見ていて感じています。

「PEACE JAM」とkaiiの出会いは震災から2週間ほどが過ぎたある日。
地元の水産会社の軽トラックに乗って、見知らぬ男性が
「子どもの支援にきました。支援の必要な乳幼児はいませんか」
と訪ねて来たのが、齋藤さんとの出会いでした。

その地域の中には乳幼児はいなかったので、代わりに中山間地域に避難した人たちの支援をお願いしました。

オムツがない。
ミルクがない。

震災直後の混乱の中で、PEACE JAMが続けた支援に救われた母親たちがたくさんいます。


現在PEACE JAMは、被災した母親が就業と育児を両立させながら地域のママ・ネットワークを形成できるように活動するための施設を、気仙沼市内に、建設中です。

母親たちの作る野菜を使ったジャムも、デザインをリニューアルしました。
母親たちの作るその無添加ジャムは多くの人に好評を得ています。

「PEACE JAM」のスタッフの皆さんが懸命に地域の中で子どもたちや母親たちの支援活動を続けていることに感謝しています。

母親だから見えること。
父親だから感じること。

その2つの目線がこの団体の活動を支えていると感じています。

(取材日 平成25年11月22日)

東日本大震災から1000日、3266の灯火 2(石巻市)

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こんにちは、Chocoです。
先日に続いて、石巻市門脇で行なわれた「東日本大震災1000日追悼の灯火」のお話をしようと思います。

2013年12月25日水曜日
東日本大震災から1000日、3266の灯火 1(石巻市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/12/10003266-1.html


この日は、雪は降らないものの冷たい風が吹き、冬の厳しい寒さを感じる夜でした。
そこには地元住民、ボランティア等、多くの人が集まり、1000日の追悼を行いました。

ここに集まった灯籠の数は3266個です。(実行委員会の調べ)
石巻市内の犠牲者の数に合わせて、灯籠に火が灯されました。
風の強い中、スタッフの方々が、灯が絶えないようにと灯籠を見て回っていました。




今回、その3266の灯火の中に1人のアメリカ人女性の灯があります。
アメリカバージニア州出身のテイラーアンダーソンさんです。
震災当時、24歳だった彼女は、2008年に来日し、外国語指導助手(ALT)として石巻の小・中学校で英語の教師をしていました。
震災当時、万石浦小学校にいた彼女は、怖がる生徒を励ましていたそうです。
そして児童を保護者に引き渡したのを見届けた後、自転車で帰宅最中に津波の被害に遭いました。

震災から1000日、
遠く離れた地にも、津波によって大切な人を亡くし、悲しんでいる人たちがいます。
アンダーソン夫妻もその中の1人です。
3266個の灯火を見つめていたお2人は、最愛の娘、テイラーさんを亡くしました。
異国の地、日本に移り住んでいた娘が帰らぬ人となり、深い悲しみがお2人を襲いました。
しかし、お2人は、それを強い意志へと変わっていきました。
それは、テイラーさんの日本を愛する遺志を継ぐということです。
テイラー・アンダーソンメモリアル基金を立ち上げ、震災後は、石巻を中心に本や本棚を学校や幼稚園に寄贈するなどの活動をしています。

今年の春には、テイラーさんのドキュメンタリー映画が公開されました。


                                                 Andy and Jean
"You inspire us and keep us moving forward.
 Our bonds helps us heal. 
 We send our love + hope to you +we thank you for your support.
 We will never forget our daughter + We will never forget you.
 Being here tonight has been a wonderful for bringing us all together tonight. 
 We wish you well.   Jean +Andy

 P.S. We look forward to seeing you again. We are with you everyday."
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(私たちはあなた方に会い、前を向いて生きていくという力を頂きました。
あなた方との絆は、私たちの心を癒してくれます。
私たちから皆さんに愛と希望を送るとともに、私たちへの支援に対し、感謝しています。
私たちは決して娘を忘れることも、皆さんを忘れることもありません。
今夜、この場にいることができて本当に良かったです。
このような機会をつくってくれたボランティアの皆さんに感謝します。
どうぞ、皆さんが元気でありますように。 ジェーン+アンディー

追伸、また皆さんに会えるのを楽しみにしています。私たちの心はいつも皆さんと一緒です。)





静かに流れる時間の中で、ろうそくの1本1本の灯火が大きな光となり、訪れた人々を優しく包んでいました。

1000日が過ぎ、東日本大震災から3度目の年越しが訪れます。
少しでも多くの命が助かるようにと、自分の命を落としてまでその強い意思を貫いた方々が犠牲となった東日本大震災。

震災から1000日、日和大橋のたもとにあった瓦礫や山積みになった車は、もうなくなっています。瓦礫や廃墟は殆ど解体されてきています。
住宅が密集していた場所は、もう更地になっています。
建物も新しく建ち始めています。

「節目・・・」
地元のお母さんは、そう語りました。
目で見えるモノは、少しずつ変化しています。しかし、ここに住む人たちには、まだまだ辛い現実の中にいます。

私も何度も何度も同じことを言ってしまいますが、
「だからこそ、笑顔で・・・」と前向きに進んで行こうと頑張っている人たちが本当にたくさんいます。
1000日が過ぎて、ここで多くの人々に出会うことができました。
辛い想い、苦しい想い、
前向きに頑張る姿、絶対もっともっと良い町にすると実行し続けている姿、
たくさんの方々が私に教えてくれたこと、
それは「生きる」ということでした。
朝、目が覚めて、「おはよう」と声を掛ける・・・。
夜、家に帰ってきて、家族と夕ご飯を食べる・・・。
何気なくしていたことが、とても大切に思えました。

「これからは、1日1日を大切にしよう・・・」
と、思うのですが、人間は忘れやすい生き物です。
私も忘れてしまっていました。

今回、3266個の灯火を見て、
「1日1日、その瞬間を大切にしていく」ことを、再び強く想いました。

(取材日 平成25年12月5日)

「『衣・食・住』だけでは人は人として生きられぬ」~街のちいさな美術館が提唱~(仙台市若林区)

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こんにちはエムです。

仙台市にありながら「福島美術館」という名前の美術館があるのをご存知ですか?
それは民間で経営してい小さな美術館で、なんでも実業家だった福島家が三代にわたり収集した美術品を収蔵・展示しているとか。
恥ずかしながら私も、今回の取材で初めて知ることができました。

若林区土樋の静かな住宅地。この辺りはかつてお屋敷町だった

「福島美術館」では東日本大震災での美術品の被害は最小限にとどまったものの、建物の被害は大きく、民間の経営ではとてもまかなえない額の修繕費が必要でした。
当時たった1人の学芸員、尾暮まゆみさんは途方に暮れました。寄付による修繕費の確保を思い付いたのは震災があった平成23年の10月中旬。「七幅絵はがき募金」として情報を発信しました。

「七福絵はがき」めでたい図柄の中にもユーモアで笑いを誘うものなど
尾暮さんが厳選した7つの福の絵は全て「福島美術館」所蔵

「七幅絵はがき募金」とは美術館所蔵の中から厳選した、「幸せ、祈り、願い、ゲンキ」の思いの詰まった7点の絵を絵はがきにし、募金していただいた方に差し上げるものです。
その反響は大きく、予想をはるかに越えた支援の輪が広がり、建物の修復が可能になりました。多くの方のご協力により、昨年(平成24年)8月末に修復工事を終えた福島美術館はその年、「七福絵はがき募金」を初めて受けた1年後の12月19日に再開することができました。

「ココロプレス」でも今年、福島美術館の震災による被災から再開までの詳しい経緯を掲載させていただきました。

【平成25年1月24日付 街のちいさな美術館の再開(仙台市若林区)】

私が取材に伺ったのは再開からちょうど1年目の12月19日。何となくうれしい気持ちで取材させていただきました。

「福島美術館」は「社会福祉法人 共生福祉会 ライフセンター」
に併設された美術館です

「福島美術館」は昭和55年、共生福祉開館(ライフセンター)内に開館した美術館で、4階建ての2、3階部分に展示室が併設されています。

「平成24年12月の開館までは建物の修復に追われ、資料の修復にまで手が回りませんでした」
そう語るのは学芸員の尾暮さん。

資料の破損は少なかったとはいえ、やはり被害はありました。修復にはそれなりに時間も予算もかかります。人手も足りてない中、今年度から文化庁・震災ミュージアム再興事業の補助金を活用して、やっと資料の修復に着手できているそうです。

展示室の掛け軸

「ここにある物は国宝や重要文化財のような超一流の物ではありません。でも、壊れた物を直してあげないと、震災は終わらないなと思っているんです」

「仙台の街のちいさな美術館の灯を消したくない」「収蔵資料を後世にしっかり伝えたい」
尾暮さんのそんな気持ちは今回、“募金” という形で多くの人の賛同を得ることになり、いただいた募金は資料の修復にもつながっています。


資料修復の経過については「福島美術館」ホームページをご覧ください

それにしても「福島美術館」には、掛け軸、仏像、絵画、書、陶器や真空管のラジオなど多方面にわたる美術品や工芸品、古書籍が収蔵されており、中には仙台藩伊達家からの書や絵画、文書など歴史的価値のあるものなど、江戸時代から昭和初期にかけての三千点を越える所蔵品を有しています。それが、三代にわたって集めた個人のコレクションだった物というのは驚きです。
福島禎蔵(ていぞう)氏(1890~1979)が設立した社会福祉法人 共生福祉会に生前に寄贈され「福島美術館」ができたそうですが、「福祉」と「美術館」のつながりとは何だったのでしょうか。


3階にある展示室

尾暮さんによると、実業家であった福島家では、「社会からいただいたお金は社会に還元しなければならない」という教えがあったそうです。
福島禎蔵氏の祖父 運蔵氏、父 與惣吾郎氏は共に美術への関心が高く作品を入手する機会が多かった福島家。
特に三代目の禎蔵氏の関心は美術にとどまらず、地産地消を先駆けて考えたビール会社「東洋醸造株式会社」の設立。仙台NHKの誘致にも力を注ぎ、日本放送協会東北支部を創設しました。仙台での最初のラジオ放送は福島家を放送局として実現させたそうです。また、「東洋刃物」を株式会社にと、興味の対象は広く、思い切った展開を成し遂げていました。

今では珍しい真空管を使ったラジオ
このラジオでラジオ放送を聞きながらお茶を飲む企画もありました

特に「福祉」「文化」への関心は高く、生前禎蔵氏は「『衣・食・住』だけでは人は人として成り立たない」と提唱していたそうです。

昭和中頃までの仙台駅東口付近は、生きるのに精一杯の人たちが多く、治安も乱れていました。その様子に心を痛めていた禎蔵氏は、女性や青少年に手に技術や職を身につけさせたいとの考えに至りました。そこで福島家の屋敷の土地を一部提供し「ライフセンター」を建設(昭和48年完成)したのです。
「ライフセンター」は今で言うカルチャーセンターのような、文化や教養を身に付ける学校のようなものでした。中では書道、料理、和裁などを教えていたそうです。

