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震災への備えを知る(前編) 仙台市水道局・茂庭浄水場(仙台市太白区)

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YUUです。

猛暑も嫌ですが、異常気象はもっと困ります。

東北地方が梅雨明けする前の7月下旬、隣の山形県では記録的な大雨の影響で、4市2町が最長9日間の断水を余儀なくされました。

報道によると、晴天続きの水不足とは違って、集中豪雨により土砂が河川(寒河江川)に入り込み、浄水場の処理能力を大幅に超える濁りが発生したためのようです。

宮城県民にとって、自然災害によるライフラインの切断は、震災当時の記憶を鮮明に呼び起こすものです。

停電、断水が続く言いようのない不安は、多くの人々にとって、二度と経験したくない種類の体験でしょう。

個人ごとの震災へ備える意識は、3.11以前と以後で大きく変化したと思いますが、日常生活を支えてくれている、なくてはならないライフラインを預かる組織、施設の備え、取り組みはどうなのでしょうか。

普段、大抵の人が訪れる機会が少ないと思われる仙台市太白区の茂庭浄水場に行ってきました。

仙台市に4カ所ある主要浄水場の1つ茂庭浄水場


スイッチを押せば明かりがつく。
蛇口をひねれば水が出る。

当たり前のように私たちが享受している生活は、多くの先人たちの知恵と、日々の専門的業務に携わる人々によって支えられています。

浄水場は、河川やダム等から取水した水を浄化、消毒して、市民へ供給する施設です。

例えるなら、安全な水を生産する工場のようなものです。浄水場で浄化、消毒処理を行うことで、私たちは日々、安全な水道水を大量に利用することができます。

先月の山形県内の断水処置は、豪雨の影響でダムの水が浄水場で浄化しきれないほどひどく濁ったために、多くの人々が困難に直面する事態となっても水の供給を止めざるを得ないと判断されたみたいです。

浄水場は水道に関わる安全装置の役割を担っているのです。



茂庭浄水場の浄水施設。筒状の大きな煙突のように見えるのが着水混薬井
着水井(ちゃくすいせい)は河川などの原水の浄水場での最初の水槽
着水井から出た原水は、ろ過処理やpH(水素イオン指数)の調整、消毒などが行われる

茂庭浄水場は仙台市に4カ所ある主要浄水場の1つで、昭和45年から稼働している仙台市最大の浄水場です。主に若林区、太白区、宮城野区へ給水しています。上の写真に見える筒状の着水混薬井を囲む外観はかなり印象的で、「近代水道百選」にも選定されたそうです。


震災後、設置された建物を囲む耐震フレーム


もし、浄水場の施設が地震で倒壊したら?

浄水場は安全な水の生産工場なだけに、その影響は計り知れません。

幸い、茂庭浄水場をはじめとする仙台市内の浄水場では、東日本大震災により、浄水機能に大きく影響するような被害は発生しませんでした。

各浄水場では、震災以前から計画的に建物などの耐震化を進めていましたが、今回の震災を踏まえ、より一層の耐震化を推進するそうです。




施設内の連絡橋もチェーンで固定されている

「茂庭浄水場をはじめ、浄水場は取水、配水をスムーズに行いやすいように山あいに設置されています。地盤の関係もあるのでしょうが、建物そのものの地震による被害はほとんどありませんでした」

こう話してくれたのは、仙台市水道局の浄水部茂庭浄水課の斎藤恒一場長です。

建物そのものは深刻な打撃を受けなかったものの、先の震災では、法面(のりめん)などの土木施設において被害が多く発生しました。

また、茂庭浄水場は電力の供給が98時間途絶えてしまいました。非常用自家発電設備により浄水処理に必要な電力は確保できましたが、燃料補給などの設備運用に苦労したそうです。

仙台市水道局は、昭和53年の宮城県沖地震の経験から、震災対応を念頭に置いた水道行政を推進してきました。しかし、今回の震災では他のインフラ全体の被災により、都市機能そのものに支障が出る事態が次々と起こりました。

仙台市水道局給水部計画課の西野雅夫主幹は、震災直後の混乱を次のように説明してくれました。

「インフラ全体の被災の影響という意味では、流通機能がまひしたことや、長時間の停電とともに県内の石油備蓄基地の被害が重なったことは象徴的な出来事といえるでしょう。応急給水や復旧作業用の車両の運行、送水ポンプ場の非常用自家発電設備の稼働に支障が生じるほどでした」
 
水道の重要施設には非常用自家発電整備を設置していますが、大規模な震災では、その整備を稼働させる燃料の確保がままならないという、不測の事態を招きました。

想定していた稼働時間を大きく超える停電に加え、タンクに補給する燃料の確保がままならなくなるという事態は、震災対応を念頭に置いてなお、想定外の出来事だったようです。

24時間の停電に対応できる容量の燃料タンクはあったものの、最大4日間にも及んだ停電は想定していた自家発電の稼働時間を大きく超えており、併せて県内の石油備蓄基地の被害、物流の遮断により燃料確保がままならなくなる事態は危機管理の想定外でした。

水道局では検証委員会を設け、さまざまな角度から、東日本大震災における被災状況や対応などを評価、検証し、今後の取り組みや課題についてレポートをまとめたといいます。震災対応の詳しい検証レポートは、「東日本大震災 仙台市水道復旧の記録」としてまとめられており、水道局のホームページで閲覧できます。

「浄水施設は水道事業の基幹施設です。今回の震災被害は軽微でしたが、被害想定が最も大きい直下型の地震にも対応できるように今後も着実に耐震化を図っていきます。また、地震による被害を受けやすい水道管路の耐震化も、災害拠点病院等への供給ルートを耐震管に入れ替えたりするなど、効率的に進めています」(給水部計画課 西野さん)

仙台市の管路の耐震性は、平成22年度の厚生労働省の調査では全国平均を大きく上回っていまが、現在でも耐震性に劣る管路が約15%残っています。

耐震型継手の概要
地震時にはロックリングに挿し口突部がかかり、大きな衝撃を受けても管が抜けないようになっている



「平成14年から敷設する管路はすべて耐震管にしています。これは、継手の抜け防止機能と地震動や地盤変動に柔軟に抵抗する鎖構造を持つ継手形式のものです。今回の震災も含め、他所で起きた過去の地震でも被害は報告されていません」(同)

仙台市の水道水は、市内全域に張り巡らされた水道管を通して、各家庭や建物に届けられます。水道管は、地盤条件が良いところや津波被害のない丘陵地帯だけ重点的に敷設するわけにはいきません。

材質や継手部分が耐震性に優れた管への取り替え、総合的に管路の耐震化をより推進していくことは、震災対応を踏まえた今後の水道行政にとって欠かせない事業のようです。

気象庁の発表では、東日本大震災後、今年3月11日までの丸2年間で震度1以上(有感)の余震回数は9577回を数えるそうです。余震や誘発地震の収束は専門家でも完全に予測することは難しく、今後、中長期的な震災対応の行政政策とは別に、早急に改善が求められる施策も私たちが漠然と考える以上に多いのかもしれません。


今回は浄水場をはじめとする水道施設の震災時の被害、耐震化の取り組みを紹介しました。

後編では、応急給水など、震災が起こった場合の事故対策や、茂庭浄水場の非常用設備の整備などをレポートしたいと思います。


仙台市水道局  仙台市太白区大野田29番地の1
http://www.suidou.city.sendai.jp


(取材日 平成25年7月30日)

リアルな『絆』を育てたい (南三陸町) 

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石野葉穂香です。

18年前の平成7年(1995)、阪神大震災が発生したとき、インターネットはようやく商用サービスが始まったころ。まだまだ黎明期でした。

でも、東日本大震災では、メールはもちろん、インターネットやツイッターが大活躍。安否情報はもちろん、刻々と変わる被災地の状況がいくつも発信されてたくさんの人たちに届き、情報は多くの人たちと共有することができました。
 
これも、現代ならではの『絆』なのかもしれません。

南三陸町の防災対策庁舎跡には
たくさんの花が捧げられていて
まだまだ多くの方の記憶に留められているようです


被災地には、見ず知らずの方々からも、物心両面でたくさんの支援が届けられました。
そうして結ばれた〝縁〟が、いつかリアルな出会いとなって実現したら・・・。
PCやスマホの画面の外で、実際に触れ合ったり握手することができたなら・・・。

『南三陸deお買い物』というネットショッピングサイトを運営されている伊藤孝浩さんも、そんなふうに「もっとたくさんの人と人との出会い」を願っていらっしゃる方のお一人です。


『南三陸deお買い物』は、町内で商売を再開しているお店と、取り扱う商品を紹介しながら、地元の商品を購入することができます。現在は20店舗を紹介しています。






同サイトのバナーと
夏バージョンのタイトルバックです

伊藤さんは南三陸町の歌津のご出身。
震災の当日はお仕事の関係で中国にいました。

ツイッターで情報を集めたり発信したりしているとき、埼玉県と北海道の方お二人と知り合い「信用できる情報だけをまとめて、それを発信できるサイトを作ろう」と意気投合。2011年4月「南三陸町支援情報ポータルサイト」を三人で立ち上げました。

続いて、商店などが再開し始めると「南三陸お店再開情報マップ」というサイトを仲間とともに作りました。そしてさらに、奥様が南三陸町の出身だというKさんという方が、システム構築に参加を申し出てくださいます。

そして、同年8月『南三陸deお買い物』がスタートしました。

「南三陸さんさん商店街」。
販売店、飲食店、理容店など30数店舗が軒を連ねています

伊藤さんは、2012年6月、帰国して南三陸町へ帰郷。
町内のお店を訪ねては、一人で取材・撮影・テキスト執筆などをこなしながらサイトを運営しています。

「でも、目指しているのは、モノを売るためのサイトではなくて、〝繋げるサイト〟なんです」と伊藤さん。

「もちろん売ることも大切ですが、発信したいのは物産の魅力と、それを作ったり販売している〝南三陸の人たちの魅力〟です」

伊藤さんの記事には、商品に込められた〝人の思い〟が乗せられています。
商品カタログ的ではなく、商店主の〝思い〟もまた大切に届けてくれます。
「生産者、出店者の〝思い〟が、買ってもらうことで繋がっていけたらいい。そして、いつかは実際に現地へ来てもらえたらって思っています」

人、モノ、そして地域のこと――。
今の南三陸にあふれている思いや情報を知ってほしい。


『南三陸deお買い物』を主催する伊藤孝浩さん。
「さんさん商店街」にあるお店も
何軒かはサイト上で紹介しています


サイト上の注文欄には、メッセージが書き込める欄があります。
そして注文の際に、何か一言、書き添えてくれる方は実際に多く、それらが店主の励みになっているそうです。

「以前は「買って支援しよう」という、どこか〝同情〟的な支えもあったかなと思います。でも、今は「商品がいいから」とか、店主やスタッフなど「あの人のお店だから」ということで買っていただけていると感じますね」


『南三陸deお買い物』サイト上で紹介されている
「及善蒲鉾店」さんです。
若き専務・及川善弥さんと、スタッフ阿部千史さん

お客さんとお店の人とが、情報交流しあえるページもこれからは作っていきたいと伊藤さん。
そして、人と人とが、もっと繋がって行ける〝場〟として、伊藤さんは今秋、『南三陸おらほの学園祭』という企画も準備中です。

「町を学校に見立てて、いろんな部活動をしていこうというもの。例えば小物作りをしているママさんは〝手芸部〟の部長さん、釣り体験プログラムを提供している漁師は〝釣り部〟の部長さん。
まずは町域の中で、いろいろな人たち同士を結び合い、そして域外へ全国へと繋げてきたいです。がんばっている人たちを紹介して、面白そうと思ってもらえたら、実際に会いに来てほしいなと思います」

「さんさん商店街」真ん中のフードコートに
飾られれている招きネコには寄せ書きいっぱい

『絆』という言葉が放つエネルギーも少しずつ変化しています。中には「〝絆〟っていうフレーズ、もう食傷気味」という方もいらっしゃるかも。

『絆』という〝言葉〟だけでは、日々変わりゆく被災地の現状を、まとめきれなくなってきているのかもしれません。

だからこそ、見に来てほしい、会いに来てほしい。
『絆』は、インターネットや報道の世界で「フレーズとして使われるもの」ではなく、「人と人とがリアルに結んでいかなければいけないもの」です。

秋のイベントもまた『ココロプレス』で告知させていただけたらと思います。
リアルな『絆』が深められて行きますように。


南三陸deお買い物
http://www.odette-shop.com/


(取材日 平成25年8月21日)

「タイヤキ オイシイデスネ」(気仙沼市魚町)

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「師匠との約束を守って私の店では、あんこの『たい焼き』だけで商売をしています」

気仙沼市魚町でソフトクリームとたい焼きの店「おのでら商店」を営む小野寺悟さん(63歳)は、兵庫県神戸市でたい焼き屋さんと出会ったことをきっかけに、平成5年から自らも「たい焼き」を商売として始めました。

気仙沼観光桟橋付近は建物の基礎が残る場所があります


小野寺さんの店は気仙沼の内湾、気仙沼観光桟橋の旅客船乗り場から歩いて5分ほどのところにあります。4軒が入居する仮設店舗の一番北側、赤い「たい焼き」の暖簾と大きなソフトクリームの看板が目印のお店です。

赤い「たい焼き」の暖簾が目印のおのでら商店


震災の前、小野寺さんは今の店から海岸道路沿いに少し南に行った港町でたい焼きと海産乾物の店を営業していましたが、大津波のため店舗と自宅が流失しました。

数日間続いた雨が止み青空が見られました

震災後、奥さんの出身地である仙台市への移住と店舗の移住も考えましたが、奥さんの「仙台より魚町(気仙沼市)が好き」という言葉に後押しされて、気仙沼で商売を再開することにしました。

魚町にある仮設店舗
そこでまず、中小企業支援機構の支援を受けて自分の土地に仮設店舗を建てることにしました。
もともと魚町で一緒に商売をしてきた店主さん3人と、気仙沼市唐桑町から移設した店主さんと4店舗で、平成24年9月から営業を再開しました。
仮設店舗の中には小野寺さんの店の他に、八百屋さんとお茶屋さん、電気店が営業しています。


ところで、海産乾物の店でどうして「たい焼き」なのでしょうか?

