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ご当地スイーツを石巻に 後編(石巻市)

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こんにちは、Chocoです。
前編に引き続き、先月行われた「いしのまき地域すいーつ」展示発表会に出展したお店を紹介していきます。
前編→http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_11.html

7 お菓子の国パンジー「伊達なもちもちずんだカステラ」
店舗がある東松島市赤井地区は海から3km以上離れていますが、津波は押し寄せ2mの高さまで達しました。
しかし、すぐに修復作業を開始し、5月にはお店の前の外で販売を開始しました。そして、震災から7カ月後の10月5日に店内営業を再開しました。

「伊達なもちもちずんだカステラ」
石巻の酒蔵、平孝酒造の酒粕を使用し、どら焼きの皮をイメージしたカステラの中には、ずんだペーストと生クリームを一緒にたっぷりサンドしています。
伊達者を意識し、伊達政宗のように格好良く、みんなが笑顔になるような「宮城のカステラ」を作りました。

石巻の平孝酒造で作られている「日高見(ひだかみ)」の酒粕を使用。私の地元にも酒蔵があるせいか、日本酒入りのスイーツが大好きです。食べた瞬間広がる日本酒の味わいが何とも大人な味でした。そして程よい甘さのずんだの生クリームもとても良いアクセント。酒好きの私にはたまらないスイーツです(笑)

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8 珈琲工房いしかわ「伊達コーヒー豆チョコ・伊達トランシュショコラ」
市役所内や石巻まちなか復興マルシェにも出店されている「珈琲工房いしかわ」は、立町にあった1号店が津波で壊滅してしまいました。震災後はトレーラーを購入し蛇田地区で珈琲の販売を行ないました。4カ月後には石巻市役所1階に移転し営業を再開しました。
昨年の5月には石巻市広渕に工場を開設し、6月には「石巻まちなか復興マルシェ」に出店しました。現在は、コーヒーだけでなく各種菓子も製造販売しています。
その中の2品が今回出展されました。

「伊達コーヒー豆チョコ」

材料にこだわり、有機コーヒー豆をチョコレートでコーティングされたシンプルな商品です。
作り手の皆さんは、「伊達政宗のように、東北地方のこの地から全国に向けて発信していきたいという想いで作っています」


「伊達トランシュショコラ」

コーヒーを隠し味に、宮城県限定のニッカウイスキーを使用したチョコレートケーキです。濃厚なチョコの中にセミドライのりんごを入れ、さわやかな酸味がプラスされています。
商品にある「伊達」という言葉には、
「奥州・東北を愛した伊達政宗の精神に学び、東北の地で全国に負けない珈琲文化を育てていきたい」
という願いが込められています。

私の大好きなチョコレートとコーヒーのスイーツ・・・香ばしいほろ苦いコーヒーの味が利いていました。これはデスクワーク最中もポリポリと手が進んでしまいますね。
そして、トランシュショコラもウイスキー隠し味良いですね!!
酸味の利いたドライりんごがアクセント、甘さもちょうど良いケーキでした。

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9 パティスリー&ショコラティエ フェヴリエ「ロールストーン」
津波被害が大きかった大街道地区にあるお店は、店舗、製造機械が被害を受けました。食料に乏しかったため、地域住民の後押しもあり、3月後半には、店の一部を使ってできる範囲内で菓子やパンを作り販売を始めました。現在は、地域の人口減少に歯止めがきかず、苦戦しながらも少しずつ震災前の状況に戻りつつあるそうです。

今回出展したのは、ビターなチョコレートケーキです。
「ロールストーン」

実は、第2回いしのまき地域スイーツコンテストでグランプリを受賞したものです。
その後、全国各地から注文が増加し、地元からも愛される定番のお菓子になりました。
今回は、住吉公園にある「まきいし」をイメージし、形もゴツゴツと石を思わせるように仕上げてあります。

チョコが大好きな私、だから名前もChocoなのですが、商品を食べながら、チョコレートのことをお話してくれたのは、パティシエ(菓子職人)でもあり、ショコラティエ(チョコレート職人)でもある作り手、木村さんです。お客さんの気分に合ったチョコレートを選ぶことができるチョコレートのプロです。ケーキも濃厚で美味しかったです。
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10 高島屋製菓店「がんづき(白)・がんづき(黒)」
石巻市旭町にある店舗は、津波により製造機械類、冷凍冷蔵庫、店舗用冷蔵ケース等は全て使用不能となりました。店舗は手作業で洗浄、工場は専門業者に依頼して復旧し、震災から5カ月後には営業を再開することができました。