さらに体に重度の障がいを持つ人々の生活や、就労の支援を行うための「社会福祉法人 共生福祉会」を設立(昭和40年)していた禎蔵氏は、当時、他人の目を気にして外に出ることもできなかった障害のある人と市民が、共に文化に触れ楽しめる機会が必要との考えから、「ライフセンター」内に美術館を設ける構想も含ませました。

こうして、福祉と文化の両面から社会に奉仕することを願った福島禎蔵氏の「福島美術館」が作られました。
しかし残念なことに禎蔵氏は、美術館開館の前年、昭和54年に亡くなられています。

展示品について詳しく説明してくださった尾暮さん

「ここにあるものは大正から昭和にかけてのものが多いのですが、超一級品ではないかもしれません。でも、昔おじいちゃんやおばあちゃんの家で見たような、どこか懐かしいものだと思うんです」
「とても悲しいことに、今回の震災でたくさんの家が流されてしまいましたが、その家にもあったような、昔はそれほど大事に思ってなかったけれど、今考えると大事に思える懐かしいものに会える場所。それが『福島美術館』だと思うのです。心にゆとりができた時に、ふと行ってみたい場所、身近な思い出とゆっくり向き合える場所になったらいいなぁ、と思います」

そんな尾暮さんの気持ちを証明するかのように、震災後訪れた方の中には
「震災後、美術館のことを心配していた高齢の母親の代わりに来ました」という方や、リピーターだった方が震災後、ようやく訪れた美術館の最初の場所になったという方もいたそうです。
なるほど、だからこそ尾暮さんは禎蔵氏の遺志に共感して受け継ぎ、「仙台の街のちいさな美術館の灯を消したくない」「収蔵資料を後世にしっかり伝えたい」と頑張っているのですね。

「七福絵はがき募金」のお返しには7枚の絵はがきの他、美術館への無期限の入場券も同封されており、その券を持って来館された方も多かったそうです。


「七福グッズ・双喜図ポケットファイル」500円
「七福グッズ・七福シール」300円

 「福島美術館」では平成24年12月、再開を機に新たに3種類の「福島美術館」のオリジナルグッズを作りました。多くの方の支援で再開を果たした感謝を込め、少しでも多くの “福” が届けられるようにと作られた「七福グッズ」です。
収益金は、まだまだ必要な「福島美術館」運営・維持金として活用されます。

「七福グッズ・昆虫大名行列図しおり」300円


引き続き「福島美術館支援・七福絵はがき募金」へのご協力も併せてお願いいたします。


「予想を上回るご支援をいただき、このちいさな美術館を思ってくださる方々の
広がりを改めて思い知らされました。ありがとうございました」
☆尾暮まゆみさんによる作品解説をご希望の場合は、あらかじめご連絡ください。
 日程を調整させていただきます。

○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○ー○
【福島美術館展示のお知らせ】
〈平成26年 新春恒例めでた掛け〉
平成26年1月7日(火)~3月2日(日) 
休館日 1月13日以外の月曜日 1月14(火)、2月2日(日)、2月12日(水)
時 間 9:00~16:30
入館料 一般 300円、学生 200円(高校生以下、70歳以上、障がい者の方は無料)
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「七福絵はがき募金」「七福グッズ」
ご希望の方は郵便振込、または直接窓口へ
《郵便振込》
口座番号 02200-0-134324
口座名 福島美術館

※「七福絵はがき募金」は一口2,000円以上でお願いいたします。

※ 「七福グッズ」の購入方法、企画展示の情報など詳しくは福島美術館のホームページをご覧いただくか、直接お問い合わせください。

福島美術館
〒984-0065 宮城県仙台市若林区土樋288-2
電話 022-266-1535
ホームページ
http:/www.fukushima-museum.jp/

(取材日 平成25年12月19日)

絵本で残す生きた軌跡「優しいあかりにつつまれて」(名取市閖上)

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エムです。

12月の冷たい雨が止んだ曇り空のある日、私は東日本大震災の津波によって家族4人を失った、ある家族を訪ねました。

竹澤守雅さんと妻さおりさんは、さおりさんの父親を津波で失くし、ずっと行方が分からなかった祖母はようやくこの秋、DNA鑑定で見つかりました。しかし母親と当時8カ月だった長男雅人ちゃんの行方がいまだに分かっていません。

震災当時、さおりさんの実家があった名取市閖上に雅人ちゃんを預けていた時、東日本大震災が発生したのでした。
やり場の無い悲しみを抱え、復興に向かう社会との乖離(かいり)に戸惑いながら、生きる意味や道を見つけようとしてきた2年10カ月。その時間の流れは竹澤さん夫婦にとって長かったのか短かったのか、私たちには想像することもできません。一見普通に生活をしているように見える現在ですが、今も懸命に雅人ちゃんと母親の捜索を続けています。

そのような暮らしの中、さおりさんは平成26年1月、もう1人のママと共に、1冊の絵本を出版します。
タイトルは「優しいあかりにつつまれて」

チラシ表面

もう1人のママである著者のたかいちづさんは、19年前の阪神淡路大震災で当時1歳半だった長男しょうくんを亡くしています。阪神淡路大震災と東日本大震災、大きな2つの災害で小さな命を亡くした2人のママが運命のように出会い、今回の出版につながりました。

双子の兄妹だった たかいさんの長女ゆうさんは、来年成人式を迎えます。
ゆうさんのために振り袖を用意するように、亡くなったしょうくんへの思いを綴った絵本を用意したかった たかいさんと、震災後生まれた長女に、自分たち家族に起きた事をいつか知ってもらうのに、絵本が良いと考えていたもう1人の著者さおりさん。
そんな2人は辛い体験と思いが共鳴し、家族ぐるみで交流を重ねてきました。
一時は、どうやって生きていけばいいのか、真っ暗な闇の中にいた竹澤さん夫婦が少しづつ力付けられ、どうにかここまでやってこれたのには、たかいさんとの出会いが大きかったと言います。


チラシ裏面(印刷して注文書としてお使いいただけます)

同じ境遇の人同士でしか分かち合えない思いを語り合ううちに、絵本を作りたいという同じ気持ちがあることを知ったのは今年(平成25年)3月のこと。
その後、絵本にとって大事なイラストレーターを探していたたかいさんは、ネット上で「ひらたゆうこ」さんと「ひらたひさこ」さんという双子のイラストレーターを見つけました。
画風が気に入ったたかいさんですが、同じ双子だということにも運命的なものを感じ、お願いする事にしたのだそうです。
しかも2人のひらたさんの誕生日は竹澤雅人くんと同じ日。

偶然とは思えない出会いの中から生まれたこの絵本は、もちろん悲しい体験から生まれたものです。
ですが、同じ体験をしてはいなくとも、日々、何らかの葛藤や悲しみを抱え、なんとか生きていこうと頑張っている人の心に響く力、そして勇気を与えてくれるような温かさに満ちているのはなぜなのでしょう。

さおりさん著「いっしょに」より(© ひらたひさこ)

「優しいあかりにつつまれて」は出版前から各分野で話題になり、平成25年6月末にはNHKの「あさイチ」でも取り上げられました。
その頃はまだイラストも数ページしかできていなかったそうですが「1ページ1ページとイラストが上がってくると、感謝と感激でうれしかった」と守雅さんは言いました。
現在は印刷に入り、出来上がりを待つだけですが、色校正のための絵本を手にした時、守雅さんは「雅人がここに帰ってきてくれた」と感じたそうです。

さおりさん著「いっしょに」より(© ひらたひさこ)

「自費出版ですが、ここまでくるのにたくさんの人が関わっています。出版社の方に相談にのっていただいたり、寄稿してくださった方など、いろいろな人に協力していただきました。
初めは気楽な気持ちで、手作りで作ろうと思っていた絵本がこんな立派な絵本になって、大勢の人に読んでもらえる事になりました。皆さんに支えられて、これからも生きていくんだという気持ちが増えたみたいです。感謝の気持ちでいっぱいです」
さおりさんが言いました。

部屋には笑顔の雅人ちゃんの写真が飾られています

多くの人は(私も含めて)自分の辛い体験を公表するにはためらいがあります。
誰にも触れてほしくない気持ちもありますし、心ない言葉でさらに傷付くかもしれません。
たかいさんと竹澤さんが絵本という形で公表するには、なんらかの理由があったはずです。

双子の兄妹のお母さんだった たかいさんは子どもを失った時、これから自分はどう生きていけばいいのか、その悲しみの中で幼い娘をどう育てていけばいいのか、この小さな娘の悲しみをどう受け止めてあげればいいのかが分からなかったそうです。
たかいさんは、同じ経験をした人がどう生きてたかを知りたくて子どもを亡くした人の文集などを読んだりしたました。
そしてまた、きょうだいを亡くした子どもたちがきょうだいを失った悲しみの中でどう育っていくかも知りたかった たかいさんは、そういった内容のものを探しましたが、見つけることはできませんでした。
そんな経験から、この絵本が、子どもを失った人が悲しみの中でどう生きればいいのか、きょうだいを失った子どもも親と同じように悲しんで生きていることを知っていただくきっかけになればと話しています。

さおりさんもまた「多くの人にこんな子が居たと知ってほしい」
「(もちろん起きない方が良いですが)今後、大きな災害などで子どもを失くした自分たちのような境遇の人がいたときに、自分たちがどんなふうに生きてきたのかを残したい。そして、いつかたどり着いてくれたらいいと考えています」

2人はそんな気持ちを勇気を支えに「絵本」という形で公表することにしました。

だからこそそこには悲しみだけではない、たくさんの勇気と慈愛が描かれ、読んだ人の心を温かく包むのではないでしょうか。
たかいさんとさおりさんの決心と愛の詰まった絵本、「優しいあかりにつつまれて」
平成26年1月13日に発売されます。


たくさんの人に支えられた感謝の気持ちを語ってくださった竹澤さん夫婦
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「優しいあかりにつつまれて」はFAXかインターネットで注文することができます。

(株)くとうてん 気付「オフィス 優しいあかり」
絵本の表紙
FAX/078-332-3415
 ・送り先住所 ・氏名 ・電話番号 ・FAX番号
 ・メールアドレス ・申し込み冊数 
をお書きのうえ上記の番号にお申し込みください。
※ 支払い方法や発送方法などのお知らせをいたしますので連絡用に必要です。
(上記画像のチラシ裏面を印刷したもので申し込みくださると便利です)

インターネット
『優しいあかりにつつまれて』
http://yasasiiakarinitutumarete.web.fc2.com/

1冊¥1,680(¥1600+税)
※平成26年4月1日より消費税8%のため¥1,728になります。
(売り上げの一部を東日本大震災の行方不明者捜索活動などに寄付させていただきます)