震災前から、小野寺さんの店のたい焼きは地元の人のたばこ(たばこ=10時や3時の休憩のときに食べるおやつ)や船員さんの託送品、身近な人へのお土産に大人気でした。
売られているのはあんこの「たい焼き」のみ。
店の前にはたい焼きを求める人が列を作ることもありました。

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小野寺さんは、気仙沼市大島出身です。大島で海産乾物を扱い岩手県や秋田県などに行って販売をしていました。
平成元年、兵庫県神戸市の百貨店で開かれた気仙沼の物産展に気仙沼物産振興協会の推薦で出店し、海鮮弁当などを販売しました。
6日間の催事の期間中、小野寺さんの店に毎日ホタテ丼を食べに来るお客さんがいました。
その人に「気仙沼のホタテはうまいかい?」と声を掛けました。話をすると、その人が百貨店の近くでたい焼きを売っていることを知りました。
小野寺さんは、さっそくその人~「齋藤さん」という方でした~の店に「たい焼き」を食べに行きました。
たい焼きのあんこの味に魅了された小野寺さんは、たい焼きの作り方を教えてほしいと、焼いていた齋藤さんに頼みました。

師匠の教えをかたくなに守って焼かれている「たい焼き」

齋藤さんは、小野寺さんに「たい焼き」を教える条件として「あんこの味を変えないで我慢できるか?」とたずねました。
小野寺さんは「あんこの味は変えない」と約束をして、「あんこ」の作り方とたい焼きの焼き方を教わりました。

気仙沼の人達の「たばこ」やお土産に人気です


小野寺さんは、平成5年から港町の「お魚いちば」の一角でたい焼きを売り始めました。
はじめのうちはお客さんから「たい焼きのあんこに甘みが足りない。砂糖をケチっているのか?」と言われたこともありましたが、小野寺さんは齋藤さんとの約束を守り続け、けっしてあんこの味を変えませんでした。
震災後、店を再開した今も、齋藤さんのあんこの味を守り続けています。

小野寺さんは齋藤さんに感謝の気持ちを伝え店の再開の報告をしたいと思っていますが、平成7年の阪神淡路大震災以来、齋藤さんとは連絡が取れなくなっています。
小野寺さんは齋藤さんの消息を懸命に探しましたが今も消息はわかっていません。

小野寺さんは
「齋藤さんが存命であれば会いたいと願っています。元気でいれば現在95~97歳くらいになっていると思います。私を信頼して努力して作られた『あんこ』を教えてくれた人です。今も齋藤さんの思いを大切にしていることを伝えたい」
と話します。

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小野寺さんは、震災後1年6カ月間仕事ができなかった時のことを振り返り、
「仕事ができることはすばらしいことです。仕事ができなかった時はとてもさびしかった。仕事をしていると、『仕事に仕事を教えられること』もあります」
と話します。

「たくさんの人のおかげでここまで来ました」と話す小野寺さんご夫妻

震災前に店があった場所の目の前には防潮堤が建つ計画があります。今仮設店舗がある場所もいずれは移転しなければなりません。

奥さんは、気仙沼で生活を始めて30年。
「津波は怖いけれど、海は好きです。海が見える風景は大切にしたいですね」
と話します。
「津波警報が出たらすぐに逃げるから・・・気仙沼の風景はねっ~! 今後のためにも選択しはできる限り多いほうがいいですね」
と小野寺さんは話します。


店内には海産乾物が並んでいます

震災から2年5カ月。
「私たちは震災から生かされました。世の中のためになりたいと思います。ないといいのですが、他の地域で災害が起こったら支援に行きたいです。妻のためにもまだまだ頑張っていきたいです」
小野寺さんは話します。

気仙沼観光桟橋には仮の駐車場が設けられ大島へのアクセスにも便利です


店には子どもからお年寄りまで多くの人がたい焼きを買いに来ます。
店の前にはすずめも、たい焼きの端の部分を切ったものをもらいに集まっています。

たくさんのスズメが「たい焼き」の端をもらいに来ています

生まれて1年目の子スズメもエサのおねだりに来ています


販売を始めたころには「甘さが足りない」と言われたたい焼きも、今や気仙沼の味、「おいしいもの」になりました。
今は外国から訪ねてくる旅行客にも「タイヤキ オイシイ」と大人気です。

小野寺さんは「震災直後の状況を経験したら、今後は何でもして生きられるよね」と話していました。

気仙沼の海産物を中心に様々な海産物が店内に並べられています

kaiiもそう思います。
あの状況の中から生きて今の生活があります。
絶望とはこんなことをいうのか? と思った、震災直後の絶望的状況から2年5カ月。電気も電話も水道も使え、おいしい食事をいただけます。小野寺さんのたい焼きが我が家にもお土産に届くこともあります。この普通の生活をとても幸せだと思います。

小野寺さんの「たい焼き」は、遠洋で働く漁業船の船員さんにも気仙沼の味として託送品で送られています。
遠い海の上で働く漁師さんには感謝価格で販売されています。


「おのでら商店」
定休日:不定休
営業時間:午前8時から午後6時まで


(取材日 平成25年7月30日)


「純米酒の県みやぎ」の心を打つ復興支援のエピソードと「きき酒会」  宮城県酒造組合(仙台市)

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YUUです。

先月、ココロプレスでは、名取市閖上で深刻な津波被害に遭った「宝船浪の音(ほうせんなみのおと)」の有限会社佐々木酒造店の、仮設工場での酒造り再開までの軌跡を紹介しました。

揺るがぬ酒造りへの思い~佐々木酒造店・前編(名取市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/07/blog-post_1160.html
揺るがぬ酒造りへの思い~佐々木酒造店・後編(名取市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/07/blog-post_30.html

東北地方の各地で地域と密接に結び付き、地域経済の担い手となってきた酒造業。
東日本大震災では、宮城、福島、岩手各県の由緒ある多くの蔵元が被害を受けました。

宮城県では、津波によりポンプ、モーター、コンプレッサー等の機械類が海水に浸かり、ほぼ全滅してしまった酒造場だけで、3場を数えました。酒蔵が全壊してしまった佐々木酒造店と、「浦霞」の株式会社佐浦本社蔵、「墨廼江(すみのえ)」の墨廼江酒造株式会社の3場です

宮城県酒造組合の調べによると、組合員となっている25蔵元・27製造場(実稼働26製造場)のうち、全ての酒造場が震災の被害を受けたそうです。11の蔵元が全壊および大規模半壊の被害を受け、製造設備(社屋や店舗などを除く)に限定しても、何らかの改修工事(破損設備を呼び機械類の更新等を含む)を行わずに済んだ製造場はありませんでした。



東日本大震災で損壊し、昨年建て替えられた宮城県酒造会館
宮城県酒造組合が入居し、技術指導の拠点となる醸造試験場
利き酒会などのイベントを開く多目的ホールを備えている


そうした中、日常の業務で各蔵を訪れて酒造りのアドバイス、技術指導なども行っている宮城県酒造組合の伊藤謙治さん(参事・技術担当)、宮城県産業技術総合センターの食品・バイオ技術部の橋本建哉さん(上席主任研究員)、小山誠司さん(研究員)が発起人となり、津波被害が甚大だった3場の酒造場に対し、支援の呼び掛けを行いました。

「私たちは、日常の業務で宮城県内それぞれの酒蔵に対して技術支援、コンサルタント業務的なことを行っています。3.11後、橋本さんとともに、沿岸部から内陸部まで各蔵を回りましたが、巡回すればするほど想像以上の被害の甚大さを目の当たりにし、胸を痛めました。日頃、宮城の酒造りの巡回コーチのように各蔵に伺って、それぞれの会社とお付き合いのある私たちに何かできることはないか、と考えて支援を呼び掛けました」(宮城酒造組合・伊藤謙治参事)

宮城県産業技術総合センターの橋本さんは、次のように話してくれました。

「行政機関の技術指導というと「従うべき通達」のようなイメージをもたれるかもしれませんが、決してそんなことはなく、各社の個性を伸ばし、目標とするもの、考えを聞いたうえで、技術的なアドバイスを行っています。2008年の岩手・宮城内陸地震で社屋や蔵が被害にあった県北部地域の蔵元さんの被害も大きかったですが、機械類が浸水してほぼ全壊する津波被害を受けた蔵元さんは、操業再開が危ぶまれるような状況でした」

伊藤さんは現職に就く以前に、東京都北区王子にあった旧醸造試験場で酒造技術を学んだ経験があり、その当時、ともに学んだ鹿児島県工業技術センターの瀬戸口眞治食品工業部長、兵庫県の酒造会社、櫻正宗株式会社の原田徳英執行役員などに各地の窓口として協力してもらい、支援を呼び掛けたのだそうです。

「醸造試験場時代からお付き合いのあった瀬戸口さんや原田さんには本当に言葉に尽くせぬほどお世話になりました。原田さんは、ご自身の会社が阪神淡路大震災による被災経験があり、その教訓をもとに会社の方で備えていた機械をピカピカに磨き上げて、マニュアルもきちんと用意した状態で、たくさん寄贈していただきました」(伊藤さん)

また、鹿児島県工業技術センターの瀬戸口さんの呼び掛けのおかげで、清酒会社ではない、現在、鹿児島の一大産品として全国に知られる県内の各焼酎メーカーからもたくさんの機械類の寄贈があったそうです。

人の縁、絆(きずな)の大切さを痛感させられるエピソードですが、物資面の支援だけではなく「声を掛けてくれてありがとう」、「酒造りを辞めないでください」とメーセージを込めて、高額な機械類を支援企業負担で送付してくれたそうです。


酒造りに欠かせない機械類の支援とともに
さまざまな支援者、支援企業の心を打つ激励の言葉、気配りに感謝したいと話す
宮城酒造組合 伊藤謙治参事(技術担当)

伊藤さんは、さまざまな形の復興支援に感謝するとともに、日々、より良い宮城の酒造りにまい進し、今後、他地域で災害があったときには力になりたいと話します。

米どころの宮城県は、全国的にみても類を見ない高品質な日本酒のブランド産地を形成しています。

宮城県の日本酒は、吟醸酒、純米吟醸酒などの名で知られる特定名称酒(高品質酒)の比率が85%以上と、他県に較べて群を抜いて高いのです。全国平均でみると、清酒産業において、特定名称酒の生産比率は約30%ほどです。


特定名称酒、高品質酒というだけだと、日頃「あまり日本酒は」という向きにはちょっと分かりにくいかもしれませんが、端的に言えば、米を贅沢に使用する日本酒のことです。吟醸酒は精米歩合が60%以下になるまで米を削りますし、純米酒は米だけを原料とします。

それに対して一般酒は、米を節約するお酒とでもいえば、対比が分かりやすいでしょうか。普通酒は平均4割程度醸造アルコールが添加されています。


宮城県酒造組合では27年前の昭和61年に、「純米酒宣言」をしました。

単に稲作が豊かで酒どころとアピールするのではなく、何を造るかを明快にし、品質重視による「酒どころ宮城」をPRすることにしたのです。


宮城酒造会館の正門前には
25の組合員各蔵を代表するお酒が陳列されている
  
純米酒宣言は、宮城県内の各蔵元、酒造組合の先進性を示す画期的な決断だったともいえるでしょう。

「ササニシキで美味しいお酒を造るのはたいへんだ、というような声も聞かれた中で、各蔵元さんは試行錯誤を重ね、高品質で美味しい純米酒造りに取り組んできました」

国税庁の資料によると、震災が起こった2011年に日本酒消費量は久しぶりに底打ちをみて、回復基調に転じました。その要因の一つに被災地支援ニーズがあったことは明らかでしょう。なかでも宮城県の出荷伸び率は高く、震災翌年の2012年度も好調が続きました。

個人的な推測ですが、この現象は、被災地支援をきっかけに全国のユーザーが「みやぎの酒」の品質を認めてくれた証明ともいえるのではないでしょうか。

被災地の地場産品を震災支援の一環として注文する。それだけでは、出荷の伸び率は短期で終了してしまします。最初は震災支援で注文したとしても、そのことが「みやぎの酒」を知るきっかけとなり、一定数のリピーターを得たことが、宮城県の2011、12年の継続した日本酒出荷量の増加につながったと考えるのが、自然のような気がします。


宮城県内の純米酒が揃う「きき酒会」
各蔵元の個性が感じられる商品を飲み比べできる


宮城県酒造組合では、県内のそれぞれの蔵が研鑽を積んで醸した高品質のお酒をPRするために、定期的にきき酒会を開催しています。

このきき酒会に参加するには、「日本酒サポーターズ倶楽部・みやぎ」に入会する必要がありますが、入会はいたって簡単。20歳以上なら誰でも入会資格があり、入会金、年会費はありません。上記名称のHPにアクセスし、無料登録するだけです。

会員になると、宮城県酒造組合が開催する各種イベントがメールで告知され、きき酒会をはじめとするサポーターズ倶楽部限定イベントやセミナーに参加することができます。

心を打つ復興支援のエピソード、震災による県内各蔵の被害状況や復興への歩み、「純米酒の県・みやぎ」を掲げる酒造組合の情報発信、日常の取り組みについて、前述の伊藤さん、橋本さんに話しを伺ったあとに、酒造会館多目的ホールで開催されていた、きき酒会の様子をのぞいてきました。
  
真剣な様子は日本酒ファンならでは
22社・93点の純米酒が並べられた様子は壮観です。

参加者は会場入り口で「きき酒会展示目録」と「きき酒用スチロール・カップ」を受け取ります。

あとは、会場内の展示酒の前に置いてあるきき猪口の中から、きき酒に必要な分量の酒を各自が注ぎ、マイペースできき酒を楽しみます。


展示酒の前にはきき猪口が用意されている

タイプ別に並べられた陳列台の記号で目録と照らし合わせて楽しめる趣向

写真右手前の「墨廼江(すみのえ)純米吟醸蔵の華」は、
展示酒目録によると、酸度1.7。爽やかな果実様香りハナヤカタイプ
キレがあり、冷やして、または常温で飲むのがお薦めとある


このきき酒会の特徴的なところは、展示目録がきちんと用意されていて、タイプ別にお酒が展示されていることです。

「酸度順」に展示酒が並べられる


今回のきき酒会の展示酒は、酸度順に並べられていました。

伊藤さんの説明によると、酸度はお酒に「キレ」や「しまり」をもたらすものだそうです。

展示酒の目録には、お酒に「やわらかさ」や「奥行き」をもたらすアミノ酸度やグルコース濃度の表記も明示してあり、それぞれのお酒の香りのタイプからお薦めの飲み方タイプまで紹介されています。

「香りのタイプや味の濃さ、やわらかさなどをタイプ別表示することは、宮城県酒造組合で行っている日本酒の商品情報提供、宮城県推奨清酒の取り組みの一環でもあります。平成19年11月より酒造組合のHP上で情報提供サービスを行っていて、推奨清酒は3カ月ごとに申請して、推奨評価委員会による官能評価を受けなければなりません」

日本酒のラベルには、細かな規定にのっとった商品情報が記載されていますが、これは、基本的に製法の概要を記すハードの情報です。

伊藤さんによると、専門家、酒造業関係者でもラベルの情報だけで、飲酒経験もない商品の中身、味わいを推察することは難しいそうです。

前述の橋本さんは、「宮城県における日本酒の商品情報提供への取り組みについて」の論文をまとめています。そのなかで、「どのような味」なのかを知るためには香りのタイプ、味のタイプなど、ソフトの情報を開示したうえで、表現しきれない部分を「どのように造られたのか」のハードの情報で補完することが大切だと指摘しています。


きき酒会で談笑する
宮城酒造組合 伊藤(左)さんと
宮城県産業技術総合センター 橋本(右)さん

他県に先駆けて高品質の酒造りを掲げる「純米酒宣言」を行ったことで、宮城の清酒は一定の認知度、評価を得ました。一方で、その努力や試みが全国の消費者に対し十分に浸透したとは言い切れないジレンマもありました。

その理由の1つと考えられたのが、お酒が好きな人でさえ分かりにくい、味のタイプや香りのタイプに関する情報開示、つまり、ユーザーが求める美味しい日本酒選びに必要な商品情報の少なさでした。

宮城県酒造組合が定期的に開催するきき酒会や、宮城県推奨清酒の情報提供サービスは、ユーザーが求める美味しいお酒、それぞれの蔵の個性を情報発信して、みやぎのお酒、ひいては日本酒の実力を問う、高品質の酒造りに以前から取り組んできた宮城県の各蔵元ならではの試みです。

震災支援を1つのきっかけとして、全国に宮城の力、「純米酒の県みやぎの実力」をこれまで以上に発信していくことは、これからも継続していかなければならない復興の力の大きな源泉となるにちがいないと、今回の取材を通じて再確認しました。