「がんづき(黒)」
「がんづき(白)」
原料は砂糖、粉、塩、水等天然物のみで作られています。クルミは会津の和ぐるみを使用しています。黒いがんづきは、玉砂糖を使用しています。
先代から引き継いだ製法を変えずに作り続けているため、昔ながらのなつかしい味です。
「先代が記録していた資料は全て津波でなくなりました。それでも先代が作り続けている想いをこれからも守り続けたい」

私が今まで食べていた「がんづき」とは全く違う食感でした。
今までの「がんづき」は、スポンジのようなふわふわ食感でしたが、石巻地域では、もちもちとしていて、まるでお餅のような食感でした。石巻での「がんづき」を食べると、その地の歴史を感じられますね。

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11 ひたかみ園「メキチョコ」
震災による直接的な被害はなかったものの、震災を受け、新たに働きたいと願う方々の想いに応えるために製造所を開設しました。そして、新たな商品作りにに向けて取り組みが始まりました。そして、そこで完成した商品などを販売するお店、
はじめの一歩千石町のコンテナショップ&カフェ 市Ichi」
町の小さなお菓子屋さん 輪RIN」
の2店舗を開店しました。

「メキチョコ」
メキシコとチョコレートが関係してあるお菓子です。
日本人として初めてチョコレートを味わったとされる支倉常長をイメージして作られました。当時、メキシコではホットチョコレートを飲むのが習慣とされていたため、支倉はそれを供されたという説を踏まえて、「メキチョコ」も温めて食べます。
ひたかみ園で収穫したじゃがいもを主原料にした生地でチョコレートクリームを包んだ1品です。餡頭と大福を合わせたような食感が特徴です。

じゃがいもとチョコレート?!!とても斬新なスイーツでした。
今回のテーマである「メキシコ」と伝統菓子の食感を合わさった1品、今まで食べたことのないスイーツですが、結構クセになる味でした。
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12 風月堂「サンファンバウンティスタ号の里・茶きん」
店舗は陸前山下駅にあります。
津波は、海からは約3km離れている店舗まで押し寄せてきました。
被災した店内の店舗内の冷蔵・冷凍ケース、包装機械・備品などを全て入れ替えて、営業を再開しました。店舗の改装など、修復作業を今も少しずつ行っています。
今回出展したのは2点です。

「サンファンバウンティスタ号の里」
西洋のお菓子で、チュイールと呼ばれ、日本風にいうと「瓦(かわら)」を意味します。
瓦を意味しますが、実際はとてもデリケートで薄く伸ばしてある焼き菓子です。
今年の広島市で開催された菓子全国博覧会で「厚生労働大臣賞」を受賞したお菓子です。


「茶きん」
石巻のかくれた伝統的和菓子の茶きんは、布で餡や金時餡を包んで取り出した品ですが、粉、水、砂糖で練り、薄く焼き、風呂敷に包む方法で伝えられているそうです。
通常、朝生と言われ、その日の朝作り、その日のうちに食べるのが一番おいしい食べ方です。

ごまのチュイールは、日本と西洋が融合した味でした。サクサクっと軽い口当たりがとてもおいしかったです。そして、茶きんも伝統的和菓子は現代の中でも愛される味、なぜかホッとできる味ですよね。石巻のかくれた伝統和菓子は、是非食べてほしいです!!