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竹澤守雅さん ブログ「雅人のとうちゃん」 http://takesaotakeyan.blog51.fc2.com/

ツイッター「雅人のとうちゃん」
http://twitter.com/takesaotakeyan

《ふたごのイラストレーター「ラクガキ屋 ユウとヒサ」》
ひらたゆうこHP http://rakugakiya-yh.com/
ひらたひさこHP http://rakugakiya-hisa.com/

☆平成26年1月16日(木)にNHK「あさイチ」で紹介番組が放送予定

(取材日 平成25年12月21日)

2013年から2014年へ~復旧から再生へ~(気仙沼市)

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新年おめでとうございます。kaiiです。

今年は暖かな元日で「初詣」も足元を気にせず歩けました。
元日から2日に変わる頃から降り出した雪がつもり、今年も積雪のお正月。
「年始廻り」や「初売」の足は鈍くなりました。

「景気が回復傾向」、「震災から3回目のお正月」は、皆さんにはどんなお正月だったでしょうか。

10月頃から全国的に「マグロ不漁」のニュースが流れました。
12月末には、気仙沼に入港する漁船の漁獲物がメカジキ中心でマグロの水揚げ量は1日10尾未満というニュースが流れました。
お正月には欠かせないマグロが、冷凍品も含め高値に推移しました。

秋に大きな被害をもたらした台風26号の影響などで、養殖カキやホタテの価格は例年より高めでした。
野菜の価格も秋の天候不順の影響により例年より高めに推移しました。

平成26年12月30日の気仙沼の様子

30日は時雨模様の一日でした。お正月準備をする人たちで気仙沼市内の大型スーパーは混雑していました。マグロやカニが売れていました。

平成26年12月30日の気仙沼の様子

花屋や青果店の店先には生花用の「ナンテン」や「ハボタン」などがたくさん並んでいました。
「ナンテン」は「難を転ずる」という縁起物なのだそうです。
郊外型の大型店舗に人が集中し、気仙沼の旧市内や津波の被害の大きかった地域の仮設店舗などへの人出は少なかったです。

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気仙沼の大晦日は、朝方に降った雨が凍って朝の路面はアイスバーンの状態でしたが、その後天候は回復し暖かな大晦日になりました。

平成25年の最後の日も、復興工事は続けられていました。

平成25年12月31日の朝日

平成26年1月1日の気仙沼湾風景(コンブの養殖いかだ)


気仙沼湾で養殖漁業を営む人たちは復興工事が進むことを喜びながらも、工事により海水の水質が変化することや海水の流れが変化することを心配していました。

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平成26年の気仙沼の元日は朝から時雨(しぐれ)てはいましたが、日中の気温が7℃台と暖かでした。
震災の津波火災で本殿が焼失した気仙沼市大浦の厳島神社にも、早朝から多くの人が参拝に訪れていました。

気仙沼市の母なる山安波山も穏やかな表情です
(平成26年1月1日撮影)

気仙沼市内の海岸の復興工事は順調に進められています。
2つの写真を見比べてみてください。

津波で地盤沈下した護岸の工事は順調に進められています
(平成26年1月1日撮影)



(平成25年1月6日撮影)

(平成25年1月6日撮影)

震災後3回目のお正月を迎え、我が家では震災後中止されていた「年始廻り」が復活し震災前のお正月の姿を取り戻しました。
「こんな時にしか親戚が顔を合わせることがないから、簡素化もいいけどこうしてお互いの近況を確認できるのもいいな。親戚同士はいつでも会えるようでなかなか会えないからな」と話す親戚もいます。

「復興はなかなか進まない」と感じている人もいますが、写真で見比べると少しずつ前に進んでいることが確認できます。

宮城県の復興計画では、震災からの3年間のインフラなどの整備を中心とした復旧期から、次のステップ再生期へと平成26年度から移行します。

私たちの生活も少しずつ前へ。そして心も前へ進んでいければと思います。

今年もよろしくお願いします。

(取材日 平成25年12月30日、31日、平成26年1月1日)

「星空に一番近い港町気仙沼」を願い(気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。

この冬、話題になったアイソン彗星の接近を楽しみにされていた方も多いと思います。いよいよアイソン彗星が観測できると楽しみにしていましたら、崩壊して肉眼での観測ができなくなりとても残念でした。

気仙沼市は、あまり知られていませんが、肉眼や双眼鏡で星空観察をする「全国星空継続観察」(主催:環境省)で2度も1位になったことがあるほどの、「星空の美しい町」です。

そんな気仙沼が「星空に一番近い港町」になることを目指してるい人がいます。
NPO法人「気仙沼銀河学校」の伊藤雄一郎さんです。
伊藤さんは、世界的に広がる「光害」を防止して気仙沼の「美しい星空」を守ろうと活動を続けています。

気仙沼銀河学校校長 伊藤雄一郎さん
「美しい星空を守る」と活動中です

「光害(ひかりがい)」についてみなさんはご存じでしょうか。
私は伊藤さんにお会いして初めて、「光害」という公害を知りました。

近年、世界中で人工の光による「光害」が深刻化しています。
光害は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)やWWF(世界自然保護基金)などの世界機関も取り組みを進めている公害の一つです。
過剰または不要な光による公害で、夜空が明るくなり、天体観測に障害を及ぼしたり生態系を混乱させたり、エネルギーの浪費の一因になると考えられています。

日本でも環境省が平成10年3月に「光害対策ガイドライン」を示し、日本各地の市町村で「光害に対する条例」の制定が始まっています。

伊藤さんは、平成13年当時住んでいた長崎県佐世保市で、自らが校長となり「銀河学校」を発足させました。
この「銀河学校」で、「天文学の普及と光害の防止の啓発のため」と、市民の有志や天文協会、光学ショップ、行政の協力を得て、「光害」対策の取り組みを始めました。

そして、故郷の気仙沼に帰郷してからもこの活動を続けています。

伊藤さんは写真もたくさん撮っています
南町のギャラリーはとてもすてきな写真がいっぱいです
美しいリアス海岸から見上げる星空が新たな観光資源となり、星を見るために気仙沼を訪れる人が増えることを伊藤さんは願っています。 
気仙沼湾に入港する漁船と夜空の無数の星を一緒に眺めながら、気仙沼のおいしいものを食べることを観光客に楽しんでほしいと伊藤さんは話します。
「星空」を気仙沼の新たな雇用の創出につなげていきたいと活動を続けています。

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震災後に伊藤さんが拾い集めて洗濯した大漁旗
風の広場の風景

伊藤さんが震災前に住んでいた南町地域は気仙沼湾の目の前にあり、飲食店や金融機関などが立ち並んでいる町の中心地域でした。
震災から2年9カ月経った今も、大潮や大雨などの時は冠水が起こります。防潮堤の設置や土地の嵩上げなどこれから復興に向かって動き出していく地域です。
昔は「魚屋」「駄菓子屋」「餅屋」「たいやき屋」「おでん屋」など、この地域にはたくさんのお店があってとても楽しかったと、伊藤さんは思い出を話します。
昔なじみの人たちが、またこの地域に戻ってきて活気ある地域になっていけばいいと話します。


この地域で共に暮らした人たちに、ここで暮らしていたことを忘れないでいてほしいと、伊藤さんは自宅があった場所に「グランドゼロ(風の広場)」を作り、四季折々の飾りつけをしています。地域のシンボルとして。



「復興」という目標に向かって一生懸命歩みを進める人たちのスタイルはそれぞれ違います。
共通するのは、「今」だけではなく「未来」のためにという強い思いです。
未来に今以上に「すてきな町」を引き継ぎたいという気持ちが、「復興」への原動力になっていることを感じます。

(取材日 平成25年11月28日)

「生きやすい居場所」をつくる(石巻市)

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こんにちは。kaiiです。

RSウィルスに感染している人が全国で4000人を超えたとのニュースが流れています。特効薬のないノロウィルスなどに罹患しやすい時期です。手洗い・うがいの励行に努めましょう。

少しずつ目に見える「復興」はどこの町でも進んでいますが、私は「人の心の復興」は停滞しているように感じています。
東日本大震災で地域の高齢化は急速に加速し、「おたがいさま」が支えていた地域の中の人間関係や生活が大きく変化しました。この変化が「人の心の復興」、特に高齢者の「心の復興」に影響していると自分の生活の中で感じています。


今回は社団法人宮城県精神保健福祉協会「心のケアセンター」から宮城県石巻保健所に派遣されている精神科認定看護師の内田朋子さんにお話を伺いました。

内田朋子さんは老年期精神、障がい分野を専門とする精神科の認定看護師です。
震災後、勤務していた精神科の病院が津波の被害で閉院したため、震災以前からの希望もあり地域の中で心の問題で困っている人たちのために仕事をしています。

内田さんは、病院を離れ地域の中で仕事をしていると、地域の中に潜在的に心の問題で困っている人が多いことに気がついたといいます。
心の問題を抱えて「生きにくさ」に悩んでいる人が多いと話します。
「生きにくさ」とはどんなことなのでしょうか?

内田さんは「生きにくさ」とは人々のネガティブな気持ちだと話します。
ネガティブな気持ちとは「否定的な」「消極的な」「後ろ向きな」「負の」「暗い」心の問題を示します。
「どうせダメだから・・・」「どうせできないんだから」「うまくいきっこない」などの気持ちです。こんな気持ちを抱えていると周りの人たちとのコミュニケーションがうまく図れず孤立したり、体や心に変調をきたし、就労が困難になるなどの問題にも直面することがあります。
こんな悩みを抱える人たちをケアできる環境が不足していると内田さんは考えています。地域の中に「自分を活かせる場所=生きがい」を見つけると、内側に向いた暗い気持ちから脱するチャンスを得られます。私たちは「生きにくさ」を抱えている人たちの価値観を理解して受け容れていく環境を考えていく必要性があるとも言います。
どうしても私たちは他人を自分の型に入れて物事を考えがちですが、自分がゆっくりその人に合わせて物事を考えることが個人を活かす環境につながると内田さんは話します。

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内田さんは将来、「生きにくさ」を感じている人たちの「居場所」を作り自分を活かせる環境を提供したいと考えています。一人ひとりの思いを大切にし、自分らしく人生を歩んで行ける環境が心に傷を持つ人や精神的な病の人が社会に参加していくためには必要。そのための就労の環境の整備やくつろげる「居場所」を運営したいそうです。

今地域の中に不足している事を内田さんに聞くと以下のようなことが不足していると話しました。

1.地域の中の障がいを持っている人への理解の不足
2.地域の中のマンパワーの不足
3.被災地で職務に当たる保健師の不足
4.障がいをもっている人たちの「居場所」の不足
5.コーディネーター機能の不足(困っている人をどこに繋ぐか)