宮城県酒造組合
みやぎの酒選り取りナビ
http://www.miyagisake.jp/


(取材日 平成25年8月2日)

被災地を見て、触れて学ぶ「南三陸復興学びのプログラム」(南三陸町)

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こんにちは。kaiiです。
日中と朝夕の気温差が大きくなり、すっかり秋を感じるようになりました。お変わりなくお過ごしでしょうか。

ミヤギノハギが咲き始め秋の気配を感じられる様になりました

東日本大震災から2年6カ月がたとうとしています。
「東北は復興したんでしょう?」などの声が聞かれます。
ボランティアに訪れる人も減り、震災の風化が確実に進んでいることを、被災地に住んでいても感じるようになりました。

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工藤望さんは、「社会貢献共同体ユナイテッド・アース宮城登米オフィス」で4人の仲間とともに「南三陸復興学びのプログラム」を企画、運営しています。

工藤さんは、
「被災地に住む私たちが、自分たちが経験した大津波の怖さやその後の生活について話すことが、たくさんの人に自分の命を守ること、防災についてを考えるきっかけになると思い、この活動をしています。このプログラムの運営の目的は『震災の風化防止』と『防災意識の構築』です」
と話します。


南三陸町立志津川小学校からの町内の様子(平成24年10月撮影)

工藤さんは、南三陸町志津川に嫁いで1年ほどで被災しました。大地震の後、すぐ1歳の娘さんと高台に避難して、町を襲う大津波を高台から見ていました。
南三陸町立志津川小学校の体育館に設置された避難場で子どもと一緒に避難生活を送りました。その後、町内の仮設住宅で生活を始めても、高台の小学校から見える壊れた町の様子がとても悲しく思え、町の復興のために何もできない自分にもどかしさを感じました。

南三陸町志津川小学校から見た町内の様子(平成25年3月撮影)

工藤さんは、南三陸町の支援に訪れたボランティアの人たちが工藤さんに掛けてくれる言葉に励まされました。
たくさんの人と話すことで、自分が震災から「生かされた」ことに気が付きました。

生かされた命を大切に、「南三陸町の復興のためになりたい」と強く思うようになりました。
小さな子どもがいる自分にできることは震災の経験を話すことだと考え、「南三陸復興学びのプログラム」の企画運営に参加しました。

工藤さんは
「震災という大きな痛みと大変な思いをして家族の大切さ、友人の大切さ、当たり前と思っているけれど実は当たり前でない普通の生活ができることの大切さに気付きました。私たちのような思いを他の誰にもしてほしくないと思います」
と話します。

震災からの復興工事の様子

「南三陸復興学びのプログラム」は、「被災地を見て、被災地に触れて、被災地を学ぶ」現地着地型の日帰りと1泊2日の2コースで週に3日(火・木・土曜日)に行われているプログラムです。



日帰りコースは、被災した南三陸町内をバスで回り、当時の被災の状況などを語り部から聞くことができます。語り部はこのツアーを企画運営する女性たちです。

日帰りコースには南三陸さんさ商店街での買い物なども含まれています。

1泊2日のコースでは、1日目はバスでの巡回、2日目は希望のある場所のガレキの撤去や草むしり、漁業の手伝いなどの作業などのボランティア活動をします。



「残念ですが震災の風化は進んでいます。ボランティアに町を訪れる人も少なくなりました。私たちの町が元気を取り戻すためにはまだまだ外からの力を借りなければなりません。1日も早く震災前の活気のある町に戻していきたいと思います」
と工藤さん。

語り部を出張で行うプログラムもあります

「語り継ぐ想い 伝えたい想い 未来へつなぐ想い」

震災後の平成24年3月から始まった「南三陸町復興学びのプログラム」には、平成25年7月までに延べ1000人の個人と1000件ほどの企業が参加しました。
語り部の語る被災体験に「涙が止まらなかった。今日と言う日が当たり前でないことを実感し、平凡な自分の1日がとても愛おしく感じました」と感想を話す女性客もいました。


「大地震と大津波で南三陸町は壊滅的被害を受けました。
この自然の引き起こした悲劇が忘れ去られないように」と
チリ共和国から南三陸へ贈られた「モアイ像」





「ボランティアに訪れる人が多かった時は、町に人の気配が多くあり町ににぎわいを感じられたし、話し相手になってくれる人も多くいたのに、ボランティアに来る人が減ってさびしく感じている」と話す高齢者がいることも、工藤さんが教えてくれました。

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震災の風化は確実に進んでいます。
私たちの中の防災意識にも少しずつ緩みが生じてきています。
平成25年8月30日からは気象庁が「特別警報」の運用を始め、命を守る行動が強く呼び掛けられるようになります。
私たちの生活は、大雨、地震、噴火など常に自然災害と隣り合わせです。

「南三陸復興学びのプログラム」の活動にふれ、被災地で暮らす私たちが自分の経験を話し、命を守る行動について語り続けることが、防災や減災につながっていくものと感じました。


南三陸復興学びのプログラム
hhttp://united-earth.jp/minamisanriku/program/


(取材日 平成25年8月24日)

震災への備えを知る(後編)  仙台市水道局 茂庭浄水場(仙台市太白区)

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YUUです。

夏は節電、節水。省エネの意識が問われる季節です。

とはいえ、エネルギーの無駄使い、環境を考慮したうえでの節約は良いでしょうが、災害や水不足による否応なしの断水、給水制限は多くの人々の日常生活に支障をきたす大きな原因になってしまいます。

3.11の震災で断水が長期化した仙台市太白区の八木山エリアなどでは給水所に行列ができ、地名通り、山全体が宅地化されたエリアなのにガソリン不足で車も使用できず「水汲みに行くのはほんとうにきつかった」と、当時を振り返る年配の方の声が現在でもよく聞かれるほどです。


生活用水が不足すること=暮らしが成り立たないのは、決して大げさな物言いではないでしょう。

災害時や非常時の施設運用、応急給水作業の効率化は、水道行政の災害対策を知るうえで欠かせないポイントです。

震災への備えを知る(前篇)では、仙台市最大の茂庭浄水場の建物、水道管の耐震化への取り組みをレポートしましたが、後編では、まず、浄水場の非常用設備を紹介したいと思います。



茂庭浄水場の非常用送水ポンプ
災害時にはエンジンポンプを発動させて送水する

上の写真は茂庭浄水場に設置された送水ポンプです。

浄水場の敷地内の地下に設置されています。

平常時は稼働していませんが、先の震災の時のように広範囲に被害が生じた場合、普段ならばこの茂庭浄水場からは配水していない八木山地区へも送水し、断水エリアを縮小するためのものです。

「この送水ポンプ設備の新設工事中に東日本大震災が発生し、震災対応に間に合わなかったことは非常に残念です。設備が完成していれば断水が長期化した八木山地区の断水エリアの縮小や、断水期間を短くできたはずです」(仙台市水道局 給水部計画課 西野雅夫主幹)

仙台市の水道水の約25%は宮城県仙南仙塩広域水道から供給されています。宮城県広域水道の水源は七ヶ宿ダム、浄水場は白石市の南部山にあり、県内17市町村が受水しています。

3.11の震災では、宮城県広域水道の送水管に被害が発生し、県内で長期化した断水の一因となりました。

仙台市水道局では、震災対応の検証を重ねたうえで、大きな災害時にも断水が長期化しないように、今後の取り組みを強化していく考えのようです。


西野さんは、次のように説明してくれました。

「まず、施設整備という観点からは、管路を含めた施設の耐震化や、茂庭浄水場に設置した送水ポンプのような非常用設備の整備を進めます。さらに、長期の停電に対応するために、非常用自家発電整備の燃料タンク容量の見直しや、使用燃料の種類を市場での流通量が少なく調達しがたい重油から軽油や灯油などへと変更することなどを検討しています」

また、災害時のダメージから早期に給水を再開させるために有効な水運用機能の強化を図る考えだといいます。

「仙台市の水運用機能は大きく分けて2点あります。ひとつは、ブロック配水システムによる水量や水圧の適正管理です。もう一点は、配水エリアに複数の水系から送水できるようにすることです」

ブロック配水システムは、仙台市のような広域な配水地域を小さな範囲のブロックに分割し、ブロック毎に水量や水圧を測定し、適切な水量と水圧を確保する方式のことです。

ブロック化することで、トラブルの早期発見が容易となるだけではなく、災害時の管路の破損事故による影響の拡大を防ぎ、効果的に復旧工事を進めることができます。

「先の震災のような大きな災害時には、応急給水をしながら、応急復旧を進めることになりますが、
その場合、ブロックが適正な大きさで細分化されていることで、断水エリアを最低限に抑え、早期に復旧ができます」


平成25年4月現在、仙台市内には125カ所の配水計量ブロックがあります。
これを141カ所に再編する予定です。


配水ブロックの適正細分化は、震災以前より、仙台市水道局が計画的に進めてきた水道事業ですが、今後の目標は、泉区の中心街エリアなどの大きなブロックを細分化し、現在の125ブロックを141のブロックに増やすことだそうです。

配水エリアに複数の水系から送水できるようにすることは、非常時に備えるシステム強化としては、配水ブロック化より分かりやすい取り組みです。複数の浄水場から給水を受けられるようにしておくことで、どちらか一方に被害があっても、もう一方の施設が無事であれば、断水が長期化する事態は避けられます。

東日本大震災では、宮城県広域水道の送水管に被害がでましたが、宮城県広域水道受水地域のうち、「南中山、紫山、高森」などのエリアは、福岡浄水場(泉区)からの給水も受けられる「2系統化」が整備されていたため、宮城県広域水道の単独配水エリアに比べれば早期の復旧が図られました。



震災後に茂庭浄水場に設置された注水補給基地
注水補給基地を設けることで、
給水車への水の補給を効率よく行えます


震災後、茂庭浄水場には新たに応急給水作業の効率化を図るための注水補給基地が設けられました。

上の写真の注水栓より、給水車へ直接水を補給することが可能なため、給水作業の効率化、迅速化が図れます。

先に紹介した配水ブロックの適正細分化、単独水系の解消などの事業と比べると何気ない備えのようにも思えますが、応急給水作業の効率化を図ることは、震災などの緊急時には、非常に大切なことです。

西野さんは、震災時の応急給水作業を以下のように振り返ります。

「東日本大震災は、約50万人の市民が断水となる事態になりました。宮城県沖地震の被害想定では約8万人の断水でしたので、まさに想定外というか、運搬給水の限界が露呈しました。仙台市では給水車を6台配備していましたが、実際には給水車による応急運搬給水は、他都市水道事業体や民間業者などの応援車両を含めて1日最大75台が活動にあたりました。日本全国から支援していただきましたが、状況が刻々と変化するなかで十分な情報を提供できず、効率よく対応できませんでした」

仙台市内には、非常用飲料水貯水槽が21基ありました。震災後、津波被害エリアに設置されていた2カ所を除いた19基を順次立ち上げて対応しましたが、100㎡の容量が早々に底を突いてしまったそうです。

十分な備えをしていたつもりでも、広域に及んだ震災の被害は余りにも大きすぎました。


「いつも通りが一番大事!」
日々の備えを怠らないことが、高い防災意識につながると話す
仙台市水道局の職員の皆さん
前列左が計画課の日下貴史さん。ボードを手にしている右が同じく川村澄志さん
後列左が茂庭浄水課の斎藤恒一さん。右が計画課の西野雅夫さん


仙台市水道局では、震災対応とこれまで取り組んできた各種対策の効果を検証したうえで、各方面からの災害対策を計画、実施しています。

それでも、災害対策は、「これで十分」という判断が、専門家でさえも容易には下せない領域にあることを、私たちは先の震災で思い知らされました。

ライフラインを守る公的な立場は、普通で当たり前、非常時の対応が遅れれば非難の矢面に立つことも少なくなくありません。

今回の取材で懇切丁寧に、防災に対する意識、備えについて話してくれた水道局の西野さん、斎藤さん、川村さん、日下さんは「いつも通りが一番大事!」とメッセージボードに記してくれました。


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諸外国の中には、水道水を飲料水としては使えない国がたくさんあります。

日本の水道は品質だけではなく、安全性、利便性、漏水率の低さなども世界有数の水準にあります。

高水準の公共サービスを享受するには一定の対価が必要ですが、地方自治体から委託を受けた民間会社が水道事業を行うケースが多いフランスのように、水道料金の値上がり幅が論議され、パリ市のように民間委託から公営化に戻すといった事例も現在のところ日本ではありません。

震災による長期間の断水などは、二度と起きないことを願うばかりですが、自然災害は、現代においてもいまだに人知の及ばない領域があります。

日々、当たり前のように提供される公共サービス、ライフラインの防災の備えを知ることは、震災の怖さ、被害の大きさを顧みて、日常の個人個人の防災意識を高める意味でも大切なことだと、今回の取材を通じてあらためて感じました。



震災対応の検証レポート「東日本大震災 仙台市水道復旧の記録」を閲覧するには下記ホームページで。

仙台市水道局   仙台市太白区大野田29番地の1
http://www.suidou.city.sendai.jp



(取材日 平成25年7月30日)

山口県への恩返し(石巻市大街道)

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こんにちは、Chocoです。
9月に入り、秋空に変わりつつある今日この頃です。
気温の変化が激しく、私は少々風邪を引いてしまいました。

今年の夏は、日本各地で災害が相次ぎました。
私の地元、岩手県でも豪雨により、土砂崩れが起きました。
「これが山津波だ」
と、岩手県雫石町で被災を受けた地元の人が言いました。
山の麓に自宅があったため、川は氾濫し、大木が家を目がけて押し寄せてくるのを目にしたそうです。



岩手県盛岡市内にある実家の近くも被害を受けました。

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東北の暴雨が起こる1週間前の7月末、
山口県と島根県にも豪雨が襲いました。
山口市では、1時間あたり143.0mmと山口県内で観測史上最大の雨を観測したそうです。

その被害を受け、動き出した人たちがいます。
石巻市立釜小学校(以下:釜小)の皆さんです。

釜小学校の福祉委員会の募金活動のお願い

午後の授業が終わった頃合いに釜小を訪ねると、校舎には子どもたちの声がにぎやかに響いていました。


「徳佐小学校への、募金をお願いします」

各クラスを回って募金を呼び掛けている子どもたちがいました。
募金活動をしているのは、釜小の福祉委員会の児童の皆さんです。

皆さんは、私が訪れた9月9日から約1週間、募金活動を実施しています。

今回は、その想いを福祉委員会の皆さんと校長先生に聞いてきました。

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平成24年1月。1体の木彫りの熊が釜小に届きました。
その木彫りの熊は、玄関に立って毎日皆を出迎えています。

校長先生が木彫りの熊を見せてくれました
贈ってくれたのは、山口県山口市立徳佐小学校(以下:徳佐小)です。

両校の交流は、東日本大震災を機に始まりました。
今までに手紙やたくさんの支援物資が釜小に届きました。
花の季節になると、徳佐小のPTA会長が100個もの花のプランターをトラックに積んで、自らハンドルを握り山口から石巻まで来てくれました。
昨年度の卒業式には、花の鉢が卒業生一人一人に贈られたそうです。

そういった、温かな交流が両校で続いてきました。

ところが今年の7月末、徳佐小のある山口市を豪雨が襲い、多くの人々が被害に遭ったのです。


それを耳にした釜小の皆さんは、夏休み明けから福祉委員会内で募金活動を計画し、9月9日から実施することにしました。

「震災の時から、支援を受けて、力をもらった。だから、今度は恩返しをしたいんだ」
福祉委員会の皆さんはそんな思いで募金活動を開始しました。
初日の今日はどうだったかと聞くと、
「たくさん集まった!!」
と、喜んで振り返っていました。