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13 富士製菓舗「茶巾」
えくれーると隣接している富士製菓舗は、3mの高さの津波が工場内を突き抜けました。その後、復旧作業を進め、5カ月後には営業を再開し、学校給食のご飯の生産が再開されました。

今回出展したのは、石巻の伝統菓子です。
「茶巾」
昔から各家庭で小麦粉を水に敷いて、フライパンで焼き、その上にあんこを載せて包んで食べていたお菓子です。昭和20年くらいから菓子店で販売するようになったそうです。
作り手は70代のベテラン和菓子職人です。震災で廃業した菓子店で働いていた職人が、富士製菓舗で働くようになり、販売が始まりました。
「茶巾はこの地域の食文化でもあるから、伝統を守り続けたいと思っている」
地元の文化への想いがたくさん詰まった商品です。


「これを作っている職人は、毎日早朝に来て、まだ日が昇らないうちから茶巾を作り始めるんです」と、今回お店の代表で来ていた方が教えてくれました。
職人魂を感じますよね。
茶巾は、今回始めた食べました。素朴でどこかホッする味でした。
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14 平和堂「貝最中(白餡:ホタテ)・貝最中(小豆粒餡:ハマグリ)」
震災前、販売店は石巻市の街中、中央2丁目にありましたが、津波で1階の天井まで浸水し、全壊しました。現在は、工場の玄関を使い販売されています。
震災から半年後の9月に注文の多かった貝最中から生産を再開しました。
現在は、和菓子、クッキーなど10種類を生産、震災前の4分の1程度の生産量で、本格的な稼働の見通しはまだ立っていません。

「貝最中」
国産の小豆にこだわり豆から煮ています。
水産の町であることから最中の形はホタテの形とハマグリの形になっています。
昭和23年に創業している老舗で、この貝最中は、昭和20年代に作り始めた菓子です。石巻が水産の街であることから、貝を形取った最中を考えたそうです。
ちなみに貝最中は、全国菓子博覧会において過去に数回、大臣賞等を受賞している全国でも愛されている商品です。

和菓子と言えば、最中。普通の最中と形が違います。初めて見る貝の形の最中は、沿岸ならではでした。定番は丸い形ですが、こういうところにも職人の遊び心が見えます。古き良き和菓子だけれど、どこか可愛らしい素敵な最中でした。丁寧に煮詰めた餡は、とても上品な味わいでした。

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15 萬楽堂「黄金ごまゆうべし・プチかぼちゃ」
津波の被害で立町にあった店舗および工場は全壊し、解体されました。
震災後は、風月堂さんの工場を借りて営業再開し、プレハブの工場を立町に建設しました。販売店を8カ月後の12月に立町ふれあい商店街」に出店しました。
今回の出展は2品です。

「黄金ごまゆうべし」
昔からの味を引き継いだ、ごまたっぷりのゆうべしは、甘すぎず、柔らかいのが特徴です。全国菓子博覧会で何度か受賞し、今年は全菓博栄誉大賞を受賞しています。


「プチかぼちゃ」
メキシコをイメージして、トウモロコシやかぼちゃを使用しているマドレーヌです。

「昔からの味を守りながら、新しい取り組みにもチャレンジしていきたい」
と、作り手の高橋さんはお話してくれました。

ごまのゆうべしは、全国菓子博覧会でも何度も受賞しているもので、とてもシンプルな味わいでした。
「Simple is the best!!」という言葉がありますが、素朴な味がとてもホッとしました。
かぼちゃのマドレーヌも程よい甘さで、とてもおいしかったです。かぼちゃの種入りお菓子・・・大好きなんです。秋を感じさせてくれる商品でした。

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それぞれ、営業当初から愛されているお菓子、今回のテーマに合わせて作ったお菓子・・・
職人の思い入れがある商品が並びました。
私たちが普段口にしているお菓子を作る職人さんたちの想いをほんの少しですが、紹介しました。
ここには、お菓子で地元を盛り上げようと毎日厨房に立ちお菓子に息を吹き込んでいる人たちがいます。
「お菓子は別腹よね」って、喜んで食べている私たち、
そのお菓子にはお菓子職人の愛情が込められています。

「地区の人口減少に歯止めがきかず、苦戦する毎日が続いています」
出展者の方が漏らした声です。
これは、菓子職人だけでなく、多くの人たちが抱える問題の1つです。
多くの人々は「地元」から離れ、仮設住宅に移り住んで生活をしています。あるいは、他県へ引っ越す人たちもいます。
元住んでいた地区に戻ることができている人はごくわずかです。
半島の方へ行くと未だに移転先が決まらず苦戦している人々がまだまだたくさんいるのです。
人が離れていく地域の中にも地元に留まり、「復興させる!!」と活動している人がたくさんいます。
今回出会ったお菓子職人の皆さんも、食べてくれる人々が喜ぶ笑顔がみたいからという想いで工場に立っています。
そして、その姿から地元への愛を感じました。


人を幸せにしてくれるお仕事、お菓子職人。
これからも人々に笑顔を広げられるように、
石巻を盛り上げるために、おいしいお菓子を作り続けます!!!