問題をひとつずつ解決する努力をしながら「始めないと進まない」からがんばりますと内田さんは言います。
地域の中に「生きやすい環境」をつくりたいたいという内田さんの挑戦は始まったばかりです。

思いを大切に 自分らしく歩んで行ける 地域づくり
内田朋子

内田さんは東日本大震災の経験について、「その時の出来事はどれだけ時間が経っても自分の中からも歴史としても何も変わることがない。その体験を思い出すと辛さしかないので思い出さないようにしている」と言います。

内田さんのようにあえて思い出さない人もいると思いますが、現在就労している人の中にも、外面的には普通に見えるものの、震災後、「集中できない」「海の近くは怖い」「ぼっとすることが多くなった」「物忘れがひどい」などの話をする人は少なくありません。もうすぐ3年になるこの時期になって、心に不調を感じる人も少くないようです。
これからさまざまな環境の変化で「生きにくさ」を抱えてしまう人が増えると思います。その「生きにくさ」を社会が共有できる環境の構築を願います。


社団法人宮城県精神保健福祉協会
「心のケアセンター」
http://miyagi-kokoro.org/


(取材日 平成25年11月27日)

~この思いを届けたい~ママたちのネットワークで支援の大きな輪[後編](仙台市)

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こんにちはエムです。


自転車提供の支援活動をするために作成したチャリティアイテムは、販売開始から今年10月末の2年5カ月の間に、販売枚数約2,500枚。手にした人は延べ1,000人。
アイテムの売り上げで新品の自転車52台の他、アイロン・アイロン台、空気清浄機や野球用品、ある時は入学式用のスーツなど、要望に合わせて被災地に届けました。


とても順調な展開を見せていた「仙台チャリティバック」の活動ですが、現在、難しい局面を迎えています。

活動2年目の平成24年にはご主人の転勤のために伊藤さんが関東へ。同じく平成25年4月には代表の丸田さんの関東への移転が決まってしまいました。この年、メンバー補充のために1月に高須さん、加藤さんが新たなメンバーとして加わりましたが、なんと2人とも急にご主人が関東への転勤が決まり仙台を離れてしまいました。

仙台に残ったのは、夏からは毛利さん、鎌田さん、佐藤さんの3人だけ。
協力をお願いすると手伝ってくれる向山幼稚園のお母さんたちはいるものの、主力メンバーの約半分が地元からいなくなったままで、これからどう活動を続けたら良いのか、平成25年は悩みながらの1年でした。

平成25年12月7日、向山幼稚園の「キリストこども市」
たくさんの人で混み合っていました

「これまでほぼ月1回の頻度で行っていたミーティングを、スカイプを使ってを試みたこともありましたが、思うようにスムーズにいかず、この半年は壁にぶつかったような気持ちになっています。
この活動そのものを考え直さなければならないのか、これからも今まで私たちがしてきたような、要望に沿った “物” による支援は必要なのか、メンバーの間でも意見がまとまらない部分もあり、現段階では進むべき道を模索中です」

そんな中でも、関東在住の伊藤さんが、平成24年に立ち上げた「仙台チャリティバック」のブログからもチャリティアイテムが買えることもあり、アイテムは売れ続けています。

バックS ・白色(画像提供/丸田さん)
しかし活動形態を模索中とはいうものの、違う形での支援も展開しています。

東京都町田市や神奈川県相模原市で福島の親子のための保養キャンプを、震災後早くから取り組んでいるグループ「母ちゃんず」
http://tutinokokarchanz.blog.fc2.com/

宮城県を中心に被災地沿岸部の子どもたちに、1日おもいっきり遊べる場を企画、提供している「スマイルキッズプロジェクト ASOBO」
http://asobokids.web.fc2.com/)など
「仙台チャリティバック」のメンバーが共感した、被災地の親子のために活動している他の支援団体に活動費を寄付しました。
今後もそのような形の支援が検討されています。

仙台のスタッフとサポーターのお母さんたちが作った布製のガーラント
(画像提供/丸田さん)

また平成25年7月に横浜市で開催された「横浜芽吹きの会http://ameblo.jp/cloverhari/)主催の「2013福島キッズどろんこプロジェクト」では、福島の子どもとママがキャンプの間中楽しい気分になるようにと、仙台で作ったガーラントを関東メンバーが飾り付けました。
また仙台では向山幼稚園で保管されていた、震災当時全国から寄せられた支援物資の整理作業を、スタッフ3人とサポーターとして参加してくれたお母さんの16人で行ったこともありました。

「2013福島キッズどろんこプロジェクト」では
仙台から送られてきたガーラントを関東のメンバーが飾り付けました
(画像提供/丸田さん)
「今まで、私たちは人のために何かしたいという “気持ち” で動いてきました。でも今が壁かもしれません。お互いが離れたことも大きく、このやり方を続けていけるのか、形を変えなければいけないのか、自分たちそれぞれの生活もあるし差し出せる時間も限られてる中で私たちが考えていかなければならない課題です」
そう言う丸田さんはじめ皆さんは、小さなお子さんを持つお母さん。時間のやりくりは大変だと思います。


向山幼稚園の「キリストこども市」のためしばらくぶりで全員がそろった
「仙台チャリティバッグ」のスタッフ。この日は複数のサポーターママたちも
ひっきりなしに手伝いに入っていました

最後に感想や、やっていてうれしかったことをお聞きしました。

丸田さん
「自分のようなママが自分で考えて、行動を起こせて、小さいながらも役に立っていると感じた時。そして、私たちメンバーは以前からママ友だったけれど、この活動を通してつながりが徐々に強くなってきているのがうれしい。
そして、関東のバザーなどで販売に立った時には、自分が見てきた東北の様子を伝え、関東のママたちにも共感してもらえたのが良かったです」

高須さん
「ブログのメールをチェックして注文を受ける担当です。
メールでのやり取り、しかもお会いしたことのない方とやり取りするのは緊張します。でもある時、アイテムが届いた後その方が友人に薦めてくださり、再注文をしてくださる経験をしました。アイテムを通して支援の輪がつながっていくこと。また注文者と受注者としてだけの立場を超えて、互いの今を思いやる言葉のやり取りに変化するときなど、気持ちを介することができたときうれしいなと感じます。」

バックS ・赤色(画像提供/丸田さん)
加藤さん
「今年から関東のバザーに立っていますが、世界中でいろいろな災害もありましたし、東日本大震災は忘れちゃいけないと思っていても、忘れられつつあるのも事実です。でもこうして活動していると、手にした方が終わったことじゃないと思い出してくれて、しかも寄り添ってくれる。気付くとその方とつながっているのを感じて温かな気持ちになります」

毛利さん
「この活動をする前は、チャリティ活動は他人事でした。どこか信用できないというか。
でも、自分たちが悩みながら活動し、アイテムを買ってもらえて、支援金で購入したものを届ける。その流れが直接分かって良かったし、シンプルなこのようなやり方は、私たちのような小さな団体だからできるのかなと思います。その上お礼の手紙などをいただいたりすると、思いが伝わったんだなと感じてうれしかったです」

伊藤さん
「震災があった時、小さな子どもや家族のケアで精一杯で、支援に参加したくともゆとりがありませんでした。でも、このチャリティに参加することで、自分にもできることがあったと思えます。みんなでやるのは楽しくて、苦ではありません。
自分のように、何かしたいけどどうしたら良いのか分からない人も含めて、たくさんの人の気持ちを集めて支援の場につなげているのかな。そんなふうに感じられて、この活動をやっていて良かったです」

鎌田さん
「普段だったら知り合えることのなかった方とお話ししたり、キモチを共有できたことです」

佐藤さん
「専業主婦の私にとってこの活動は、外に向けての大切な場になっています。このスタッフメンバーの一員であることがありがたいことと思っています」

いくつもの偶然といくつもの出会いが生んだ、小さな奇跡のような支援活動。
震災からもうすぐ3年を迎えようとしている今、求める支援も、支援する人の心も刻々と変わってきているとメンバーの皆さんも感じています。
けれどこの小さな支援活動団体が行ってきたのは、助けを求めている声に耳を傾け、人から人へと心を込めて手渡された本当の意味での支援だったのではないでしょうか。関わった人は何かしら忘れられない温かなものを受け取ったはずです。
この「仙台チャリティバック」の今後の活動もきっと温かな展開になるのではと、皆さんの明るい笑顔を見て、そう感じました。

これからも私たちが関心を失わないこと、それが復興支援に結びつきます。
引き続き、ご支援、どうぞよろしくお願いいたします。


「〜人から人につながる、この思いを届けたい〜」(絵で表現)
左から高須さん、伊藤さん、丸田さん、毛利さん、加藤さん
この日は関東に帰らなければならない中、取材に応じてくださいました


イラスト/栗城みちの

「仙台チャリティバック」の詳しい活動は下記のブログを参照ください。
※チャリティーアイテムは下記のブログから購入できます。

[仙台チャリティバック ブログ]
http://sendai5mama.blog.fc2.com/


(取材日 平成25年12月7、8日)

心で生きる・残された命を輝かせて大切に生きるために~奈良薬師寺僧侶の見る被災地~(石巻市、県外)

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こんにちは。kaiiです。

震災後3回目のお正月を迎え、被災地で暮らす私たちの生活も少しずつ落ち着きを取り戻してきています。
被害の大きかった沿岸地域では、少しずつ嵩上げ工事が進められ、工場などの新しい建物が建設され始めています。待たれていた集団防災移転の工事も始まりました。
「目に見える復興」は確実に進んでいることが実感できます。

私たちは「目に見えない心の復興」を、「目に見える復興」と共に進めていかなければなりません。
私たちがこれから進めていく「心の復興」にヒントになるお話を奈良薬師寺の僧侶、大谷徹弉(おおたにてつじょう)さんにいただきました。

奈良県 法相宗大本山薬師寺 
執事 大谷徹弉 導師

大谷さんは昭和38年、東京に生まれました。17歳で奈良薬師寺の故高田好胤(たかだこういん)住職に師事し僧侶になりました。平成11年(36歳)の春から全国各地で「心を耕そう」をスローガンに法話行脚を始め、現在は全国で年間200回以上も「生きること」についての法話をされています。

大谷さんは、東日本大震災から28日目に宮城県石巻市に入りました。石巻青果市場に並べられている多くのご遺体や津波で壊された町の様子など目にした光景を目の当たりにして「これは手に負えるものではない」と感じました。
私たちは経験のない未曾有の光景を目にしましたが、それと同じ光景を僧侶として修行する大谷さんでさえもすぐには受け容れることができませんでした。

大谷さんは、仏教の基本の教えは『生き方』と物事の『有限性』だと話します。
形があるものは完成したその時から劣化が始まり、若い人は老い、健康な人は病気になります。「人間の作ったものには限界がある」ということです。それが物事の有限性です。