「お金の額ではなく、気持ちが大切なんだ」と校長先生もおっしゃいます。
本当に福祉委員会の皆さんは、一生懸命に活動していました。


今回のメッセージボードは、児童の皆さんの手作りです。
皆さんがそれぞれ描いたメッセージ、
そこには、「徳佐小学校、がんばって!!」と書かれていました。


校長先生からも徳佐小へのメッセージをいただきました。

「東日本大震災では、徳佐小の皆さんに大変ご支援をいただきましたが、
この度の大雨被害、心よりお見舞い申し上げます。
気持ちばかりですが、送らせていただきます」
石巻市立釜小学校  校長 土井正弘先生


釜小学校は、石巻市の中で一番児童数の多い学校だったそうです。
震災前は、660名の児童がいました。
その内の25名もの児童が津波の犠牲となりました。
現在は転校した児童も多く、全校児童は470名に減っています。。
その中の3分の1がスクールバスを使い学区外から通学しています。


校長先生に、児童の様子を伺いました。

「2年前に比べて、時間の経過とともに元気になっていますが、完璧に戻ることはできません。
子どもの負った傷は幾度となく、いきなり現れるのです。
地震が起こると、怯えたり、泣いたりする児童もいます。
避難訓練に参加できない児童もいます。
心のケアが終わるまではまだまだ時間が掛かるでしょう」

「そもそも、学校が心の傷そのものを癒すことはできないかもしれません。
その代わり、勉強や運動など、教育活動の中で何かに夢中にさせて、そのことに集中させることによって、一時的に心の傷を忘れさせることはできます。
それを続けることによって、頭や体、心が育ち、自分の傷を自分で癒す力が付くようになります。その”自分で癒す力”を育成することが学校での心のケアだと考えています」

と、校長先生は、児童が心に負った深い傷について話してくれました。


しかし、今回の募金活動で、子どもたちはとても一生懸命でした。
一人一人が、「恩返しをしたい」そんな気持ちで行っていました。

「助けられたことは当たり前ではない。
お世話になったら、感謝の気持ちを持ち、いつか恩返しをしたいという思いやりの心が大切だ。困った時はお互い様なのだから・・・」


震災後、被災地を支援するために多くの人々が手を差し伸べてくれました。

「そのおかげで、助かった」

「本当に感謝しきれない」

と、地元の人々は、よく私に語ってくれます。


「困っているから、助けたい」
その純粋な心が子どもたちの中に湧き上がり、今回の募金活動が始まりました。

2校の交流を通して、人として大切なことを教えてもらった気がします。

ぜひ、多くの気持ちが山口県の人々、そして徳佐小の皆さんに届けば良いなと思いました。
(取材日 平成25年9月9日)

ふるさとへの思いをTSUNAGU(山元町)

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こんにちは。kaiiです。
宮城県の県南に位置する山元町は自然豊かなとてもきれいな町です。
山元町産のおいしいお米と名産のサケの身とイクラを使った「はらこ飯」や地元産のホッキ貝を使った「ホッキ飯」も絶品です。イチゴの産地としても有名で優しい人の多いとても素敵な町です。

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平成25年8月17日午後1時から、山元町の中央公民館大ホールを会場に、「笑顔が輝くこの町で~ピアノの音があなたと町をやさしく包む~」と題するピアノコンサートが開かれました。
主催は山元町内の有志が集まり結成した「TSUNAGU」有志の会、演奏したのは沢知恵さんです。
会場には町民など250人ほどが訪れ、ピアノと歌の生演奏を楽しみました。

会場には多くの人が来ていました
今回のコンサートは、「TSUNAGU」有志の会の横山純子さんが、平成24年12月にNHKEテレ放送でされた、ハンセン病の元患者の支援活動や東日本大震災被災地の支援活動をする沢知恵さんの活動のドキュメンタリー番組に感動し、沢さんに山元町でのコンサートをお願いしたことがきっかけで実現しました。

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沢さんはコンサートの冒頭で、こう語りました。
「横山さんの故郷を思う熱い思いに感動しました。昨日、山元町に入って「TSUNAGU」有志の会の皆さんと、被災した町内を歩きました。津波に傷ついた思い出の多い学校や原っぱだったように草が生えている土地を見せていただきました。今日のコンサートを失われた命と傷ついた土地への思いを分かち合える機会にしてほしいと思います」

全国から山元町に寄せられた応援メッセージが、会場の中央公民館には飾られています

「浜辺の歌」「ふるさと」「じゃんけんの歌」など耳なじみのある曲を演奏しました。


『「TSUNAGU」』有志の会の横山さんに、コンサートで歌ってほしい曲があったら、1曲だけリクエストしてください」と聞きました。横山さんはしばらく考えてから、「浜辺の歌」とおっしゃいました。「え~?歌っていいの?」と戸惑いながらも、ひと晩考えて、歌うことにしました。よかったら、いっしょに歌ってください。きっと同じ姿ではなくても皆さんのふるさとは再生していきます。がんばりましょう」と沢さんは話しました。
会場に来た人たちと一緒に歌う沢さんの姿に涙を流す人も多くいました。

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コンサート後、沢さんにお話を伺いました。

・被災各地で音楽活動をしていますが、被災地で受ける印象を教えてください。

「東北の人は優しいですね。東北に来るたびにそのことを再認識します。震災被災者には1人1人の物語があります。『被災者』とひとくくりにはできません。そのことを全国に伝えていくのが私の使命だと思っています。私が感じた潮騒の音や海が、東北の人たちにはどんな存在なのかも・・・もっと伝えていきます。今日はたくさんの方と出会えて本当によかったです。」

「大好きな宮城、母の住む宮城これからも宮城らしくずっと・・・」と沢知恵さん


「震災被災地から離れていると、『東北はもう復興したんでしょう?』と聞かれることもあります。人は自分の幸せが一番大切です。大変な出来事があったことを忘れていきます」

「復興は色々な意味でこれからです。東北の人はとても優しいからこんな状況でも他人に気を遣います。心に溜まったガスを上手に吐き出すことも大切です。たくさん泣いて笑ってほしいと思います。」とコンサート後に話しました。


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「TSUNAGU」有志の会の代表横山純子さんは、東京都在住です。発起人として地元の6人のメンバーと「TSUNAGU」有志の会を立ち上げました。
名前の「TSUNAGU」とは「今までの人のつながり」「これからの人のつながり」を意味し、町のつながりや人のつながりを大切にしていきたいという思いをこめて、メンバー皆で考えて付けました。

コンサート会場で沢知恵さんにサインを求める人たち
「ふるさと山元町を離れて生活していると震災があったことが少しずつ忘れられていくことを感じます。震災で傷ついた大切なふるさとに自分が何かできることが何かないかとふるさとへの思いが強くなりました」
と、横山さん。


「NHK・Eテレ福祉ポータルTV番組『ハートネットTV』で、沢さんが続けている香川県高松市の国立ハンセン病療養所大島青松園でのコンサートの様子を観ました。その活動に感動し、ふるさと山元町に沢さんに来てほしい。沢さんの歌で、震災で傷ついた山元町の人たちを少しでも元気づけてほしいと思いました」
と思いを話します。


そんな強い思いに突き動かされるように、横山さんは沢さんにメールで連絡しました。
沢さんは横山さんの熱い思いに共感し、山元町でのコンサートを開きました。

横山さんは毎月、休みを使って東京と山元町を行ったり来たりして今回のコンサートを実現させました。横山さんと「TSUNAGU」有志の会の人たちの準備の様子を知る多くの人たちもたくさん会場に来ていました。

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来場者の一人で、町内の仮設住宅で生活をしている菊地さんは、「横山さんは、休みに東京と山元町を幾度も往復して一生懸命企画しコンサートを実現させました。横山さんの町を思う気持ちがとてもうれしい。故郷のためにがんばっている彼女の姿にとても励まされました。沢知恵さんのコンサートもとても素敵でした。いろいろな意味で涙が止まらなかったです」
と話しました。

コンサートに三世代で訪れていた菊地さん家族
コンサート終了後、コンサートに来ていた人たちが「よかったね~」と口々に話しながら、「TSUNAGU」有志の会の人たちと協力して会場の片付けを始めました。この様子にも、横山さんの思いを知る多くの人と人のつながりを感じました。

「TSUNAGU」有志の会のメンバーと発起人の横山純子さん(右端)
「それぞれのタイミングでそれぞれが満足する方向へ」
「人それぞれ進行速度やタイミング、価値観には違いがあります。自分にあった速度やタイミングで、満足のできる生き方で、自分の人生を生きることが大切」
横山さんは、こう考えています。

被災各地の復興はこれからの長い時間をかけて進んで行きます。
震災で図らずも変わってしまった人間関係。
人と人のつながりが大切にされていくことの大切さを、コンサートを通じて山元町の人たちから感じました。


沢 知恵 |Tomoe Sawa Official Site
http://www.comoesta.co.jp/


(取材日 平成25年8月17日)

第18共徳丸の解体作業が始まりました(気仙沼市鹿折)

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kaiiです。秋風を感じるころになりました。

東日本大震災から2年6カ月。
JR鹿折唐桑駅前に打ち上げられていた福島県船籍のまき網漁船第18共徳丸(330トン)の解体が、9月9日から始まりました。


解体作業の始まる第18共徳丸


第18共徳丸は、東日本大震災の津波で気仙沼漁港から約750m内陸の気仙沼市鹿折地区まで流されました。
船を所有する福島県いわき市の水産会社は、当初、「震災遺構」として保存しようとする気仙沼市に無償で貸す契約を結んでいましたが、「震災を思い出すから見たくない」という住民の声を受けて平成25年3月で契約を打ち切りました。6月には、北海道室蘭市のNPOと解体契約を結びました。



気仙沼市が7月に市民に行ったアンケートの結果でも、「保存が望ましい」とする回答は16%にとどまりました。


震災後、気仙沼市を訪れた多くの人がこの船の前で震災犠牲者への哀悼を捧げ、大津波の威力と破壊力の大きさと怖さを心に刻みました。




「船は海の上にあるものであり、陸にあってはいけない。陸にある時間が長くなると腐食が進んで危険だ。共徳丸を支えている支柱も地面にめり込んできているから大きな地震がきたら倒れたりしないか不安だ」
という声も地元の人からは最近は聞かれていました。

少しずつ地面に支柱がめり込んでしました


震災直後の共徳丸はガレキの中に聳えていました。
「この船倒れてこないよね?」
そんなことを話しながら、黒焦げの瓦礫に囲まれた共徳丸の前を歩きました。
警戒任務に就いていた自衛隊の隊員に「危険ですかあまり近くに行かないように」と誘導されたこともありました。



 第18共徳丸は、気仙沼市の震災からの復旧の状況や人々の涙や祈りを2年6カ月にわたり静かに見守り続けてきました。その時間も終わりの時を迎えています。

花の向こう側の第18共徳丸(平成25年6月撮影)


9日から始まる解体作業は40日ほどで完了する予定です。


(取材日 平成25年9月5日)

よみがえった月浜海水浴場の夏(東松島市宮戸)

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こんにちは、Chocoです。

9月も中旬です。
めっきりと涼しい風が吹くようになりました。
昨年に比べて夏があっけなく終わっってしまったと感じるのは、私だけでしょうか・・・。
でも今シーズン、その海水浴場には確かに「夏」がありました。

その海水浴場とはは、以前紹介した宮戸島にある月浜海水浴場です。
東北の小学生にとっては夏休み最後の日曜日となった8月25日。
その日は一日中天気も良く、日差しも時折強く感じました。

7月21日に海開きをしてから6回連続で、「遊泳可能」を示す白旗が揚がりました。
以前の記事→http://kokoropress.blogspot.jp/2013/07/blog-post_20.html

「日曜日だけのオープンだったけれど、幸い6日間とも天候にも恵まれて、赤旗か白旗かと迷うことがなかった」
と、実行委員会の方たちは、今年の海開きを振り返りました。
今日(25日)も迷わず白旗を揚げました!!

赤旗は、「海水浴中止」という意味です。
赤旗が揚がれば、せっかく来た人たちも海水浴をすることができません。
しかし、今夏は営業日全てで白旗を揚げることができました。
とりわけ8月11日には、2000人を超える人々が海水浴を楽しんだそうです。


最終日には900人以上が月浜に来場しました。


午後3時、お父さんが帰る準備をしていると、小さな子どもが帰りたくないと再び海の方へ走る姿を見ました。その子どもにとって、海は「思いっきり遊べる場所」だったのだと思います。

そして、運営終了とともに、「お疲れさまでした」と実行委員会の方々に元気よく声を掛けていた人たちがいました。

兵庫県立大学災害復興支援団体「lan (Leaders Active Network)」の皆さんです。
最終日の運営に合わせて滞在し、運営スタッフとして一日中頑張っていました。


「lan」は大学生が立ち上げた団体で、福島県での農業サポート、宮城県の南三陸でのワカメの養殖のサポートなどの活動を1年前から行っています。

東松島でのボランティア活動は、今回が初めてのことだそうです。
会員約40名中、6名の学生がボランティアとして月浜に来てくれました。
その中から、リーダーの林さんにメッセージを頂きました。
「つながり」
LAN 林優太さん
「団体を立ち上げたばかりの時は、手探り状態だったけれど、インターネットや人の情報を通してさまざまなことがつながった。そのおかげで自分たちの活動も広がった。そして、それが更に新たな場所で、人と人をつなげている」

あらためて「つながり」の大切さをお話してくれました。

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現在、月浜へ向かう道も道路工事が行われています。
震災で大きな被害を受けたJR仙石線の野蒜(のびる)駅も、内陸に約500メートル移動して新設する予定で、2015年の開業を目標に復旧作業が行われています。

来年も、月浜海水浴場は海開きをします。


「月浜にまた来てネ」
      小野源次郎さん(月浜仮設住宅 区長)

今夏は、月浜海水浴場実行委員会を中心に海水浴場の運営が行われました。

時間を掛けて入念に会議が行われ、救命救急などの講習も受けました。
また、ボランティアと一緒に砂浜の掃除、駐車場設営なども行いました。
それもこれも、「月浜にもう一度たくさんの人に来てほしい」という想い、
「来場者の皆さんが怪我なく、安全に海水浴を楽しんでほしい」という想いからです。

大盛況に終わった、月浜海水浴場・・・
今回は海水浴を楽しむお客さんを眺めるだけで、泳ぐことができませんでした。
来年は是非、月浜海水浴場で泳ごうと思います。

最終日、足を怪我してしまった方がいましたが、それ以外は、無事に終了することができました。
そして、多くの人々が月浜の海水浴を楽しんでいました。


今年逃したという人は、また来年、月浜でお会いしましょう!!!
月浜実行委員会の方々、そして地元の方々が、皆さんが来てくれることを楽しみに待っています。



(取材日 平成25年8月25日)

大きく育て心の復興。「閖上ケナフプロジェクト」(名取市閖上)

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こんにちは。エムです。

ケナフって知ってますか?
成長時に二酸化炭素をたくさん吸収するため、地球温暖化防止に役立つ植物として注目され始めたのは十数年前。
アフリカ原産で成長も早く、土壌も選ばず、どこでも栽培できると言われています。
皮の繊維で布や紙も作れるので、森林保護の観点からも有効な植物として一時は学校の教材にもなり、あちらこちらで栽培されていましたね。
日本の学校どころか世界中で注目されてた時期もありました。