石巻にいらした際は、海産物に寄ってから、
お菓子屋さんに立ち寄ってみてください。
長旅の疲れを癒してくれる愛情こもった石巻のスイーツがきっと見つかるはずです。


今回イベントの写真を提供してくださった宮城県東部地方振興事務所の内海章さん、
ありがとうございました。内海(uchi)さんのブログ→http://blog.goo.ne.jp/et-sinbk2

(平成25年10月10日)

「被災地に希望を 仙台在住イラストレータ8人展」(東京都港区)

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こんにちは エムです。

東日本大震災から2年8カ月が過ぎた今、被災地の様子を伝える報道はすっかり減っています。
この頃は仙台市に住む私たちでさえ、震災前となんら変わらない生活を送っているように感じてしまいがちです。

しかし、いまだに「仮設住宅」「みなし仮設住宅」「借り上げ住宅」にはたくさんの方々が住み、“ふるさと”から遠く離れたまま帰れない人もいます。その“ふるさと”の中には復興にはほど遠い場所も数多く残されています。
震災から立ち直れずに辛い気持ちで日々を過ごしている方や、不便な生活を送っている方がいるのです。


そんな中、被災地である仙台から希望のメッセージを届ける事で「震災を風化させず、あらためて震災の事を考えていきましょう」そして、「震災を乗り越えて前向きに生きていきましょう」という地元に向けたメッセージを込めて、仙台在住の8人のイラストレーターが東京・港区のギャラリーで作品展を開いています。タイトルは

「仙台八福箱展」



それぞれのイラスト作品の他、地元仙台の「仙台初売り」で使われる「茶箱」に、“自分にとっての福”を詰めた茶箱を展示しています。

「仙台初売り」は江戸時代より続く仙台の伝統行事で、それぞれの商店街で豪華な景品をつけた、お買い得な福袋の販売をしています。「一年の運だめし」の意味もあり、早朝からたくさんのお客様が並ぶ風景は、お正月の恒例になっています。
中でも老舗の茶舗の大きな「茶箱」は有名で、現在でも「茶箱」を目当てに何時間も前から並ぶ人もいるほどです。

その「茶箱」には、それぞれどんな“福”や“メッセージ”が入っているのでしょうか。
本人のコメントと共に少しご紹介したいと思います。


本郷けい子さん
震災以来、人の幸福とは何だろうと本気で考えました。毎日生きていけること、生きていることに感謝して1日1日を大事にしなければと思います。普通に過ごせるということの幸せを実感し、新しい年も元気で過ごしましょうという思いで制作しました。

仙台の縁起物を楽しく見ていただきたいと思い「仙台だるま」
「仙台おさんぽかるた」「もち花」をモチーフにして制作しました。



佐藤勝則さん
3.11東日本大震災の後に感じた、当たり前の生活の中に「幸福」があることを作品にしました。

「招福」


佐々木洋子さん
茶箱には初売りの縁起物を意識して”干支+福”を私らしく表現しました。
大好きな街である仙台、ホリデーシーズンに向けてのハッピーをお届けしたい。




永峰祐子さん
「仙台から福を届ける」が今回の展示のテーマだったので”仙台”を意識したモチーフをちりばめ、ビビットな色彩で明るく元気な気持ちになれる作品を心掛け制作しました。

「八福ふくろ」
七夕飾りの巾着は商売繁盛という意味合いで飾られているそうです。
それにちなんで”仙台名物”を刺しゅうした八つの巾着袋を制作。
それぞれの福と経済復興の願いを込めて。
「杜のFantasia」
震災で暗く沈んだ気持ちに全国からの支援で灯ったキラキラ輝くページェントは
大きな希望と夢を与え復興への光を見せてくれました。今年も開催される事に感謝し
それぞれのストーリーの中で前向きに生きる人々を描いてみました。