大谷さんに「有限である命をこれから私たちがどう生きていけるのか」お話を伺いました。
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大谷さんは「被災地の中で、自分の命を大切にし、亡くなった人の分まで精一杯生きようとしている人は、自分の命の意味を知り、自分の命をしっかり生きている人」
このような人たちは、「未来の人に思いを寄せ、今を一生懸命生き『復興の原動力』になっている」と話します。

昭和30年代、そろそろラジオからテレビに移行しようとしていた頃に、落語で使われる都々逸(どどいつ)のひとつに、「空があんなに青いのも、 電信柱が高いのも 、郵便ポストが赤いのも、みんなあたしが悪いのよ」という一節がありました。大谷さんはこの一節は「自分を内観すること」を薦めているのだと話します。

大谷導師の直筆のメッセージ
「未来は自分の中にある」

「なぜ私は生きたのか?」

大谷さんは「静観自得(じょうかんじとく)」し、「残された自分の命の意味を自分で見つめ、探すことが大切です。他人から言われて探しても自分のためにはなりません」と話します。

「未来は自分の中にある」と信じ「静思(じょうし)」することが、『生き方』を見つける手掛かりになると言います。

大谷さんは、
「東日本大震災を経験した被災地の人たちには、『被災という経験』を次世代につなげる生き方を続けることができます。現象をバネにして生きることで、次世代に命をつなぐことができるのです」
と話します。

「あせらず一歩。あきらめず一歩。一歩一歩前へ前へ」

私たちは、被災という経験を次世代の命を守ることや地域や社会づくりに活かすことができるということです。私たちが、今、進む歩みが未来の命につながっていきます。

大谷さんのこの言葉を聞いて私は、先人から「津波てんでんこ」と防災教育をされてきた、岩手県釜石市の小中学生の話を思い出しました。
釜石市では、小中学生2923人(東日本大震災発災当時)のうち、犠牲になった子どもは5人でした。これは、津波に苦しめられてきた先人から「津波てんでんこ(自分の責任で高台へ逃げる)」と教育してきた結果です。子どもたちは自分の命を学校から1kmも走り守りました。
大谷さんの「あきらめず一歩」私たちは震災で多くのものを失くしましたが、「未来」に「生きることをつなぐバトン」を預かったのだと思います。

大谷導師直筆メッセージ
「弱い自分に出会った時が 強い自分になるチャンス」
大谷さんも被災者です。

平成16年から平成22年9月まで薬師寺の命で、廃寺に近い状況だった茨城県潮来市のお寺「潮音寺」の復興事業に取り組みました。「命があるからできる」と事業に取り組みました。
大谷さんは、「命の使い方は自分にしか決められないことだ」と潮音寺の「復興」に取り組みました。
復興して半年で、潮音寺は震災に遭いました。震度6弱の大きな揺れの後に起こった液状化現象で、平均15cm、ひどいところで1m沈下し、被害の大きかった建物には入ることができなくなりました。
地域の人たちが復興を待ち望み多くの参拝の方が訪れるようになっていた矢先の出来事でした。
被災のありように対して「大地を恨まない」と口にする大谷さんでも、心のどこかで「大地を恨んでいた」といいます。

修行を続ける大谷さんでも、震災の被害の大きな地域に入ったときには「自分を自分でどうしていいのか」分からなくなったと言います。
僧侶として厳しい修行を続ける大谷さんでも、私たちと同じように思い、迷ったことがあるとお聞きしました。
「弱い自分に出会った時が 強い自分になるチャンス」

命の時間のある間、私たちは「震災」と「復興」という現状と向き合い続けなければなりません。その現状から目を背けることなく、心折れそうな弱い自分と向き合い、勇気をもって前へ進んでいかなければならないと感じました。


「あせらず一歩。あきらめず一歩。一歩一歩前へ前へ」


大谷さんは「これから作られる復興の町は、今まで以上に考えられた住みやすい町に変わっていくと思います。ハード面の復興は確実にいい状況に進んでいきます」と話します。

私たちは「心の復興」を「町の復興」と共に「あせらず、あきらめず一歩一歩進めていかなければなりません」前へ向かって伸びている道をゆっくりと静思しながら進んでいくことが大切だと思います。


*静観自得(じょうかんじとく)=仏教ではこのように読みます
*静思(じょうし)=仏教ではこのように読みます


(取材日 平成25年12月13日)

写真を見比べて感じる気仙沼の復興 その1(気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。

今年は暖かく過ごしやすい年明けでしたが、中旬には、今シーズン最強寒波が襲来し日本海側を中心に大雪を降らせるなどしています。アメリカなど北半球の国々でも寒波の影響と被害を受けています。
多くの人がお正月休みの最後の日となった1月5日は、二十四節気の一つ「小寒」でした。
「小寒」とは、寒さが厳しくなり降雪と寒風に悩まされる時期とされています。この時期から少しずつインフルエンザの罹患者が増えていきます。皆さんどうぞご自愛ください。

震災から2年10カ月。現在の気仙沼の復興の様子をお伝えします。
今回は気仙沼魚市場の周辺地域など南気仙沼地域の状況をお伝えします。

南気仙沼地区は気仙沼魚市場の南側から大川の東側を中心とする地域です。
震災前は水産加工会社や冷凍工場などがたくさん建っていた地域です。

嵩上げされた土地
(平成26年1月8日撮影)南気仙沼地区
気仙沼の主力産業の水産業が本格復旧していくためには、気仙沼港に水揚げされた魚を加工し全国に発送する冷凍工場や加工工場などが必要です。



この地域は震災から1年くらいまでは、壊れた建物がまだ残り、満潮時には土地が浸水していました。
今では加工場などの復旧に向けての土地の嵩上げ工事が進み、新しい水産加工会社の建設も進んでおり、完成した工場も多く見られるようになりました。

気仙沼魚市場前に建設が進んでいる工場
(平成26年1月8日撮影)

気仙沼魚市場前に完成間近の水産加工会社
南気仙沼地区の鎮守社「一景島神社」。
気仙沼湾から200mほどの気仙沼市弁天町にあります。
津波で社殿などを失いました。
平成24年12月に新しく建てられた社殿には今年も多くの人が正月参りに訪れました。

新たに建て直されたばかりの一景島神社社殿(平成25年1月6日撮影)

一景島神社社殿
同じ場所で撮影しました。風景が前年と違うことに驚きました
(平成26年1月8日撮影)
平成25年8月に「イオンふるさとの森づくり」という支援事業により鎮守の森として植樹されたモクゲンジ、ヤマザクラ、ヒサカキなどの小さな苗木も寒さに耐え育っていました。

小さなつぼみは花を咲かせる準備中です


鎮守の森に育っていく「ヒサカキ」などが植えられています

埋め立て前の神社付近の写真
「一景島」は、昭和31年に気仙沼魚市場移設のために埋め立てられるまでは気仙沼湾に浮かぶ岩礁で、「浮島(別名魚取島)」と呼ばれていました。
一景島神社は「弁財天」を祀り、大漁を祈願する港の守護神です。

岩礁だったなごりを感じることができます
一景島神社の西側に建つ「ホテル一景閣」は、平成25年のお正月には改装中でした。平成25年5月にリニューアルオープンし、営業しています。

ホテル一景閣(平成25年1月6日撮影)

工事が進められていた南気仙沼地域
(平成25年1月6日撮影)

平成25年5月にリニューアルした
ホテル一景閣
(平成26年1月8日撮影)
大正5年に割烹旅館として営業を開始した「ホテル一景閣」の営業再開は、気仙沼湾に「復興の灯り」を灯しています。

気仙沼魚市場南側桟橋
(平成26年1月8日撮影)
気仙沼魚市場の復旧工事も順調に進んでいます。去年の1月には津波の傷跡が残っていた場所も修繕されてきれいになりました。船を着ける港の工事も順調です。

気仙沼魚市場南側桟橋
(平成25年1月6日撮影)
気仙沼魚市場に水揚げされた魚は梱包され、トラックに乗せられ、全国に向けて発送される準備中でした。

荷積みを待つトラック
(平成26年1月8日撮影)
大川公園のサクラ並木は、工事のために伐採されることが決まっています。
一部のサクラを別の場所に植え替えて残すために、移転作業が続いていました。

大川公園のサクラ並木
春までには伐採されることが決まっています
(撮影平成26年1月8日)
災害公営住宅の建設予定地には、パティーションもの設置されていました。

旧気仙沼市立南気仙沼小学校の跡地には
災害公営住宅が建てられます
(撮影平成26年1月8日)
確実に町の復興は進んでいます。
写真を見比べていて「人間の記憶」の曖昧さを感じました。震災からもうすぐ3年ですが、生まれ育った町の震災前の姿を忘れつつあります。
「この場所に何が建っていたのか」
「住宅だったのか店舗だったのか」
少しずつ忘れ、確実に変化している町の姿に少しずつ慣れてきました。

人間の記憶の曖昧さと記録を残すことの大切さを感じています。

(取材日 平成26年1月8日)

週刊ココロプレス 第68号

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ココロデスクです。
新年第1回目の「週刊ココロプレス」をお送りします。

さて、年の初めという良い機会ですので、あらためてこの「週刊ココロプレス」についてご説明しましょう。
ご覧のように、ココロプレスはブログ形式です。そのため、新しい記事が公開されるにつれて古い記事はどんどん下の方に「沈んで」しまいます。
ほぼ1日に1本の記事が追加され、それぞれの記事がそれなりの長さがあるため、ほんの数日前の記事でも読者の皆さんの目に触れにくくなってしまうのです。

そこで、それぞれの記事を要約して古い順番に並べ直したのが、「最近のダイジェスト」です。

「週刊ココロプレス」では、この「ダイジェスト」を中心にイベント情報やお知らせ、それに私の個人的な体験なども掲載してきました。

この「週刊~」だけでなく、ココロプレス全般についても、少しずつ改善を加えながら進めていきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。

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宮城県が全国からいただいているご支援に対して感謝を発信するために、宮城県では「宮城から感謝をこめて」というホームページを設置しています。
現在、「石巻魚市場」「山元町災害公営住宅」「石巻市雄勝町のローズファクトリーガーデン」「南三陸町の長須賀海水浴場復活」の4本記事が掲載されており、これからも順次増やしていきます。

宮城から感謝をこめて
https://sites.google.com/site/kanshamiyagi/


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■イベント情報
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東日本大震災祈念特別展
11月16日~2014年1月13日
東北歴史博物館(多賀城市)
http://www.thm.pref.miyagi.jp/exhibition/detail.php?data_id=499


※復興に関するイベント情報を募集しています。
 タイトル画像の下の「ご感想など」からお寄せください。

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  ■最近のダイジェスト (1月1日~1月13日)
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2014年1月1日水曜日
映画『ガレキとラジオ』が伝えてくれたこと(南三陸町)
「地元が舞台の映画だもの。地元の人たちにこそ見てほしい。もう一度。今度はもっと多くの人たちに――」臨時災害放送局「FMみなさん」の10カ月間を追いかけたドキュメンタリー「ガレキとラジオ」の上映会が、12月22日、舞台となった南三陸町で開かれました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/blog-post_3543.html