今が花盛り。これから1ヶ月は楽しめます。(9月8日現在)

そのケナフを、津波被害があった閖上で栽培する「閖上ケナフプロジェクト」が発足しました。

ケナフで炭を作る「炭焼き釜」を造ったという情報もあり、
あまりケナフの知識のないワタシは、頭の中「?」マークいっぱいのまま現地に向かいました。

待っていたのは見上げるほど高く成長したケナフ!
そして「閖上ケナフプロジェクト」発起人の南部由希さん。

南部由希さん。畑から車で30分かかる仮設住宅から通ってます。

「長靴持ってますか?」
さすがに長靴までは気が付きませんでした。・・・畑には長靴ですよね。
南部さんに長靴をお借りしてケナフ畑へ。

津波から残った作業場。

そこで出迎えてくださったのは2人のスペシャリスト。

 農業のスペシャリストの橋浦祺卓(はしうら よしたか)さんと、
ケナフ研究のスペシャリスト勝井徹(かつい とおる)先生。

橋浦祺卓さん。「ここまで水がきたんだよ」

橋浦さんは閖上で長年農業を営んでいる方。
このケナフ畑も橋浦さんが、かつて大根や白菜、ブルーベリーなどの農作物を作っていた畑です。津波被害で作物を作れないため、このプロジェクトに賛同した橋浦さんは力を貸すことにしたのだそうです。
それこそ「“おけ”は“おけ屋”」「農作物は農家」。
手間を惜しまず丹誠込めた、作物作りの技を駆使して、ケナフ栽培に当たっています。



勝井徹先生。かつて農業高校で教鞭をとっておられました。
勝井先生は「NPO法人 ケナフ協議会」で理事を務めている方。
ケナフ研究では24年の大ベテラン。
種植えの時期や植え替えの仕方など、勝井先生のアドパイスで行っているそうです。
サポーターとして心強い存在です。



これで中くらいの茎。

このお2人がタッグを組み育てたケナフは、勝井先生も驚くほど背が高く、茎も太い成長ぶりです。正直ワタシもケナフって、直径1〜2センチの茎なのかと思っていました。
ところがなんと腕ほどもありそうな太さ。これなら立派な炭にもなりそうです。

しかし、作業はそう簡単ではなさそうでした。
ここまで成長するにあたっても、水の管理、雑草の草取り、病害虫の駆除など、夏の暑い中でも、ほぼ毎日作業があったそうです。
橋浦さんと南部さんが中心となり、早朝から畑に来ては作業をし、その後職場に向かう毎日を続けました。

迷路の入り口(予定)

このプロジェクトのスタッフは他に、
橋浦さんのご兄弟、
閖上出身者、居住者を中心に構成し活動している「閖上人」の有志数名、
土日などには子どもたちもボランティアで参加することもあります。
他にも、声を掛ければ集まってくれるメンバーがそろっていますが、皆さん、仕事を持ちながらのボランティア。まだまだ人手は足りないようでした。

なぜなら作業はこれからが本番。
「脇枝の剪定」「刈り取り」それと同時にやらなければならない「皮むき」「乾燥」
その後の製品加工もほとんど白紙の状況ですが、ゆくゆくは閖上産のケナフを使った「紙」「炭」「服地」「バッグ」などに展開できればと、みなさんは夢を持っています。

でも、製品化の方法や人材の確保などもこれから。組織としての体制作りもまだ整っていない中、手探りでケナフ作りに当たっているのです。


「ほらほら、今ならするっとむける。
もっと成長するとなかなかこうはいかなくなるんだよね」


左から、むいた皮・芯・葉っぱ。
「繊維」「炭」「食料」になります。

でも、どうしてこんな大変な思いをして、ケナフ作りをやっているのでしょう。

花のジュースが作れる。「マジックジュース」といって、
酸味を入れると色がパッと変わるのだとか。飲んでみたいです。

それはひとえに、地元「閖上」を思う気持ちから始まったことでした。

南部さんは言います。
「震災で閖上の人たちはバラバラになってしまいました。
 仮設でずっと引きこもっている人もいます。でも、ケナフ作りを通して、
 閖上の人たちが自然にここに足を運びそして一緒に何かできるような、
 集まる場所が欲しいと考えたのが始まりです。
 目指すのはコミュニティの再生です。」

その気持ちは橋浦さんも勝井先生も同じ。少しでも「復興・復旧」に役立つなら。そんな気持ちがこのプロジェクトを動かしているのです。

しかし、どうしたら大勢の人が気軽に集まれるのでしょうか。そのきっかけのために、いろいろなイベントの企画も考えているそうです。
まずはイベントの第1段として、成長したケナフを利用した「ケナフの迷路」を作ります。

勝井先生の持っているポールの先が3メートル。
「たかーい」はるひ君の3倍はあるね。
「9月いっぱいは成長しつづけるから、あと1メートルは延びるかも」

うっそうと茂ったケナフ畑。


「ケナフの迷路」は10月上旬〜中旬までを予定しています。
迷路が完成するまでには、下枝の刈り払いや茎を縛るなど作業はまだまだありそうですが、みなさんの目は輝いていました。

目指すは 心の中からの復興
ケナフの向こうに見えるのは「あんどん松」と呼ばれている松並木。
1本も欠けることなく津波に耐え、閖上の人たちの心の支えにもなっています。


この「閖上ケナフプロジェクト」は、これからいろんな人を巻き込んで、大きく成長していくことでしょう。
しかしまだまだ油断は禁物。これからの季節は台風と夕立に注意が必要です。
せっかく育ったケナフが倒れないように、実は強化策もあるようです。




ケナフは用途が広く、皮も芯も利用できますし、葉っぱや花は食べられます。
良いこと尽くめのケナフですが、反面、外来種が増えるのはどうなのかといった反対意見もあるのも事実です。
しかし、種は重く、勝手に飛んでいくこともありません。それに水や温度などの条件がそろわないと、なかなか発芽しないし育たないとのこと。
こうして苦労して育てている様子を見れば、納得だと思いました。
ましてこの東北の地では、自然にケナフが増える心配は少ないですし、ケナフの先進地と言われている四国でも、野生のケナフは見掛けないようです。


繰り返しになりますが、人手はまだまだ足りていません。
ケナフに関心がある方はもとより、被災地でボランティアがしたいと考えている方は、ケナフ畑での作業はどうでしょうか。
これから「刈り取り」「皮むき」など、山ほど作業が待ってます。


群馬高専などの協力を得て完成した炭焼き釜。
茎が乾燥すれば炭を焼くことができます。
炭は脱臭・防湿作用がある他、農地の土壌改良などにも利用できます。
炭の用途は広く、これからの展開が楽しみです。


まずは橋浦さんに連絡をしてみて、持ち物や服装などの指示を受けてください。
畑作業は大変かと思いますが、大きなケナフに元気をもらえますよ。

[橋浦さん連絡先]022-385-2365



(※)「ケナフの迷路」は当初10月上旬〜中旬までを予定していましたが、先日の台風18号ではたくさんのケナフが倒れてしまいました。復旧は橋浦さんと橋浦さんのご兄弟2人で終わっていますが、今後の台風の心配もあり、9月の後半から開催する事になりました。
特定の開催日はありませんが、行ってみたい方は橋浦さんまでご連絡ください。
(9月20日現在)


(取材日 平成25年9月8日)

地元七郷のお米を提供「おにぎり茶屋 ちかちゃん」(仙台市若林区)

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こんにちは、エムです。

「おにぎり茶屋」と聞いて、ご飯好きは食欲が刺激されるのではないでしょうか。
実のところ、わたくしエムもその1人として足を運ばずにはいられませんでした。

震災で海水をかぶった田んぼや畑を回復させ、その田んぼでできた地元のお米を使っておにぎりを提供する「農家レストラン」だとか。
早速、現状を知るべく取材に出掛けました。

国道4号線、蒲町の交差点を荒浜方向に折れるとすぐに見える建物。
大きな看板やのぼりが「ここだよ~」と教えてくれます。


駐車場は裏にあります。手前を左折してください。


今年の5月2日にオープンした「おにぎり茶屋 ちかちゃん」には、元気なお母さんたちが働いていました。
スタッフは全部で10名。
一番早い出勤時間は朝は4時頃から。その後時間をずらした出勤と、加工場・レストランに分かれてローテーションを組み、ほぼ毎日働いているそうです。



中心となっているのは佐々木千賀子さん。
そう、お店の名前の“もと”になった「ちかちゃん」です。

佐々木さんをはじめとする他のほとんどのスタッフは、震災前に神屋敷にあった「神屋敷仕込み味噌クラブ」からの仲間だとのこと。


お持ち帰り用の「おにぎり」と「おもち」

採れたての新鮮な野菜や味噌商品・お米なども並ぶ。
   
聞けば「神屋敷仕込み味噌クラブ」の歴史は長く、佐々木さんの義父さん義母さんの代から約40年も続いているそうです。
もともと神屋敷に嫁いだお嫁さん達が、共同で味噌を造ろうと集まったのが始まりで、その味噌がたいへんおいしく、たくさんできたことから、少しづつ売るようになったということでした。

佐々木千賀子さんに引き継いでから、約30年。
メンバーの中には同じ年月を佐々木さんと共に歩んで来た方もおられるようでした。
皆さん、仲が良さそうなのはそういう歴史があったからなのですね。


大好評の味噌。

しかし震災でほとんどの方が被災し、自宅や農地を無くしたり、そのショックから(もう戻れない、もう働けない)と感じたスタッフもいました。

そんな、震災から3、4カ月後のこと、みんなで始めた「神屋敷仕込み味噌クラブの加工場」の片付けを通して、あらためて仲間の存在の大事さに気付き、「またみんなで働ける場所が欲しい」と思ったそうです。
そんな時、「この場所にレストランを開け」と言ったのが、佐々木千賀子さんの夫、佐々木均(ひとし)さんでした。

佐々木均さんは農業組合法人「仙台イーストカントリー」代表であり、震災後の農地の回復に力を注いでおられる方です。


「おにぎり茶屋 ちかちゃん」はこうした経過を経て、新しく建てたこの建物や、立て直した加工場と共に、農業組合法人「仙台イーストカントリー」の直営店としてオープンしました。


2階の食事スペースは以外に広く、
階段を上がった手前と、奥の小部屋に分かれています。

ランチタイムはひっきりなしにお客様が訪れていました。
注目のランチは自慢のお米を使った「おにぎりプレート」。
(注文を聞いてから握ってくれます)
それと「米粉カレー」(小麦粉の代わりに米粉を使ったカレー)。
もちろん単品でも注文できます。




「おにぎりプレート」は好きなおにぎりを2個と、その他におかず・とん汁の付いたお得で充実した内容。
総菜左の「しそ巻き」は毎日加工場で手作りされる人気商品。さすがお味噌のプロ!


ランチプレートのおにぎりは通常より大きい。
その大きさにビックリ! しかもお米が美味しいっ!!

「オープンから4カ月がたったけど、素人がお店を開いたようなものなので、今までは何もかも手探り状態でした。この頃やっと軌道がつかめてきた感じ」
「生き甲斐ができた。職場が楽しいので元気付けられた」
「無理せずできるのが良い。息抜きにもなってるの」

そんなスタッフの気持ちが反映してか、お店の中は明るい雰囲気に包まれています。


「しそ巻きください」見てるそばから売れていきます。

お客様は家族連れ、年配の方の集まり、ご夫婦、サラリーマン、さまざまな年齢層の方がひっきりなしにやって来ます。
女性1人でも立ち寄れる気軽な雰囲気も人気の秘密かもしれませんね。


これからやって来る新米の季節には「新米」が並び、年末には「豆もち」「白もち」の注文販売も予定しているそうです。




佐々木さんにこれからの夢をお聞きしてみました。

左から庄子京子さん・庄子啓子さん・
佐々木千賀子さん・佐々木こづ恵さん(千賀子さんの長女)
「(経営的にも軌道にのったら)みんなで一緒に旅行したいな〜」
「“夢”で終わらない場所にね」



「おにぎり茶屋 ちかちゃん」は笑顔が絶えないお店でした。


左から高橋由美子さん・松原園子さん(千賀子さんの三女)


営業時間/午前10:00〜午後4:00(売り切れしだい閉店)
     日曜定休
住  所/仙台市若林区蒲町31-15
電  話/022-353-9571

「おにぎり茶屋 ちかちゃん」のおにぎりは、「ウジエスーパー長町店・西多賀店」「杜の市場」「たなばたけ」でも扱っています。


(取材日 平成25年8月30日)


災害と社会的弱者への理解と対応 (気仙沼市唐桑町)

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こんにちは。Kaiiです。

東日本大震災から2年6カ月が過ぎました。
震災の時、心身に障がいのある人たちはどのように避難をし、避難生活を送ったのでしょうか。

高台の「福祉の里」にある障害者支援施設「第二高松園」
気仙沼市の東部、唐桑町只越の小高い場所に、社会福祉法人洗心会が運営する障害者支援施設「第二高松園(だいにたかまつえん)」があります。
施設長の熊谷眞佐亀(くまがい まさき)さんに、震災の時の様子と今後への備えについて伺いました。

障害者支援施設「第二高松園」入り口

熊谷さんは、

「障がいがある人が生きやすい社会が、私たちにも生きやすい社会だと思います。私たちは、障がいに対し無知であるが故に違和感をおぼえ、偏見や差別につながってしまうことがあります」

「共に生きる社会を実現するには障がいを理解することが大切です。私たちも年を重ねると体に不調や不自由を抱えるように、障がいを持っている方々も不自由を抱えており、支援を必要しています」

「第二高松園の利用者の多くは知的障がい(発達期に生じる障がい)を持っており、何かを判断したり、変化に適応する能力に不自由なところがあります。私たちと常識(価値観)が少し違っています。このことを『知的障がい』の特性だと理解すること大切です」

と話しました。


震災の時、利用者は大地震の発生後、職員の誘導ですぐに避難を開始しました。

普段の防災訓練では1次避難だけでも20分ほどかかっていましたが、発災の時は、施設が所有する車両を2次避難場所として、30分で避難を完了しました。
ちなみに車両を2次避難所としたのは、保温と安全確保のためです。法人全体で十分な台数を所有していたことが幸いしました。


二次避難に使った施設の車

高台にある施設からは津波は見えませんでした。
当時、働いていた職員は、町に大津波が襲来していることをラジオの情報で知りました。
施設利用者の安全の確保を優先しながらも、家族の安否や社会がどうなっているのかなど、大きなストレスと不安を感じました。

利用者はいつもと違う環境に動揺していましたが、社会が受けたダメージまでは理解していませんでした。

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施設で利用者の支援を続けるために必要なものは何か、熊谷さんにお伺いすると、「電力」「水」「食糧」「薬(向精神薬)」「オムツ」「排泄物の処理機能」「睡眠環境」と回答がありました。

①電力
人は暗闇に恐怖を感じます、照明環境が維持できることは利用者の心の安定のためには大切です。
病弱な方や体力的弱者が多い障害者施設においては、冷暖房を確保することで健康状態を良好に保つことができます。
反射式ストーブなどは火災や火傷等のリスクはありますが、電力供給が絶たれた場合は有効な機器といえます。
いずれにしても電力確保は災害時の施設運営の課題となっています。