叶悦子さん
自分の家族も、全ての人も皆、いろいろな「福幸(ふっこう)」がありますように、そんな想いを作品に込めました。

「福幸叶」(右端の作品)
震災後の自分を支えてくれた大きなものは「家族」でした。
震災のひと月後に生まれ日々成長している甥っ子を中心に家族の初詣を描きました。
上空にいる、東北の皆に希望と元気を与えてくれた楽天のシンボル
“イヌワシ君”がくわえている旗にも注目。
楽天の勝利の風船や、応援用バットにペイントをしたものなど「楽天」に関する
作品を中心に、自分のまわりにある元気な人の絵、ものを集めて入れました。


さとうあけみ さん
「癒し」「希望」「願い」の象徴としての「福」がテーマです。

震災で傷ついた地域ですが、昔から伝わる「福」や「祈りの行事」にのせて
気持ちを明るく前向きにできたらと思いました。
七夕飾りや松川だるまを自分流にアレンジして
くすっと笑えるような、和めるような作品をめざしました。


大日向貴光さん
ティータイムの時の想像したり、ほっとしたりしている状態は、割とみんなポジティブであるのでは……以外と世界共通!?かも……と想い制作しました。

「ティータイム」
「至福のひと時」


栗城みちの さん
「物語」は人間にとって必要なもの。そこにはどんな悲惨な体験も乗り切るヒントがある。そんな気持ちで描いています。

「物語」のさし絵を想定した作品
震災後、本当に自分らしく生きていられる場所について考える事が多くなりました。
今現在、辛い気持ちなら、その気持ちを連れて心安らぐ場所に行こう。
そんなメッセージを込めました。


初日に会場で対応していた本郷さんは、「この展示会は私たち被災者が新しく元気になっていく様子をイメージしていると思います。見てくださった方が、面白いとか温かい気持ちになれたらいいですね」と話しました。

来場者の方々からは、
「8人8様の「福」の表現が面白い」
「東京でも大震災の衝撃は大きかったので痛みも共感できる」
「復興のためにそれぞれができる事で支援していきたい」
などの感想が寄せられました。
モチーフの「お茶箱」に興味を持って観る方が多かったようです。



最後にメンバーからメッセージをいただきました。

「今、それぞれ皆さんが大変な時代だと思います。でも気持ちの中に温かく楽しい『福』の種を持って育てていきましょう。いつかきれいな花が咲きますように!」
〈本郷〉


「被災地仙台のお正月の伝統行事『仙台初売り』の象徴『お茶箱』を通して作家それぞれの『福』を感じていただいて、元気や希望につながれば幸いです」〈佐藤〉

「みなさんのご支援ほんとうにありがとうございます」〈佐々木〉

「これまでの復興支援への感謝と、まだまだ大変な状況にいる方々への応援を引き続きお願いいたします」〈永峰〉

「伊達政宗の詠んだ漢詩に『楽しまずんば、これいかん』とあります。政宗が人生を振り返って、老境を語ったものだそうですね。色々な解釈もあるそうですが、私はこの言葉を『いつでも心楽しく生きて行こう』というように考えて、仙台からのメッセージとしたいと思います。」〈叶〉

「まずは会場にある作品のひとつ『ミニ顔出しパネル』で写真を撮って松島や仙台に行ったつもりになってください。そして次はぜひ、実際に現地においでいただければと思います。」〈さとう〉

「何事も…前向きに…ポジティブで行けば色々と乗り越えられることも増えるのでは…!? いろいろと乗り越えやすくなるのでは…!?」〈大日向〉

「いままでたくさんのご支援、ありがとうございました。感謝しています!」〈栗城〉


「仙台八福展」は11月19日(火)まで開催されています。
“いまの仙台”からの『元気』と『希望』のメッセージをご覧ください。

 ※ 作品の画像は出展メンバーからのご提供です。ご協力ありがとうございました。
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期間/11月12(火)〜11月19日(火)〈17日(日)は CLOSE〉
時間/10:00〜18:00
会場/アトム CS タワー8F ホワイトギャラリー
   東京都港区新橋4-31-5
   電話:03-3437-7750

「仙台八福展」ブログ:http://sendai8fuk.exblog.jp/


(取材日 平成25年11月12日)