2014年1月2日木曜日
東日本大震災から1000日~乳幼児と母親たちを支えてきたNPOピースジャム~(気仙沼市)
「震災により街の様子や人々の生活も変りましたが、人の経験や知識、心はずっと積み重なり残っています」気仙沼で赤ちゃんとママを救済する活動に取り組んでいる「NPO法人PEACE JAM」の副代表、齋藤賢吾さんに震災から1000日を振り返っていただきました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/1000npo.html

2014年1月3日金曜日
東日本大震災から1000日、3266の灯火 2(石巻市)
石巻市内の犠牲者の数だけ灯された、3266個の灯籠。その1つがアメリカ・バージニア州出身のテイラー・アンダーソンさん(当時24歳)です。万石浦小学校の外国語指導助手だった彼女は、怖がる生徒を励まし、保護者に引き渡した後に津波に遭いました。この日、ご両親のアンダーソン夫妻も灯火を見つめていました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/100032662.html

2014年1月4日土曜日
「『衣・食・住』だけでは人は人として生きられぬ」~街のちいさな美術館が提唱~(仙台市若林区)
「ここにある物は国宝や重要文化財のような超一流の物ではありません。でも、壊れた物を直してあげないと、震災は終わらないなと思っているんです」と、仙台市にある民間の美術館「福島美術館」の尾暮まゆみ学芸員。建物の復旧にようやくめどが立ち、収蔵資料の修復に取り組んでいます。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/blog-post_5768.html

2014年1月5日日曜日
絵本で残す生きた軌跡「優しいあかりにつつまれて」(名取市閖上)
「ありがとうを ありがとう」。1人は東日本大震災で、もう1人は阪神・淡路大震災で。ともに大きな2つの災害で小さな命を亡くした2人のママが運命のように出会い、辛い決心と温かい愛の詰まった1冊の絵本を出版します。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/blog-post_5.html

2014年1月6日月曜日
2013年から2014年へ~復旧から再生へ~(気仙沼市)
2つの写真を見比べてみてください。津波で地盤沈下した気仙沼湾の護岸工事です。左が去年、右が今年。復興が、少しずつ進んでいることが分かるでしょうか? 漁港も、商店も少しずつ。震災から3回目の、気仙沼のお正月の風景です。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/20132014.html

2014年1月7日火曜日
「星空に一番近い港町気仙沼」を願い(気仙沼市)
あまり知られていませんが、気仙沼は環境省主催の「全国星空継続観察」で1位になったことがあるほどの「星空の美しい町」。この星空を守り、気仙沼の新たな観光資源に育てようと、NPO「気仙沼銀河学校」の伊藤雄一郎さんは活動を続けています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7.html

2014年1月8日水曜日
「生きやすい居場所」をつくる(石巻市)
「障害や心の問題を抱えて”生きにくさ”に悩んでいる人たちが目立ちます。そんな人たちのための”居場所”をつくりたい」と、精神科認定看護師の内田朋子さん。震災を機に病院勤務から「心のケアセンター」に身を投じて、地域の人たちの心の復興に取り組んでいます。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/blog-post_67.html

2014年1月9日木曜日
~この思いを届けたい~ママたちのネットワークで支援の大きな輪[後編](仙台市)
震災からもうすぐ3年。求める支援も、支援する人の心も刻々と変わってきています。先日ご紹介した「仙台チャリティバック」も、メンバーの転居などもあって難しい局面を迎えています。「人から人につながる思い」を、どう届けるのか。模索は続きます。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/blog-post_5298.html

2014年1月10日金曜日
心で生きる・残された命を輝かせて大切に生きるために~奈良薬師寺僧侶の見る被災地~(石巻市、県外)
「被災地の人たちは『被災という経験』を次世代につなげる生き方を続けることができます。現象をバネにして、次世代に命をつなぐことができるのです」と奈良薬師寺の僧侶、大谷徹弉(おおたにてつじょう)さん。「心の復興」のヒントをいただきました。

2014年1月13日月曜日
写真を見比べて感じる気仙沼の復興 その1(気仙沼市)
震災から2年10カ月。現在の気仙沼の復興の様子をお伝えします。第1回は気仙沼魚市場の周辺地域など南気仙沼地域の状況です。土地の嵩上げ工事が進み、新しい水産加工会社の建設も進んでおり、完成した工場も多く見られるようになっています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/01/1.html

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■編集後記

今日は、最近ココロプレスにお寄せいただいたお便りから一通を、ご紹介したいと思います。

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懐かしい閖上の情報を見ました。今も金沢に避難して、結局宮城にいまも戻らない状態です。
うちの娘が閖上大漁唄で優勝したこともあり、その時の実行委員長だった斉藤兆水先生が今もなお名取の仮設住宅におられるのがつらいです。
名取・閖上の復興、そして閖上大漁唄の大会が再開することを金沢から祈っております。

(金沢市 坂田俊明さん)
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この記事をご覧いただいたのでしょうか?

2013年12月12日木曜日
明けない夜はない! 「ゆりあげ港朝市」グランドオープン!(名取市)


遠い土地で避難生活を送っている県民の方にもこのココロプレスが届いているということを知り、ありがたく思うとともに、あらためて責任の重さを痛感しました。

閖上太鼓保存会の演奏
平成25年12月1日 「ゆりあげ港朝市 グランドオープン」開会式にて
震災で仲間と練習場所を失った保存会ですが、平成23年5月に活動を再開し、
各地の復興イベント等で演奏活動を行っています。

(ココロデスク)

スマトラトラの赤ちゃん元気に生育中~前編 仙台市八木山動物公園(仙台市)

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YUUです。

先日、久しぶりに冬の動物園に行ってきました。




東北有数の動物園でもある仙台市八木山動物公園(以下・八木山動物公園)です。

現在は、多種多様な非日常を演出するアミューズメントパークが日本全国にありますが、それでも、動物園はちょっと特別な場所ですよね。

微動だにしないだけに逆に迫力あります、ホッキョクグマ
飼育下での繁殖が非常に難しく、冬の繁殖シーズンのみ同居しています
メスには妊娠時に使用する「産室馴らし」をしたりします
これって、もちろん置き物じゃありません。

北極圏最強の種、オスは体長2m以上、体重400kgを超えるホッキョクグマ。

もちろんガラス越しですが、こうした野生動物を間近で観察できる機会は、どんなアトラクションとも違った魅力ある「動物園」ならではの演出です。

生態系の頂点にいたイヌワシも環境破壊により生息数が減少
現在は、国内希少野生動物種に指定されています

猛禽類らしく、高い木の上から下界を見下ろしている鳥もいました。国の天然記念物、イヌワシです。

イヌワシは英語で「ゴールデンイーグル」。
そう、昨年日本一に輝いたプロ野球「東北楽天ゴールデンイーグルス」のチーム名にもなっています。
そればかりか、サッカーJ1[ベガルタ仙台」のチームマークのデザインにもイヌワシが取り入れられています。
それほど宮城県にとって縁の深い鳥です。

野球だけじゃありません
「ベガルタ仙台」のチームマークは
イヌワシの姿をデザインしています

「山の上で4、5時間観察を続けましたが、イヌワシの姿は望遠鏡で何とか姿を認識できるといった具合でした。動物園では、その全貌をしっかりと見届けることができますよ」

こう話してくれたのは、仙台市八木山動物園飼育展示課 衛生係の釜谷大輔係長。

釜谷さんは、獣医でもあり、2012年5月に無事赤ちゃんが生まれた「スマトラトラ」の種別計画管理者でもあります。

出産後のバユ(スマトラトラ)と赤ちゃん。赤ちゃんたちはおっぱいの争奪戦を終えて眠りはじめています
(画像提供・仙台市八木山動物公園)

震災の前、八木山動物公園では希少種であるスマトラトラの繁殖に取り組む計画がありました。
その計画は震災によって一時中断を余儀なくされましたが、その後の関係者の努力と内外の温かい協力によって再開し、成功を収めつつあります。

釜谷さんに振り返っていただきました。

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インドネシア原産のスマトラトラは現存しているトラのなかで最も小さい種で、絶滅危惧種としてCR(絶滅寸前)の指定を受けています。

日本国内の動物園には、八木山動物公園で生まれた4頭の子どもを含めても、5園で14頭のスマトラトラしかいません。釜谷さんは、その希少なスマトラトラの繁殖計画を管理する役目を担っているのです。

バユに先立ちアメリカハワイ州のホノルル動物園からやってきたスマトラトラ
オスの「ケアヒ」。ハワイ語で炎を意味するといいます
(画像提供・仙台市八木山動物公園)

2011年4月28日。アメリカハワイ州のホノルル動物園からスマトラトラのオスのケアヒが八木山動物公園にやってきました。

震災後、初めて八木山の地にやってきた動物です。

「2010年12月にメスのリップが亡くなり、一時期、園内にはトラがいない状況でした。トラを入れてほしいという来園者の方々の声と、『スマトラトラ種別調整園』としてぜひ繁殖させて『種の保存』に取り組みたいという職員の希望が届き、海外の動物園が若いオスとメスを貸してくれることになったんです」

実はケアヒは、2011年3月25日に来園することになっていました。

ところが、東日本大震災により輸送ルートは寸断され、八木山動物公園も施設被害のほか、燃料やライフラインが途絶えてしまいました。とても新しい動物(スマトラトラ)を受け入れる状況、態勢ではなくなってしまっていたといいます。

「いったんは、スマトラトラの導入を断念しなければならないのか、と考えたほどでした。しかし、多くの方々の応援とホノルル動物園をはじめとする関係各位の努力によって、無事、当初の予定より1カ月遅れの4月28日にケアヒに対面することができました」

バユが八木山動物公園にやってきた時の様子
スマトラトラ輸送のための立派なコンテナには、
GANBARE SENDAIと記されたトラのイラスト入りパネルが貼られていました
(画像提供・仙台市八木山動物公園)
ケアヒがやってきたおよそ2カ月後には、オランダのバーガーズ動物園からメスのバユが運ばれてきました。

野生動物の繁殖は、一般の方がイメージする以上に難しいといいます。

「まず相性、マッチングの問題があります。園内は野生の状態とは違って限られた空間で、かつ相手も1頭だけです。よほど相性が良くないと、メスが繁殖期(発情期)を迎えても繁殖行動に移らない場合が多いんです」

トラのような大型のネコ科動物はオスとメスの相性が悪いと、繁殖期に同居させたとたん、互いに敵とみなして襲いかかり、闘争に発展するケースすらあるそうです。

さらに、繁殖を成功させるには血統的な問題もあります。

「スマトラトラは、野生下でその数を400頭近くまで減らしています。生物の多様性を維持していくためには、それぞれの個体の遺伝子の多様性を維持していく必要があります。そのために今、世界の動物園が協力し合っています」