②水
食事提供や清潔環境の維持などにも欠かせません。水がないと薬も服用できなくなります。

③食糧
食糧は震災前から地域から避難してきた人の分も含めて備蓄していましたが、全く足りませんでした。震災後は災害時における支援物資が届くまでのつなぎとして、備蓄量を増やしています。
施設はプロパンガスだったのですが、安全が確認できるまで数日間は使うことができませんでした(数日後、専門業者の支援によりガス機器が使用可能となりました)。
ガスが絶たれた場合などは竈(かまど)や薪は大変有効な熱源です。

④薬
向精神薬は同種の薬であってもメーカーにより効果が変化する場合があります。また、副作用等のリスクがあるので、利用者が服薬している薬の確保が大変でした。できれば2週間分以上備蓄できることが理想です。

⑤オムツと排泄物の処理
排泄物や汚物の処理も、断水で水洗トイレが使えない環境では難しい問題でした。震災時は総勢100名近い避難者の排泄物を、裏山に穴を掘って処理していました。
もしも裏山がなかったらと思うと…。
オムツも備蓄していたもので支援が届くまではしのぎましたが、使用済みのオムツが屋外に山積みとなってしまいました。

⑥睡眠環境の確保
安全に眠れる環境は、利用者一人一人で違います。利用者が安心して眠れる環境の確保も難しい問題でした。


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最後に、今後の施設には何が必要かを尋ねました。

「利用者に安全に生活を続けてもらうには電力は大切です。ソーラー発電の設置など再生可能エネルギーの利用などで、緊急時でも電力が確保できるようにしていきたいと思います」


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kaiiも震災当時、避難所で生活をしました。認知症の人や多動な人、奇声を発したり、独語を続ける人がいました。その人たちが自分の世界の中にいることを私は理解していませんでした。

まず、私たちがすぐに取り組み改善していきたいのは、マイノリティーと呼ばれる人たちを理解することです。
「普通」と少し違う行動をする人を理解する努力をせずに「偏見」のまなざしを向けてしまうことをやめる努力が必要です。

障がいを持つ人は、私たちと少し違う個性を持っていると理解し、彼らが生きやすい環境が整うことが私たちにも生きやすい環境になることの理解を進めていければと思います。


(取材日 平成25年6月13日)

週刊ココロプレス 第60号

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ココロデスクです。

今月は、東日本大震災から2年6カ月を記念して、各地でさまざまな行事が行われました。
その一方で、台風や竜巻、洪水など自然災害が相次ぎ、多くの犠牲者と被害がもたらされました。
7年後に東京でオリンピックが開催されることにもなりました。

こうして大きな出来事が相次ぐことによって、「震災の記憶の風化」を心配する声もあります。
でも、どんなに大きな出来事でも、日々新たに出来事や問題が生じる中で少しずつ「遠いこと」になっていくのは自然なことです。

気仙沼の市街地に打ち上げられた遠洋漁船の解体工事が始まり、南三陸町の「防災庁舎」の解体も決まりました。
半年後に迎える「震災から3周年」は、おそらくもっと大きな区切りとみなされることでしょう。

当初は、生々しい被災体験や、世界中から駆け付けてくれたたくさんの方々による集中的なご支援のエピソードが主だったココロプレスも、少しずつ変化してきました。
温かい支援を受けながら、さまざまなやり方を工夫してじっくりと生活や地域の再建に取り組む姿をお伝えすることが増えてきました。

「ようやくガレキが片付いただけ。何もかもこれからだよ」

行く先々で、こんな声を聞きます。

これからこの地で始まることは、日本はもちろん世界中でも「新しい挑戦」なのです。



今回は、約3週間分・14本をまとめてご紹介します。
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  ■最近のダイジェスト (9月3日~9月26日)
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2013年9月3日火曜日
「みんなでほっこりコンサート」(仙台市青葉区)
子どもたちの創造活動と自己表現のためのアートスペースを提供している「ハート&アート空間“ビーアイ”」。ビーアイでは毎週火曜日に福島から避難している方たちの交流会「ふくしまほっこりカフェ」を開いています。この日は、音楽で復興支援をしている「一般財団法人 音楽の力による復興センター東北」の協力で「みんなでほっこりコンサート」が開催されました。演奏したのは仙台在住の音楽家3名によるユニット“Two×Spring Strings with Mami”。ヴァイオリン奏者の岡 千春さんと門脇和泉さん、そしてピアニストの門脇麻美さんです。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/blog-post_3.html

2013年9月4日水曜日
震災への備えを知る(前編) 仙台市水道局・茂庭浄水場(仙台市太白区)
茂庭(もにわ)浄水場は仙台市最大の浄水場です。円筒形の外観はかなり印象的で、「近代水道百選」にも選ばれています。東日本大震災の前から計画的に耐震化を進めていたため浄水機能に大きく影響するような被害は発生しませんでしたが、今回の震災を踏まえてより一層の耐震化に取り組んでいます。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/blog-post_1361.html

2013年9月5日木曜日
リアルな『絆』を育てたい (南三陸町)
東日本大震災では、インターネットを通じてたくさんの〝縁〟が結ばれました。「この〝縁〟が、いつかリアルな出会いとなって実現したら・・・」「PCやスマホの画面の外で、実際に触れ合ったり握手することができたなら・・・」。こんな「もっとたくさんの人と人との出会い」を願って運営されているのが、ネットショッピングサイト『南三陸deお買い物』です。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/blog-post_5.html

2013年9月6日金曜日
「タイヤキ オイシイデスネ」(気仙沼市魚町)
「師匠との約束を守って、私の店ではあんこの『たい焼き』だけで商売をしています」と、気仙沼市魚町で人気のたい焼きのお店を営む小野寺悟さん。震災で仮設店舗に移った今も味を守り続けていることを神戸で出会ったたい焼きの師匠に伝えたいのですが、その師匠は阪神淡路大震災以来、消息が掴めていません。

2013年9月9日月曜日
「純米酒の県みやぎ」の心を打つ復興支援のエピソードと「きき酒会」  宮城県酒造組合(仙台市)
地域経済の重要な担い手の一つである宮城県の酒造業。東日本大震災では、由緒ある多くの蔵元が被害を受けましたが、日本酒だけでなく焼酎メーカーも含めた全国の同業者から支援を受けて、少しずつ立ち直ってきています。

2013年9月10日火曜日
被災地を見て、触れて学ぶ「南三陸復興学びのプログラム」(南三陸町)
「南三陸復興学びのプログラム」を企画運営している工藤望さん。「被災地に住む私たちが、経験した大津波の怖さやその後の生活について話すことで、たくさんの人に自分の命を守ること、防災についてを考えるきっかけになる」という信念で、震災の風化防止と防災意識の構築のために活動に取り組んでいます。

2013年9月11日水曜日
震災への備えを知る(後編)  仙台市水道局 茂庭浄水場(仙台市太白区)
「いつもどおりが一番大事!!」
「近代水道百選」にも選ばれている仙台市最大の浄水場、茂庭浄水場。耐震化だけでなく、管轄外の地区にも送水できるポンプ、断水エリアを最小化する「配水ブロックの適正細分化」、給水車へ効率的に水を補給できる注水栓など、震災前から非常時の対策を準備していました。

2013年9月12日木曜日
山口県への恩返し(石巻市大街道)
「震災の時から、支援を受けて、力をもらった。だから、今度は恩返しをしたいんだ」山口市立徳佐小学校からたくさんの支援を受けてきた石巻市立釜小学校。この夏、大水害に見舞われた徳佐小学校の子どもたちへ、石巻の子どもたちが恩返しの募金活動に立ち上がりました。

2013年9月13日金曜日
ふるさとへの思いをTSUNAGU(山元町)
「ふるさと山元町を離れて生活していると震災があったことが少しずつ忘れられていくことを感じます。震災で傷ついた大切なふるさとに自分が何かできることが何かないかとふるさとへの思いが強くなりました」と、「TSUNAGU」有志の会の代表横山純子さん。「被災者には1人1人の物語があります。そのことを全国に伝えていくのが私の使命」と語るピアニストの沢知恵さんを招いて、コンサートを開きました。

2013年9月17日火曜日
第18共徳丸の解体作業が始まりました(気仙沼市鹿折)
JR鹿折唐桑駅前に打ち上げられていた福島県船籍のまき網漁船第18共徳丸(330トン)の解体が、9月9日から始まりました。震災後、気仙沼市を訪れた多くの人がこの船の前で震災犠牲者への哀悼を捧げ、大津波の威力と破壊力の大きさと怖さを心に刻みました。2年6カ月にわたり静かに見守り続けてきた第18共徳丸。その時間も終わりの時を迎えています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/18.html

2013年9月18日水曜日
よみがえった月浜海水浴場の夏(東松島市宮戸)
震災から3度目のこの夏に復活した月浜海水浴場。日曜日だけの営業だったにもかかわらず6日とも晴れ、ピークだった8月11日には2000人もの来場者を集めました。住民や多くの支援者の「つながり」の力が、たくさんの人たちに楽しい思い出をプレゼントしました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/blog-post_9305.html

2013年9月20日金曜日
大きく育て心の復興。「閖上ケナフプロジェクト」(名取市閖上)
「震災でバラバラになってしまった閖上の人たちが、ケナフ作りを通して集まれれば。目指すのはコミュニティーの再生です」と「閖上ケナフプロジェクト」の南部由希さん。ケナフを使った紙や炭、服地、バッグ……と夢は広がります。でも、人手がまだまだ足りません。刈り取り、皮むきと作業は山積み。手伝ってくれる参加者を求めています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/blog-post_5081.html

2013年9月24日火曜日
地元七郷のお米を提供「おにぎり茶屋 ちかちゃん」(仙台市若林区)
「おにぎり茶屋 ちかちゃん」では、震災で海水をかぶった田んぼや畑を回復させ、その田んぼでできた地元のお米を使っておにぎりを提供しています。メンバーは、40年続いてきた「神屋敷仕込み味噌クラブ」以来の仲間。「またみんなで働ける場所が欲しい」という夢がかなって、お店には笑顔が絶えません。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html

2013年9月25日水曜日
災害と社会的弱者への理解と対応 (気仙沼市唐桑町)
「障がいがある人が生きやすい社会が、私たちにも生きやすい社会だと思います」
震災の時、心身に障がいのある人たちはどのように避難をし、避難生活を送ったのか? 気仙沼市唐桑町社会福祉法人洗心会が運営する障害者支援施設「第二高松園(だいにたかまつえん)」施設長の熊谷眞佐亀さんにお聞きしました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/blog-post_1660.html


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■編集後記

すっかり、リズムを崩してしまいました。

うかうかしていると週刊が「月刊」になってしまいそうです。

月といえば、仲秋の名月はご覧になりましたか?

今年は台風18号が去った後の数日間晴天が続いたため、名月の前後も愛でることができました。




いつも思うことですが、天と地はその間で生きる人の都合にはお構いなく巡り、進んで行きます。

グズグズと振り返るのは止めて、半ば強引に出直しです。


(ココロデスク)

2万株全滅も、現在(いま)咲き誇る大輪の白いバラ~宮城野バラ工房(名取市高柳)

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YUUです。

地鳴りとともに間髪を入れずに発生した大きな縦揺れ。

「これは、ちょっと普通の地震じゃない」との思いが頭をよぎるも、考えを巡らす間もなく、これまでに経験したことのない暴力的な横揺れが始まる。

いつまで続くのか。数分が数十分に感じられた驚愕と絶望の時間。

3.11、東日本大震災では、大勢の人々が、経験値では計りようのない地震の揺れと恐怖を体験しました。その時間、約200秒以上。平成7年の阪神大震災、平成16年の新潟中越地震は20~30秒の揺れだったそうですから、約10倍超です。途方にくれるほどの長い時間、桁外れの揺れが続いたと感じたのは、決して幻想でも、平常心を失っていたからでもありませんでした。

過去の地震、想定地震との比較でも規模、時間ともに桁外れだった地震は、安全神話のあった原子力発電所の被災や広域の巨大津波を引き起こしました。その複合被害があまりにも甚大だったため、これまでの大地震では、被災地外の人々が真っ先に目を向けた地震そのものによる建物の倒壊や家屋の被害を知る機会を失わせるほどでした。

「宮城野バラ工房」梶農園のハウス内
大輪系の白バラ・アバランチェを主力品種として、30品種、約6万本のバラが年間通じて栽培されている

名取市高柳地区にある「宮城野バラ工房」梶農園は、生産面積3000坪。年間生産本数約100万本を数える宮城県内有数のバラ農園です。

生産しているバラの品種は、看板品種である白バラ・アバランチェをはじめ、ブルゴーニュ、スイートアバランチェ、リメンブランスなど、大輪系のバラを中心に30品種にも及びます。

東日本大震災では津波に飲み込まれる被害こそ避けられたものの、16棟を数えるハウス栽培施設や、栽培中のバラは甚大な被害を受けました。

梶農園の丹野敏晴さんは、震災当時を振り返って、次のように話します。

「高柳という地名の通り、少し高台にある地域なので、津波の被害はギリギリ避けられました。海側の高速道路が防波堤となり、そこを越えてきた津波もちょうど脇までで止まりました。しかし、ハウスの3分1強のベッドが倒れ、栽培中の6万株全てが被害を受け、全体の約3分の1の2万株を超えるバラは再起不能、全滅してしまいました」

震災直後は家族と従業員の安否確認が最優先で温室の被害調査どころではなく、遮断されたライフライン復旧の見通しが立たない中で、現在(いま)を生きる対応だけに追われたそうです。

幸いにも、家族、従業員ともに無事を確認できましたが、従業員の中には閖上地区や亘理町在住の方がいて、家族が津波に流される不幸に遭われた方もいました。丹野さん家族も従業員も、生活する家屋が被災し、さらに深刻なガソリン不足なども重なって、バラや温室設備の被害は気になるものの、数日間は身動きが取れない状況が続いたといいます。

高品質のバラ栽培に欠かせない温度・湿度管理を可能にする
施設園芸用ヒートポンプ


バラ栽培は室温を18℃と高めに保つ必要があり、暖房による温湯や温風で温室内全体を加温するのが一般的です。

そのため、東北のような寒冷地でバラ栽培を行うには、非常に暖房コストがかかります。原油価格が高騰して燃料の重油価格が上がれば、そのしわ寄せは直ちに栽培農家を直撃します。

そこで、梶農園では燃料コストの削減と、温度・湿度管理が非常に重要な高品質のバラ栽培のために、2007年より施設園芸用のヒートポンプを導入しました。最初は試験的に4台導入し、その結果、高い効果が得られたため、震災時には24台のヒートポンプ(上・写真)が各温室内で稼働していました。

「バラ栽培は寒さを避けなくてはなりませんが、バラは暑さに弱い品種も多いんです。梅雨時期と夏は除湿、夜間冷房が欠かせません。高品質のバラを安定して栽培するには、年間を通じてきめ細やかな温度・湿度管理が必要になります。 ヒートポンプを導入したことで、CO2排出量、農薬使用量の削減にも繋がりました」

丹野さんの説明によると、生育に与える影響など各種データの収集・分析を行い、季節に応じた運転方法を確立することで、ヒートポンプによる効果は導入後、経験を重ねるほどに高まっていったと言います。

「バラ栽培は日進月歩の世界なんです。次々と必要に迫られる新しい技術への設備投資は経営負担も大きいですが、需要のパイは限られています。高品質生産や生産性の向上を図る競争に取り残されると、それこそ生産者としての基盤自体が崩れてしまう。ヒートポンプの導入は、重油の高騰に対する対応策に加え、環境分野にも良い効用があると考えて、設置が全国的に広がりを見せる前の早期の段階で決断しました」

バラ栽培における高品質生産、生産性の向上を実現するヒートポンプですが、大まかに例えればエアコンのようなものです。電気が遮断されれば動かすことはできません。他にも天窓の開閉、井戸水のくみ上げなど、電気が使えなくなる設備はたくさんあります。近代的な農業生産、温室栽培の現場では環境制御の施設整備を進めていればいるほど、その影響が大きいことを東日本大震災は思い呼び起こすことになりました。


ハウス内の奥行を見渡し、ハウスの広さ、規模を確認すると、
両端に繋がる栽培用ベンチの倒壊のひどさが推察される

つぼみが開花し、採花が近づいている美しいバラ
大地震により多くの出荷直前のバラも大きな被害を受けた


ハウス栽培と一口に言ってもその規模や栽培品目、品種はさまざまです。

梶農園のハウス内を案内してもらい、その奥行、全容を見渡すと、巨大地震により、その大部分の栽培ベンチが倒れ、生い茂るバラの多くが駄目になってしまった様子がいかに凄惨なものだったかが推察されます。

「ひっくり返ったベンチをもとに戻す作業は、家族と従業員だけではとても無理です。交流のある山形の同業者の方などに応援に駆け付けてもらい、何とかもとに戻すことができました」

震災から5日後、電気が通ってようやく復旧作業に着手したものの、震災によりバラの出荷を停止したため、しばらく収入が途絶えることは確定しています。

大地震が起こった3月は、花の消費動向が最盛期を迎える時期です。皮肉なことに、花き市場でバラの相場が年間通じて最も高いのは例年、3.11の週なのだそうです。

「婚礼と人の移動が花の消費動向を左右します。3月は、その両方のピークが重なる時期なんです。桜咲く4月は花より団子の例えじゃないですが、むしろ需要は落ち込みます」

花き栽培の生産者にとって1年間でもっとも稼ぎ時の収入がなくなる。

これは、大変なことです。

例えばウナギの養殖業者なら、土用の丑の日の前後に出荷ができなくなるようなものです。


「栽培方法のトレンドが年々様変わりするバラ栽培を生産農家として継続していくためには、設備投資の繰り返しは避けられません。いい品種が出たらいち早く栽培する。実効性が高いと思ったら苦しくても設備投資。借金のない栽培農家なんていないと言っても過言ではないでしょう」

収入は途絶えても、月々の支払いは継続します。


「行政からの復興補助金に希望をつないではいました。ただし、今回の震災はあまりも被災地域が広域で、私自身の農園も非常に被害は大きかったけれども、近隣では津波により、ハウスごと流されてしまったような農家もある。補助金の割合や支払い時期、優先順位などの決定に時間がかかるだろうなと、不安を感じてもいました」

丹野さんは花き組合の副組合長として、大勢の生産者の心配の声を聞く立場にもありました。

「査定された被害総額の何割の補助が受けられるのか、建物や設備の損害だけではなく、生産物の損害は認められるのか。生産農家のほとんどの内情が厳しいだけに、後継者がいない場合は廃業の選択も含めて検討せざるを得ないケースもありました」

梶農園ならではの切り花直前の開花し始めたバラ
つぼみの切り花は花持ちがいいというのは誤解で
開花し始めのタイミングを見計らって収獲した切り花は
満開まで咲ききり、花保ち期間も断然長い


花の女王とも形容されるバラは、ヒートポンプ導入の経緯で紹介したように非常に生産コストの掛かる花です。

大地震は、切り花、出荷直前だった多くのバラも含め、2万本のバラを全滅させました。

「国の補助の概要が決まる以前に宮城県と名取市の方から、これまでの災害では認められることが少なかった花そのものの被害も補助金の対象となると通達があったので、その点は非常にありがたいと思いました」

とは言え、補助金の見通しが確定するまで、復旧作業を怠るわけにはいきません。

栽培ベンチをもとに戻す作業こそ、大勢の助っ人のお世話になりましたが、その後は家族と従業員で懸命に復旧作業に従事したといいます。


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2011年の4月中旬、震災後、ようやく初出荷がかないました。

その時の様子を、後継者の丹野岳洋(たけひろ)さんは、こう振り返ってくれました。

「ベンチが若干ずれただけの被害で済んだバラをなんとか出荷することができました。もちろん、品質を落としたものは出荷できませんので、きちんとした状態のバラだけです。通常100~200ケースの出荷のところを、5ケースほど、なんとか出荷したのを覚えています」

梶農園の看板品種、大輪の白バラ・アバランチェ


震災後、出荷量がほぼ前年対比で元に戻ったのは、10月頃だったといいます。

「被災地生産ということで、花き市場でも、これまで引き合いがなかったところからお声掛けがあったりしたのは非常にありがたいことでした。ただし、新しいお取引先から梶農園のバラと指名買いを継続してもらうには、信頼を得る品質の生産を続けていくしかありません。少しでも妥協して出荷すれば、すぐお客さんに伝わってしまいます」

実際に、日本一の規模を誇る大田市場の花き部で、その品質を見込んだ指名買いが入ることが珍しくない梶農園の内実は、震災の爪痕が深く食い込み、治癒したとはとても言い難い状態だといいます。


「震災から2年が経過し、生産現場の外面上はほとんど元通りに見えるかもしれませんが、品種構成や、株の更新など細かい部分は現在も完全に元に戻せたわけではないんです。震災前の状態とほぼ同様の中身に戻せるのは、最低でもあと5年程度はかかると思います」(岳洋さん)

現在のバラ栽培はかつての土耕栽培ではなく、栽培のための培養液が染み込みやすいスポンジ状の人工培地を使用するロックウール(溶液)栽培が主流で、梶農園も採用しています。

この栽培方法では、3年から4年ごとに植え替えていくことが高品質のバラ造りには必要なのですが、震災により、植え替え時期の計画や順番が大きく狂ってしまったのだそうです。


信頼第一、品質第一のバラ造りを継続していくことが
農園の再興、発展、地域の復興につながると話す
梶農園の丹野岳洋さん

梶農園は震災により、バラ栽培農家としての基盤が揺らぐほどの大きな被害を受けました。

マグニチュード9.0。史上4番目といわれる大地震によってです。

東日本大震災は津波被害の傷跡があまりにも凄惨で、大き過ぎたため、地震そのものによる施設や生産現場の被害実態、復興への歩みが報じられる機会が少なくなってしまいました。

個人的には、そうした側面は否定できないと思っています。



直売所ではさまざまなフラワーアレンジなども受け付けています。
大きな花屋さんでもまず揃わない多品種、高品質のバラが
ちょっとびっくりするぐらいの低価格帯で販売されています。



なお梶農園では、ハウスと隣接した国道沿いにバラの直売所を営業しています

宮城県の産業振興事務所にコンサルティングを頼んだ時に「ちょっと安すぎるんじゃないの?」と、疑問を投げかけられたほどの価格帯で、高品質、採花時期は絶妙、花屋には揃わない多品種のバラが販売されています。

興味のある方は下記ホームページで。


宮城野バラ工房 梶農園 
http://kaji-rose.jp


(取材日 平成25年8月1日)

気仙沼のイベント情報 9月末~10月上旬(気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。
急に寒くなりました。朝の気温は10度を割り込み始めました。寒暖の差の大きい季節です。
皆さん体調管理を十分にされ風邪には気をつけて下さい。

9月末から10月上旬に行われる気仙沼で開かれるイベントを紹介します。

安波山からの気仙沼湾眺望(平成25年9月撮影)


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復活!ナイトフェスタ
開催日時:平成25年9月28日午後3時~午後9時まで
開催場所:気仙沼市田中前大通り 朝日生命駐車場
開催内容:バンド演奏・創作太鼓の演奏など
       気仙沼市観光キャラクター「ほやボーヤ」と写真を一緒に撮ることができます

東日本大震災前、毎月気仙沼市のメイン通り「田中前大通り」で開かれていたナイトフェスタ。
老若男女が楽しめる楽しいお祭りです。

主催:気仙沼新中央商店会


第二回 気仙沼ストリートライブフェスティバル
  平和のかけらを集めよう~祈り~

開催日時:平成25年9月29日(日)午前10時~午後4時まで
開催場所:気仙沼市田中前大通り周辺 (メイン会場:朝日生命前)
開催内容:バンド演奏など

今年で、第二回目の開催となる気仙沼ストリートライブフェスティバルは、音楽で交流を深めることを目的にして開催される市民主体の音楽イベントです。
プロ・アマの垣根を越えて仙台市や兵庫県、大阪府や東京都などから40組のアマチュアバンドなどが出演しポップス、フォーク、ロック、ジャズなどの音楽を奏でます。

主催:気仙沼ストリートライブフェスティバル実行委員会

リンク先:http://k-streetlive.com/


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第2回 気仙沼バル


開催日時:平成25年10月5日(土) 午後4時~9時
(バル開催時間や休憩時間は、お店により異なります)
開催場所:気仙沼復興商店街 南町紫市場・復興屋台村 気仙沼横丁・気仙沼鹿折復幸マルシェ

気仙沼バルとは・・・
チケットを当日2,500円(前売り2,300円)で買ってバル参加店から、お店を3つ選びます
お得な特別メニュー(1フード、1ドリンク)を味わいます~
参加店舗数:3商店街で33店舗

主催:気仙沼バル実行委員会

リンク先:http://kesennumabar.com/


気仙沼サンマフェスティバル

開催日時:平成25年10月5日~6日(土・日) 午前9時~午後6時
       雨天決行
開催場所:イオン気仙沼店駐車場
       〒988-0101 宮城県気仙沼市赤岩舘下6-1外
               
開催内容:気仙沼港に水揚げされたサンマの格安販売・音楽イベント
      炭火焼されたサンマ2500尾が無料で振舞われます

主催:気仙沼サンマフェスティバル実行委員会

リンク先:http://sanmafes.com/



例祭神幸神輿渡御並びに唐桑産カキ即売祭

開催日時:平成25年10月6日(日) 午前9時30分~午後2時
開催場所:早馬神社
      気仙沼市唐桑町宿浦75
開催内容:例祭神幸船祭では神輿渡御、船祭、打囃子、奉納演奏が行われます。
       多くのボランティアに支えられ見事に復活した、新鮮なカキの即売祭があります。
       カキの無料試食ができます。

リンク先:http://hayama.jinja.jp/index.html


早馬神社境内

気仙沼大島亀山235m頂上から望む唐桑鮪立湾の眺望
カキの養殖イカダが湾に浮かんでいます

今年は海水温が高い状態が続いている影響で、秋の味覚の王様サンマの不漁が続き価格が高騰しています。
それでも気仙沼では、ここ数日少しずつサンマ船の入港が増えてきました。
また、鮮カツオの水揚げも17年連続で日本一になりそうだと予想されています。

カツオもサンマもこれからが脂が乗っておいしい時期を迎えます。イベントが9月末から毎週企画されています。
気仙沼の魅力を感じにお出掛けください。


第18共徳丸の解体も進められています

(取材日 平成25年9月27日)

音楽と祈りを気仙沼へ(気仙沼市)

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今年も残り3カ月になりました。秋の深まりも感じられます。
そろそろ新米も市場に出回ります。とても楽しみです。
気仙沼市でも、食欲の秋、芸術の秋が満喫できます。

平成25年9月29日、気仙沼市田中地域で「第二回気仙沼ストリートライブフェスティバル」が開催されました。

第二回気仙沼ストリートライブフェスティバルの様子

気仙沼ストリートライブフェスティバルは、音楽で交流を深めることを目的に、昨年から開催されてる市民主体の音楽イベントです。

今年のイベントにはプロ・アマの垣根を越えて仙台市や兵庫県、大阪府や東京都などから40組のアマチュアバンドなどが出演して、ポップス、フォーク、ロック、ジャズなどの音楽を奏でました。



このイベントに参加したバンドの一つ、「明日香バンド」は兵庫県神戸市から参加しました。
明日香バンドを率いる「鎮魂の祈り・よみがえれ東日本兵庫県民有志の会」代表の島田文治さんは、「被災地の復興と鎮魂の祈りと被災地の人たちに音楽を届けて元気になってもらいたいという思いで、気仙沼を訪れました」と話しました。

バンドマスターの多田明日香さん(中央)


昨年8月、気仙沼の学生バンド「THE SWING DOLPHINS」に、明日香バンドのバンドマスターである多田明日香さんたちが彼らの師匠の遺品のドラムセットを贈りました。今回このイベントに参加したのも、贈ったドラムセットと学生バンドのメンバーとの再会が目的の1つでした。

明日香バンドの演奏風景

明日香バンドは、29日の13時10分からメインステージで、被災地の復興を祈って作られた東日本大震災被災地復興応援歌「ひかり」やジャズのスタンダードナンバーなどを演奏しました。復興応援歌「ひかり」は、生きる希望を語りかける詞になっていて、会場を訪れた人の中には涙する人もいました。

気仙沼市内から来たという40代の女性は、
「とても癒される曲でした。まだまだ大変なこともあります。震災後、心になかなか元気が湧いてきません。本格的な音楽を気仙沼で聞くことができてとてもうれしかったです。町の中に音楽が流れているのはとてもいいですね」
と話しました。

海岸で祈りを捧げる島田さん(画面中央の船の前で)

イベントの前日、明日香バンドのメンバーと島田さんは気仙沼市の海岸を訪れました。そして、兵庫県にある真言宗のお寺、獨鈷山鏑射寺の中村公隆山主から授かったお土砂を、清水と共に海岸に撒き、震災と津波の犠牲者、行方不明者のために鎮魂の祈りを3時間にわたり捧げました。

島田さんは、
「津波はひどい。根こそぎ町を壊していく。まだまだ生活に不自由もあると思います。一日も早い復興を祈っています」
と、気仙沼の町の様子に心を痛められていました。

島田さんたちが海岸で祈る姿を見て、家族を亡くされた女性が
「こうして私たちにまだ心を寄せてくださる人がいると思うと本当にありがたいです」
と話しました。

「希望の光に向かって命輝いて生きる」
島田文治さんは被災地の人に心を寄せています

東日本大震災から2年7カ月。家族のもとに帰れない人たちの捜索を毎月11日に警察が行っている姿を見るたびに、「早く家族の元へ帰れますように」と祈ります。


(取材日 平成25年9月28日、29日)

台風26号(石巻市・女川町)

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こんにちは、Chocoです。
今日は、昨日の台風のことについてお話したいと思います。

今回の台風26号は、過去10年で最も勢力をもつと言われ、広範囲に影響が出ました。
東京都伊豆大島では、18名の方が亡くなり、39名が未だ行方が分かっていません。(17日午前現在)

行方不明の方が1人でも多く早急に発見されることを祈っています。


伊豆大島から約600キロ離れている石巻周辺でも台風の影響で進水しているところが多くありました。
石巻では、最大風速32.6メートル、お隣の女川町江ノ島で45.5メートルを観測しました。
また、降水量は、石巻市で98.5ミリ、女川町で160.5ミリ、東松島では91.0ミリでした。
(仙台管区気象台調べ)

私が外に出た頃には、暴風も収まり晴れ間も見え始めていましたが、道路は浸水状態の場所が多くみられました。
門脇の「がんばろう!石巻」の看板前の道路は浸水していました。
その一部を写真で紹介したいと思います。

 1.日和山から日和大橋の方向の様子
【2013年8月 日和山から】

【2013年10月16日 日和山から】
 2.日和山から門脇方向の様子(写真の位置は違います)