世界中の多くの動物園や水族館が所属している世界動物園水族館協会(通称・WAZA)では、2008年5月に絶滅の危機にひんするスマトラトラを世界規模で救うために、国際血統管理計画(通称・GSMP)の種として選定しました。

そうした種の保全に関する世界規模の取り組みの1つが、各地域の動物園の出産の状況などをつき合わせ、移動の計画を立てることなのだそうです。今回のケアヒとバユのように繁殖適齢の若い個体が海外からそれぞれ別に導入されたのも、その成果だといえるでしょう。

出産前のバユ。お腹が大きく膨らんでる様子が分かります
(画像提供・仙台市八木山動物公園)
未曾有の震災後、それぞれ別の国からやってきたケアヒとバユは、偶然か、ともに希望に導かれてやってきた2頭のためか、相性が抜群だったそうです。

バユの発情が認められたのでケアヒと同居させると、動物園スタッフの心配をよそに、2頭は互いに威嚇しあうこともなしに割合スムーズに繁殖行動を始めたそうです。

「2012年度、バユは妊娠し、3頭の子どもを出産しましたが、初産では子どもをうまく育てることができないケースが多いと言われる通り、懸念が現実のこととなってしまいました」

トラの母親は、自然と子育てを覚えるのではなく、最初は、子どもに害を与えることさえあるのだそうです。特に初産の場合は授乳させないことが多く、赤ちゃんに人間の匂いがつくと、すぐに拒絶反応を起こしてしまうといいます。

「実際、1頭は授乳を確認できず、人工哺乳に切り替えました」

残念ながら、2012年に産まれた3頭の赤ちゃんは、釜谷さんをはじめとするスタッフの献身的な対応も空しく、無事、成長することはかないませんでした。

しかし、ケアヒとの相性抜群のバユは、今年も無事に妊娠し、出産しました。

しかも、4頭とも元気な子どもを、です。

トラは5頭までの子どもを産むそうですが、3頭産むことが最も多く、4頭産むこと自体確率が低く、その4頭を無事に産んで、すべてを育てるのは非常に珍しいそうです。


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地震と原発事故で、海外の美術品などの日本への貸し出し中止が相次いでいた時期に八木山動物公園にやってきた2頭のスマトラトラ。

その2頭の頑張りで生命を授かった4頭のトラの子どもたち。

猛獣であっても、いや、猛獣だからこそというべきか、子どものかわいさは格別です。

今春に産まれた4頭は、元気に生育中で、すでに赤ちゃんとは言えない容姿になっていますが、
まだまだ愛くるしく、午前中限定の公開を見にやってくる来園者たちの注目を集めています。

「震災による困難にもかかわらずやってきた2頭の子どもたちが、震災後、初めて動物園を訪れたというような方たちにも笑顔と「いやし」を与えていると思うと、本当にうれしく思います」


後編では、出産時のバユ、無事に一般公開までこぎつけた子どもたちの様子を震災後の動物園の状況を振り返りながら、続けて紹介します。

下記HPにはスマトラトラの案内も載っています。
仙台市八木山動物公園
www.city.sendai.jp/kensetsu/yagiyama/

(取材日 平成25年12月4、6日)

写真を見比べて感じる気仙沼の復興 その2(気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。

気仙沼魚市場に隣接する、「海鮮市場『海の市』」は震災の影響を受け営業を中止していましたが、平成26年3月の営業再開に向けて昨年8月から復旧工事が進められてきました。

震災被害を受けた海鮮市場「海の市」
(撮影 平成25年8月7日)
2カ月後の再開に向けて、内装工事とともに外装工事も進められています。

営業再開に向けて復旧工事が進められる
海鮮市場「海の市」
(撮影 平成26年1月8日撮影)
震災前には日本で唯一のサメの博物館「リアスシャークミュージアム」や「氷の水族館」を併設し、年間100万人以上の人が訪れていた「海の市」の営業再開は、街の賑わいを支える拠点としても期待が高まっています。

入り口のガラス扉の取り付けも終了しました
(撮影 平成26年1月8日)
「海の市」の再開によって地元に雇用が生み出されると期待されているほか、震災で販路の縮小を余儀なくされてきた中小の水産加工業者の販路拡大を図る手立てとしても、地元の期待は膨らんでいます。

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港の復旧工事の様子(気仙沼市港町)
(撮影平成25年8月7日)
上の写真と下の写真は気仙沼市港町の同じ場所を映した写真です。

港の復旧工事の様子(気仙沼市港町)
(撮影平成26年1月8日)
地盤沈下などの影響を受けて使えなくなっていた港の復旧工事も順調に進められています。

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気仙沼魚市場の構内の工事も順調に進められています。

一部鉄板を敷いて仮復旧していた気仙沼魚市場構内
(撮影 平成25年8月7日)

復旧工事が進められている気仙沼魚市場構内
(撮影 平成26年1月8日)
復旧工事が進められている気仙沼魚市場構内
(撮影 平成26年1月8日)

港の復旧工事作業は潮の干満などに影響されるため、寒風の吹くこの時期も昼夜を問わず工事が進められています。放射冷却の厳しい夜も作業の音が気仙沼湾に響いています。

復旧工事風景
(撮影 平成26年1月8日)
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魚市場の北側の船の着岸所も嵩上げされ復旧しました。

復旧工事が進められる着岸場所
(撮影 平成26年1月8日)

復旧工事の進む港には船が並んで着岸しています
(撮影 平成26年1月8日)

船の着岸場所の近くを散歩していた70代の市内の男性は、
「気仙沼の港にこうして船が係留されて並んでいると安心するね。市場には入ることはできないけれど、入港している船の形を見れば今日の水揚げの内容が分かるよ。入港する船が増えてよかった。気仙沼に船がないと”気仙沼”でないもんね」
と話していました。

水揚げされたばかりのタラ
(撮影平成26年1月8日)
タラの水揚げをする漁船
船の傍には水揚げされたタラ
(撮影平成26年1月8日)
水産加工会社の工場や冷凍施設の復旧とともに観光施設や港の復旧も進んでいます。気仙沼港に水揚げされる旬の魚を使った料理を食べられる施設も増えています。

復興に向かう道筋には問題も山積していますが、多くの人が能動的にまちづくりに参加することで問題も1つずつ克服していけると思います。

安波山からの今年初めての風景
(撮影平成26年1月8日)
震災から3年。
「進まぬ復興」と思いがちですが、写真を見比べて自分の眼で確認すると、町は確実に「復興」に向けて歩みを進めていると感じられます。

(取材日 平成26年1月8日)

馬も人も幸せなふるさとへ~美馬森プロジェクト~(東松島市)

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こんにちはエムです

午年の2014年がスタートしました。
さて、午年の「うま」の字は、なぜ午前とか午後に使われる “午” なのか?
一説に “午” には、字画が真ん中で交わる形から、「前半と後半を分ける」という意味かあるそうです。
午年はちょうど十二支の真ん中に位置していることから、この字が当てられたと言われています。
それはさて置き、きょうは本来の “馬” の話題を取り上げてみたいと思います。

冬の八丸牧場(画像提供/八丸牧場)

石巻湾の海岸線を東隣の石巻市と二分する東松島市。
平地の面積が広いため、東日本大震災では広範囲にわたり甚大な津波被害を受けました。
市の西端にある野蒜(のびる)・東名(とうな)地区でも甚大な被害がありましたが、この地区には幸いにも裏山がありました。海抜50~80mほどの高さの山が、海岸から1kmほど内陸から始まり、広さは東西1400m×南北800m。
震災当時は、多くの方がここに登って津波から逃れました。

東松島市ではこの裏山を「復興の森」と名付け、「環境未来都市構想」を掲げました。そしてこの森を整地して住宅地を作り、野蒜・東名地区の住民を移転させる計画を立てたのです。
しかしそれは、ただ宅地用に土地を整備して復興公営住宅や住宅地にするだけの計画ではありません。
市が打ち立てたのは、今までとは違う、全く新しい “まちづくり” 構想です。

構想の中の一つに馬を活用した「美馬森(みまもり)プロジェクト」というものがあると聞き、早速取材させていただきました。

平成25年8月4日 東松島市 縄文村歴史資料館前広場
「夏休み美馬森キッズ ホースマンクラブ」(画像提供/八丸牧場)

「美馬森プロジェクト」を企画したのは、「一般社団法人『美馬森Japan』
代表を務める八丸(はちまる)由紀子さんが東松島市の「環境未来都市構想」に共感し、市に事業提案しました。
「美馬森プロジェクト」とは、馬の力を活用して地域の課題や社会課題を解決していこうというもので、森の中に馬の牧場を設けて、「人と馬が歩く散策道や広場があり、住民だけではなく多くの人が訪れ、馬と触れ合える場所にする」というすばらしい計画です。

まず、そのための林道の整備や間伐材の搬出などは、自然環境に負荷が掛からない馬の力を借りて行います。
それにより、馬と人が同時に働ける場を提供するのです。
馬の力で森林を整備した後も、それで終わるのではなく、人と馬が共に働き触れ合い、また、馬から学びながら生活できる新しく画期的な里山づくりに結びつけようとするものなのです。

「馬には『人を集める』魅力があり、心の問題を抱える人に有効な『ホースセラピー』は海外では保険も認められるほど人を癒す力を持っています。私たちが以前から、解決したいと考えていたテーマと、東松島市の掲げる『環境未来都市構想』がぴったり当てはまりました」

平成25年5月22日 八丸牧場「盛岡市内の老人福祉施設の企画 ミニ遠足」
(画像提供/八丸牧場)

八丸さんが解決したいテーマは4つ。

〈馬と共に働く機会・働く馬の活躍の場の減少〉
〈森林など自然環境の整備の遅れ〉
〈不登校や休職者の急増にみられるような、心の問題〉 
〈超高齢者時代に適応した各種整備の遅れ〉

八丸さんは馬と人が共に働き暮らす “恊働” 生活により、これらの問題を解決できるのではと考えています。
それは20代から馬に関わり、岩手県盛岡市で夫の健さんと共に「八丸牧場」を10年の営んでいる八丸さんだからこそ分かったこと。
馬の育成や牧場体験サービスなどを行っている「八丸牧場」では現在、3人のスタッフと15頭の馬とが共に暮らしていますが、以前から森に隣接した場所、それもできれば海にも近い場所に牧場を移転したいと考えていました。

そんな中、東日本大震災が起こったのです。

八丸さんは被災地の子どもの支援活動を行うため、平成23年4月に任意団体「馬(ま)っすぐに岩馬手(がんばって)必ず馬(うま)くいくから」を立ち上げました。その活動を通して東松島市に出会い、このプロジェクトを提案するに至りました。
東松島市のこの地区を「美馬森ヴィレッジ」と名付け、今まで考えてきた社会課題や、震災による新たな問題の解決に引き続き望んでいくという構想です。