【2013年8月 日和山近辺から】
【2013年10月16日 日和山から】
3. 日和山から石ノ森萬画館方向の様子

             【2013年8月 日和山から】 

           【2013年10月16日 日和山から】

4.日和山から湊町の様子
【2013年8月 日和山から】

【2013年10月16日 日和山から】

5.1女川町地域医療センターからの様子
【2013年8月】

【2013年10月16日】

 5.2女川町地域医療センターからの様子
【2013年8月】


【2013年10月16日】

 5.3女川町地域医療センターからの様子
【2013年8月】
【2013年10月16日】

6. JR浦宿駅近辺
右側が浦宿駅です。
浦宿駅前のセブンイレブンの駐車場も半分が浸水状態でした。
7.女川コンテナ村商店街

商店街のゲートを飾るアーチも強風の影響で倒れてしまいました。

私が向かった頃には片付けられていました。

コンテナ村商店街の入口の手前にある洗米機に隣接されてある小さな休憩所も
暴風の影響で倒れていました。
暴風が続き、復旧作業が続く被災地の工事現場でも暴風対策をしていました。
台風が去り、翌日には晴れ間が広がり、台風で被害を受けた箇所の復旧作業が各地で行われました。

しかし、早くも次の台風が日本に接近する可能性があるかもしれないという予想が立てられています。
※台風27号は現在日本の南海のマリアナ諸島に上陸しています。(10月17日15時50分現在 気象庁

まだまだ注意が必要です。

(取材日 平成25年10月17日)

創業140年の蔵を離れて、新たなる挑戦~新澤醸造店・川崎蔵 前編 (川崎町)

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YUUです。

この場を借りてあらためて触れるのもなんですが、2013年の東北の大きなトピックスといえば、プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスのリーグ初優勝と、その原動力となった田中将大(まさひろ)投手の24連続無敗記録、岩手県久慈市を舞台にしたNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の大ヒットが双璧かなと思います。

舞台が東北という以外、共通項がないようにも思える2つのメガヒットですが、個人的には多大な支持を集めたそれぞれの足跡には欠かせなかった共通する要因があると思っています。

それは、「主役を支える周囲の人々の素晴らしさ」。

田中将大、能年玲奈の主役2人は、確かに余人をもって代えがたい能力、魅力があったかもしれません。
ただし、今年、2人がそれぞれの舞台で一頭地を抜くほど光り輝いたのは、周りにいた人々が2人を際立たせる能力に優れていたから、主役に劣らない能力、魅力を備えた人々が周囲に配置されていたからではないでしょうか。

周囲を山に取り囲まれた「伯楽星」「愛宕の松」の蔵元、新澤醸造店の川崎蔵。
素晴らしい水源を維持するために、施設と周囲の山を同時に購入したそうです

冒頭の話題を振ったのには理由があります。

今回の記事で紹介する株式会社新澤醸造店は、宮城の地酒銘柄としてファンを増やしている「伯楽星」、「愛宕の松」の蔵元ですが、この2銘柄に共通するコンセプトは究極の食中酒

伯楽星の裏ラベルには、こんな説明文が記されています。

「『究極の食中酒』を意識し、一層食材を引き立てること、きれいで爽やかなキレを演出する事を大切にしています。繊細ながらも芯のある味わいをお楽しみください」


さまざまな地酒銘柄に精通し、「斗酒なお辞せず」の私の友人は、伯楽星を「食事をとりながら杯を重ねるごとにうま味が増すお酒」と評します。


新澤醸造店の商品ラインアップ、究極の食中酒を目指す伯楽星は
食にこだわる仙台・国分町の飲食店でも人気上昇中の銘柄

お酒と料理は決して主従関係にあるわけではないと思いますが、互いを引き立てる役割分担としては、料理が主役を務めるケースが多いかと思います。

究極の食中酒=主役の魅力を際立たせるキラリと光る名脇役。

伯楽星、愛宕の松は、そんな蔵元の思いが込められ、醸されたお酒です。

「日本酒、特に特定名称酒の市場全体がインパクトのある香り、主張が大きいお酒が主流となっていたなかで、あえて真逆のコンセプトで美味しいお酒を造ろうという考えで、2002年から蔵の新銘柄として伯楽星の造りを開始しました」

こう説明してくれたのは、(株)新澤醸造店の杉原健太郎専務取締役。

酒名は、馬の目利き(伯楽)が育てた名馬が天に昇ったという、三本木に残る伝説に由来するといいます。


震災後、新しく建てられた大崎市三本木の新澤醸造店本社

新澤醸造店本社の所在地は宮城県大崎市三本木。

2006年に1市6町の広域合併により大崎市が誕生する以前は「三本木町」だったかの地で、およそ140年にわたり酒造りの歴史を育んできました。

伯楽星を生み出してからは、FIFA・W杯南アフリカ大会オフィシャル酒、日本航空のファーストクラスに採用されるなど、年を追うごとに地酒銘柄としての浸透度が増してきていました。

そうしたなか、マグニチュード9.0、世界史上4番目の規模だった東日本大震災は、明治6年建造の三本木の蔵に壊滅的な打撃を与えました。


「蔵全体はかろうじて倒壊こそ免れましたが、柱が傾くなど全体が歪み、土台そのものが斜めになってしまったことで全壊判定を受けました。冬に仕込んだばかり、3つの蔵を合わせて数万本の酒瓶が割れてしまい、大型タンクで熟成中だった6000リットルℓの酒も震災後の停電の影響などで管理不足になり、そのほとんどが廃棄処分にせざるを得ませんでした」(新澤醸造店・杉原専務)





東日本大震災後、数万本の瓶が割れてしまったという蔵の惨状

大地震は、歴史ある蔵に対して最終的に取り壊す選択に追い込む惨状を与えたばかりか、蔵に寝かせていた1年分の売り物の7割を駄目にしてしまったといいます。

2008年に起こった岩手・宮城内陸地震でも三本木の蔵は大きな被害を受けています。東日本大震災によるさらなる打撃によって、蔵を完全に取り壊して新造するか、長く根付いてきた土地を離れ移転するかの決断を迫られることになりました。

「蔵全体を建て替えるとなると数億円の資金が必要とのことでした。しかも工事期間中は何もできない。一方で、地元との繋がりを断つことはできないというジレンマもありました」

酒造業ではそれぞれの土地に根付き、歴史を積み重ねてきた蔵がほとんどだといって過言ではないでしょう。近年は海外輸出なども積極的に行ってきた新澤醸造店も例外ではありません。

蔵で働いてきた人々のほとんども地元三本木で暮らしていました。

「これまでの蔵にはもちろん愛着はありましたし、蔵と土地は一体という思いもありました。一方で建物の老朽化は激しく(例えば、段差がすごい)、導入したい設備も電力が足りなくて入れられないとか、設備拡充の面などで限界も感じていました」


2000石以上作れる蔵として建てられた「川崎蔵」

震災後より数カ月、新沢巌夫社長以下、ジレンマを抱えながら、蔵の建て替えか移転かを検討していました。そうした時期、三本木の地より約70㎞離れた川崎町に、廃業を決めた天賞酒造の蔵が売却物件となっているのを見つけたそうです。

「廃業された天賞酒造さんとは特別のお付き合いがあったわけではなく、不動産業者の物件として川崎蔵が売りに出されているのを知りました。2000石(約36,000リットル)以上作れる蔵として建てられていて、蔵内の動線もかなりゆったりと作られている。ここでなら思い描いたていたことが実現できると考えました」

山形県との県境にある川崎蔵は山あいにあって、酒造りに欠かせないたいへんきれいな水がふんだんに使えます。今後、石高を増やしたり、新しいチャレンジをしていく上で十分な規模の既存施設だったことも、新沢社長が最終的に蔵の移転を決断した大きな理由だったそうです。

地元との繋がりを断つわけにはいかないというジレンマは、本社機能をそのまま三本木に残すことで解決しました。

別棟になっている製品置き場、出荷作業場も、天井が高く、広々としたスペースに

杉原専務から蔵の移転の経緯を聞くと、たまたま格好の建物が空いていたからという消極的な理由ではなく、施設や水を含めた周辺環境を考慮し、新しいステップ、挑戦を志すためには最良の選択が川崎蔵だったとのかなと感じました。


後編では、川崎蔵移転後の話、新澤醸造店の取り組みについて紹介したいと思います。


株式会社新澤醸造店 
宮城県大崎市三本木字北町63
TEL 0229-52-3002

川崎蔵
宮城県柴田郡川崎町大字今宿字子銀沢山1‐15


(取材日 平成25年9月25日)

週刊ココロプレス 第61号

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ココロデスクです。

台風26号で被災された方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

今回は、深夜に避難を勧告することが安全かどうかという難しい判断もあったようですが、たくさんの方が亡くなる残念な結果になってしまいました。

「暗闇でどう避難するのか」「通信手段が途絶えたら」「責任者が被災して動けなかったら」……
心配な状況を思いめぐらしてもキリがないかもしれません。でもそうした事態は実際にこれまでどこかで起こってきたことです。教訓にして活かしていかなければならないと思います。

息をつく間もなく、台風27号が接近しているというニュースです。
予報では26号よりもさらに大きく強いようです。
物的な損害を無くすことは難しいかもしれませんが、怪我をしたり命を落としたりする方が、今度こそゼロとなることを祈ります。


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  ■最近のダイジェスト (9月30日~10月18日)
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2013年9月30日月曜日
障がい者と健常者が一緒に暮らせる社会へ(気仙沼市唐桑町)
「障がい者と健常者が地域で一緒に暮らすためには、想う心が大切」と話すのは、先日ご紹介をした障がい者支援施設第二高松園の施設長、熊谷眞佐亀さん。「障がい者が権利と義務を果たすことが真の社会参加だと思います。障がい者が果たすべき義務とは何かを考え、支援していくのが私たち福祉施設の職員の務めです」と考えています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/09/blog-post_9874.html

2013年10月1日月曜日
女川スーパーおんまえや(女川町)
「まだ2年半しか経っていない。ここからが正念場なんだ」津波の難を逃れた移動販売車を走らせて、震災から2カ月も経たない5月6日から移動販売を再開した地域密着スーパー「おんまえや」。先代を津波で失い社長を引き継いだ佐藤広樹さんは、「最終的にはスーパーを再会する。けれどもまず、女川町が良くならなければ。そのためにどうすれば良いのかを皆で考えているんだ」と語りました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

2013年10月2日水曜日
風と一緒に“心”と時を染める(仙台市青葉区、太白区)
震災から2年半が過ぎた今なお、21万5千人もの人が自宅に戻れずに慣れない土地で暮らしています。福島から仙台に避難して来ている親子のために「ふくしまほっこりカフェ」を運営している「ハート&アート空間 ビーアイ」では、まだまだ心の復興が必要だと考え、この秋「野染めワークショップ」を開催します。教えてくれるのは京都在住の染織家、齋藤洋さんを中心とした「風の布・パピヨン」のスタッフです。10月26日(土)、会場は仙台市野草園です。(要申込)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/blog-post_7959.html

2013年10月3日木曜日
町を繋ぐ~「南三陸町てん店マップ2013」完成!(南三陸町)
南三陸町では、中心部の複合商店街にあった多くの店が高台の新しい場所で商売を再開しました。しかし、新しく店を建てた場所は、主要道路沿いから少し入った所や、人目につきにくい場所であるということも少なくありません。「点在してしまった商店がどこにあるのかを地図にして、観光客だけではなく南三陸町の町民にも震災前のように利用してもらいたい」と、地元の商店70軒が集まって「南三陸てん店(てん)まっぷ」を作成しました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/2013.html

2013年10月9日水曜日
継続する力~思い出がよみがえる  津波流失写真展示会(仙台市宮城野区)
「世界に1枚しかない思い出の写真が持ち主の元へ帰りますように」と話してくれた「おもいでかえる」の野瀬香織さん。津波で流失し回収された写真の洗浄・ファイリング・公開・返却に取り組んでいます。
行政からの支援が打ち切られた今も、愛知と宮城を往復してメンバーとともに根気の要る作業を続けています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9.html

2013年10月11日金曜日
守りたい、美しい日本。「仙台イーストカントリー」(仙台市若林区)
乾くと塩で真っ白になるんだよね。パリパリしてたな。そこに水を入れて土と混ぜては水を抜く。それを何回もして、植えても大丈夫な土地になったんだよ」と農事組合法人「仙台イーストカントリー」代表理事の佐々木均さん。震災では種もみや肥料、貯蔵していたお米をはじめ農業用機械などのほとんどを失いましたが、それでもその年の秋には新米を出荷しました。当たり前のように昔からあったきれいな水と田園風景を守り続ける決意です。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/blog-post_11.html

2013年10月13日日曜日
解体が始まった第18共徳丸(気仙沼市鹿折)
「私はこの場所に幾度も幾度も足を運び、この船を絵に描いてきました。この船が撤去されるというニュースを聞いて、最後にもう一度この船を描こうと思い、妻と気仙沼のこの地に来ました」
と、広島から来た画家の広田和典さん。
「この地で起こったことを忘れてしまうのではなく、この土地の現状を同じ国民としてしっかりと知らなければならない。どこで起こるか分からない自然災害について、もっと自分のこととして考えなければならない。私はそんな思いをこめてこの場所でこの船を絵を描いています」
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/18.html

2013年10月16日水曜日
音楽と祈りを気仙沼へ(気仙沼市)
「被災地の復興と、鎮魂の祈りと、被災地の人たちに音楽を届けて元気になってもらいたいという思いで、気仙沼を訪れました」と話す「鎮魂の祈り・よみがえれ東日本兵庫県民有志の会」代表の島田文治さん。神戸の「明日香バンド」とともに「第二回気仙沼ストリートライブフェスティバル」に参加しました。メンバーは、昨年8月に気仙沼の学生バンド「THE SWING DOLPHINS」に贈った師匠の遺品であるドラムセットとの再会も果たしました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/blog-post_16.html

2013年10月17日木曜日
台風26号(石巻市・女川町)
台風26号で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。
昨日は宮城県も暴風雨に襲われました。震災による地盤沈下が激しい沿岸部では、随所で浸水や道路冠水が発生しました。石巻在住のメンバー、Chocoが報告してくれました。(写真は女川町浦宿)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/26.html

2013年10月18日金曜日
創業140年の蔵を離れて、新たなる挑戦~新澤醸造店・川崎蔵 前編 (川崎町)
「インパクトのある香り、主張が大きい日本酒が主流となっていたなかで、あえて真逆のコンセプトで美味しいお酒を造ってきました」こう説明してくれたのは、究極の食中酒として定評のある「伯楽星」の(株)新澤醸造店、杉原健太郎専務。2008年の岩手・宮城内陸地震と2011年の東日本大震災のダブルパンチで壊滅的な被害を受けましたが、奥羽山脈の山懐に蔵を移して、心機一転、酒造りを再開しました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/10/140.html

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■編集後記

東日本大震災の発生から2年半余りがたちました。
この間、宮城県は全国さらに全世界の皆さまからたくさんの温かいご支援を頂いてきました。
ココロプレスでもお伝えしているように、おかげさまで少しずつですが復旧・復興は進みつつあります。

このたび宮城県では、ご支援に対する感謝の気持ちと現状をお伝えするために、新しいサイトを開設しました。

宮城から感謝をこめて
https://sites.google.com/site/kanshamiyagi/

第一弾は、石巻の魚市場と山元町の災害公営住宅の「今」をお伝えしています。






一部は、ポスターとして全国の主要駅や公的な場所にも掲出されます。
お出掛けの時に目に入ったら、どうぞご覧になってください。

(ココロデスク)

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