平成25年5月22日 八丸牧場「盛岡市内の老人福祉施設の企画 ミニ遠足」
(画像提供/八丸牧場)

八丸さんが思い描く「美馬森ヴィレッジ」とは、森から馬が搬出した木を使い、高齢者や介護世帯者が暮らせる「多世代型集合住宅」を造ったり、地元の子どもたちにホースマンとしての学習や、遊びの機会を提供したり、馬のいる森を観光に結びつけたり、さらには高齢者の働ける場も提供するというものです。
このように、このプロジェクトは数年で終わるような話ではなく、何世代にもわたって引き継いでいく、壮大なプロジェクトだったのです。

人も馬も働く場所があり、お互いの存在を尊重しながら生活できる「美馬森ヴィレッジ」。実現すればそれはきっと人にとっても馬にとっても幸せな “ふるさと” となるのではないでしょうか。

「馬搬」(ばはん)と呼ばれる馬による運搬のようす(画像提供/八丸牧場)

八丸さんは現在、盛岡から東松島市に通ってプロジェクトを進めていますが、森に隣接する約2ヘクタールの土地に、牧場を3年以内に移転することを計画中です。

まちの中を馬が自然に歩いている。木漏れ日の森の中を馬と散歩。馬と一緒に野山や田畑で働く……。わたくし(エム)の頭の中は心躍る妄想でいっぱいで、今すぐにでもそこに行きたい衝動に駆られました。

しかし慌ててはいけません。計画はまだまだこれから。
東松島市に出向いても馬はいません。
「美馬森ヴィレッジ」ができるのが待ち遠しいですが、本当にそんな夢のような計画が実際に進行しているのは、宮城県民として誇りさえ感じます。


平成25年7月27日 東松島市 縄文村歴史資料館前広場「夏休み日馬森キッズ ホースマンクラブ」
(画像提供/八丸牧場)

しかし、そんな八丸さんが最も憂いているのは、現代の子どもたちの育つ環境です。

「『自然欠乏症候群』というのをご存じですか」
「現在、多くの子どもたちは幼い頃からテレビやパソコンに馴染み、自然の物に触れないまま大きくなるケースは珍しくありません。しかし自然の中を走り回り、土や植物、昆虫や動物などに触れ五感は磨かれます。自然に触れないで育つということは、五感が磨かれないまま大きくなるということなのです。
現代の子どもたちは昔に比べて、現実に視野が狭くなっているという報告があります。また大人も例外ではありません。日本ではまだまだ認知度は高くはありませんが、馬の力を借りて、そのような問題を解決するお手伝いができたらと考えています」


そんな八丸さんが惚れ込んだ馬たち。
お話を聞けば聞くほど、馬の魅力に圧倒されます。
もしかしたら「馬」は森と人、人と人、失なったものと残ったもの、それらの真ん中にいて2つを分けるのではなく、1つに結び付けてくれる存在なのではないでしょうか。「馬」はやはり「午」で良かったのです。八丸さんのお話を聞いただけでまだ馬には会ったことがない私ですが、そんな考えにとらわれました。
早く午に触ってみたいです。


八丸由紀子さんと健さん(画像提供/八丸牧場)

「美馬森プロジェクトは企業や個人の方々の想いをつなげ、馬たちの持つさまざまな力を活かして、現存する各種社会問題を図り、新しい日本をデザインしていきたいと思っています」

「地域や自然の豊かさを味わい、人々も動植物もお互いを活かしあい、笑顔あふれるそんな“あたたかい社会づくり”を実現していくために美馬森プロジェクトを応援していただけるとうれしいです」

八丸さんは被災地の子どもの支援活動を行うため発足した、「馬っすぐに 岩馬手 必ず馬くいくから」を平成25年3月に法人化し、「一般社団法人『美馬森Japan』としました

八丸さんの真直ぐな視線は東松島市だけではなく、多くの地域の人や子どもたちの将来を見つめています。


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「美馬森プロジェクト」はまだまだ多くの資金を必要としています。
このプロジェクトに共感し、応援してくださる「共感サポーター」を募集しています。

<共感サポーターの種類>

正会員 ~ 個人会員年会費 1万円
      中小企業年会費 3万円
      一般法人・企業年会費 6万円

準会員 ~ 個人会員年会費 5千円
      中小企業年会費 1万5千円
      一般法人・企業年会費 3万円

オフィシャルスポンサー 1口 100万円

事業別オフィシャルスポンサー 1口 50万円

詳しくは一般社団法人『美馬森Japan』のホームページを参照のうえ、メールにてお問い合わせください。

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宮城移転準備事務所」/
岩手県盛岡市玉山区下田字生出817-1
電 話 019-688-8166
FAX  019-688-0301
メール sporthorse80coach@ybb.ne.jp
ホームページURL http://mimamorijapan.com/

(取材日 平成26年1月9日)

アートの力 前編(女川町)

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こんにちは、Chocoです。

昨年のことを振り返りますが、
私が半年以上追っかけをした企画があります。
実は、企画の時点から会議にお邪魔していたのです。

ということで、
追っかけ取材第一弾は、「女川アートシーズン」です。
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丁度、2012年の冬、女川町きぼうのかね商店街の1室で夜遅くまで会議が行われていました。
実行委員長の梶原千恵さんやアートギルドカンパニーの皆さんが中心となり企画されました。

その会議は、定期的に開かれイベントが行われる間近まで続きました。



そして、開催されたのが、女川アートシーズンです。

以前紹介した記事
「アートがきぼうのかね商店街を1日ハイジャック」http://kokoropress.blogspot.jp/2013/08/1_16.html
「女川アートシーズン開催中」http://kokoropress.blogspot.jp/2013/08/blog-post_30.html

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以前のブログでも紹介しましたが、昨年の夏、カナダや日本各地からアーティストが女川に来ました。
そして、女川のアーティストとともに地元の人たちをアートの力で盛り上げました。
アートシーズン期間中に、多くのアーティストが女川に滞在し、制作等をしていました。

期間中の展示会場として町民野球場仮設住宅のリューズマルシェが使用されました。
その様子を紹介しようと思います。

主な会場となったリューズマルシェは、仮設住宅内にあるオープンスペースで、さまざまなイベントに使われています。

今回は、その場所を使い、アーティストが開くワークショップや作品展示が行われました。
女川町は、町の80%が壊滅状態でさらに平地が少ないのため、
ここの仮設住宅では、海上コンテナを積み上げて作った3階建ての仮設集合住宅になっています。
今回、仮設住宅の中心部にコンテナが並べられ、
大きなテントが被さっているオープンスペースです。

そこに展示していた写真は、写真家の高田洋三さんが撮影した女川の風景でした。



「ここの手前が私の家だったのよ」
「懐かしいわー。ここに家が並んでたのよ」
「あら、ここは女川の源流の場所なの?」
「戦時中、ここを登って隠れたのよ」
たくさんの思い出が1枚の写真からよみがえり、地元のお母さんたちはしばらく見つめていました。
また、女川の源流を見るのが初めてだった人には、とても新鮮な景色でした。
写真を見ては、「あー、懐かしい」
その思い出は、今から何十年も前の話だったり、つい最近の話だったりしました。








写真が並ぶ会場では、ワークショップも行なわれていました。

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「水彩画〜移ろいの感触〜」コリー・ジャクソンさん
 水彩絵の具やインクの新しい技法を学ぶチャンス。
 様々な画材を使って、印象、素材感を表します。
 できた作品は、モンスターをつくるための素材として使われます。

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「日常の勇気のメダル作り」マグダ・ウォジティラさん


 食器トレー等もの周りにあるものを使って、
 キラキラした素敵な「勇気のメダル」を作っていました。


「タンデム・フライト女川」マーク・ニュイさん
 紙で不思議なモンスターを作りました。
 できたモンスターは女川の風景と組み合わされ、
 自分の顔のモンスターが女川を飛んでいるようなアニメーションになります。


子どもたちが作ったモンスターは
後日作品が公開されました。(次回紹介します)
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「my trace」河村るみさん
自分の姿をなぞって絵を描く遊びです。


自分の姿を写真に撮って、プロジェクターで映し出された自分の姿をなぞって描きました。

なぞり終えたら投影した写真を消します。するとなぞられてできた自画像が完成します。

友達と一緒に描きあいっこします。

「モバイルビュートレス」

持ち運びできる、トレース機で、女川原子力発電所のスケッチ制作もしました。

見ている風景をなぞる、ビュートレスの、どこでもできるものを制作しました。
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また、沿岸部では、公開制作が行われていました。

「明日に架ける橋」武谷大介さん



町民の悲願である出島架橋をテーマに心の橋を制作しました。

真夏の日差しに負けずに、武谷さんは毎日早朝から深夜まで制作していました。
そこでは、京都の創作落語家の屯風亭とん平さんと悶亭乳尊さんとカミーラさんによるパフォーマンスも行われました。

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「オナガワ・フロー/おながわのながれ」高田洋三さん
女川の風景を撮影し、展示をしていた高田さんの公開制作は、ホタテの貝を1万個並べたランドアートです。実は、ホタテには土地を清める、浄化作用があると言われているそうです。

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そして期間中、地元の人とのさまざまなコラボレーションも行われました。

「チア・リーダー」カミーラ・シングさんです。

リューズ・マルシェで行なわれたワークショップ「SHOW ME YOUR MOVING」(あなたの動き/所作を教えて)での子どもの動きや空手道場に何度も訪れ、空手の動きを真似して、新たな振り付けを制作しました。

そして、完成したダンスを女川のあちらこちらで披露し、
働いている人たちを応援してくれました。
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「3人のための舞」/旭が丘子ども獅子+デレック・リディントンさん

2頭の獅子の衣装を制作し、沿岸部と町民野球場仮設住宅のリューズマルシェにて舞を披露しました。衣装は女川沿岸部の土を利用して染められていました。
旭が丘子ども獅子が太鼓と笛で盛り上げてくれました。
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最終日に行なわれたのは、アーティストの武谷大介さんと女川町出身の梶原千恵さんが活動している「遠足プロジェクト」写真会でした。
これは、2012年の3月に支援物資で使用されなかった中古のランドセルを女川中学校と小学校から譲り受けたことから始まりました。
それらはカナダでアート作品に生まれ変わり、35個のランドセルが再び日本に届けられ、その後、日本のアーティストも加わり、合計70個のランドセルアートが生まれました。
全国から女川の小学生へと集まったランドセル。
多くの想いがアートに姿を変えて、日本国内を巡回し、再び女川の地に戻ってきました。




一つ一つがとても個性的で素敵なアート作品でした。
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アートで笑い、アートで感動した昨年の思い出は、次回に続きます。

(平成25年1月15日)
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