週刊ココロプレス第64号

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ココロデスクです。

11月8日にフィリピン中部を直撃した台風30号で被災した方々に心よりお見舞いを申し上げます。

今回の台風は中心気圧が一時895ヘクトパスカルと、今年最も強い勢力の台風でした。
台風はレイテ島やセブ州など日本でもなじみのある多くの地域を襲い、亡くなったり行方不明になったりした方は、最悪の場合1万人にものぼるのではないかと懸念する声もあります。

暴風雨と洪水、土砂崩れなどによって破壊された建物の残骸が広がる姿は、東日本大震災の時とそのまま重なり、あらためて衝撃と悲しみが呼び覚まされる思いです。


それにしても、国内外で大きな自然災害が相次ぎます。
実際に異常な自然現象が増えているのか。
それとも単なる印象なのか。
あるいは、失うものが増えたためなのか。

いずれにしても、「災害は、もはや”非常事態”ではない」という心構えが必要ではないでしょうか。


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■イベント情報 (11月16日~)
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東日本大震災祈念特別展
11月16日~2014年1月13日
東北歴史博物館(多賀城市)
http://www.thm.pref.miyagi.jp/exhibition/detail.php?data_id=499

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山元町ふれあい産業祭(山元町)
11月23日
山元町役場駐車場
http://miyagi-kankou.or.jp/wom/o-10732

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第7回松島大漁かき祭りin磯島
11月23日
松島町磯島・磯崎漁港
http://www.miyagi-kankou.or.jp/wom/o-6975

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志津川湾さけまつり福興市
11月24日
南三陸さんさん商店街特設会場
http://www.miyagi-kankou.or.jp/wom/o-10982

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Go up みやぎ~金華山震災復興支援~
災害復旧宝島ボランティア募集
11月30日~12月1日 1泊2日(日帰りも可)
主催 ファーストアッセントJAPAN
http://first-ascent.org/?cat=24
first.ascent.japan.218@gmail.com

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支援のかたち
被災地でのパートナーシップ
12月11日
せんだいメディアテーク 6fギャラリー4200
仙台市市民活動サポートセンター/せんだいメディアテーク
http://www.smt.jp/thinkingtable2012/?p=4617


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  ■最近のダイジェスト (11月12日~11月18日)
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2013年11月12日火曜日
出会いこそ支援。派遣職員大活躍!(南三陸町)
愛知県豊川市から派遣職員としてやって来られた篠原英明さん。ボランティア仲間からは「永住してくれ~」と言われ、役場の課長さんからは「役場に来てくれたんじゃなくて、南三陸という町に来てくれた人」と言われるほど、地域に溶け込んで活躍しています。

2013年11月13日水曜日
元気になる地域づくりを学ぶ~東日本大震災支援全国ネットワーク 現地会議in宮城~(南三陸町)
復興を成し遂げ活力ある地域づくりを進めていくために、これから必要な支援とはどんなことか? を話し合う「東日本大震災支援全国ネットワーク 現地会議in宮城」が開かれ、近年大災害に見舞われた兵庫、新潟、そして宮城から集まった100人が意見交換をしました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/in.html

2013年11月14日木曜日
秋の風と光の中 野草園で「野染め」(仙台市)
台風が奇跡的に去った10月27日、仙台市野草園で「被災地の子ども達が未来を新しい色で染める──野染めワークショップ──」が開かれました。爽やかな秋晴れの下、集まった全員で木と木の間に大きな布を張り、大きな刷毛をふるって草木の染料を一斉に染めていきました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post.html

2013年11月15日金曜日
助けられる人から助ける人へ~防災士養成研修講座・東北福祉大学(仙台市青葉区)
NPO法人日本防災士機構が認定する「防災士」。有資格者は全国で7万人に達するそうです。東北唯一の防災士養成研修実施法人として防災士養成研修講座を開講してきた東北福祉大学では、今後は年3回、一般の人も受講できる講座を実施する予定です。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_6742.html

2013年11月16日土曜日
ご当地スイーツを石巻に 後編(石巻市)
「いしのまき地域すいーつ」展示発表会の続報です。人口減少に歯止めがきかず苦戦する日々、人々が喜ぶ笑顔が見たい、お菓子で地元を盛り上げたいと毎日厨房に立ちお菓子に息を吹き込んでいるお菓子職人たち。その姿から地元への愛を感じました。石巻にいらしたら、ぜひお菓子屋さんにも立ち寄ってみてください。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_16.html

2013年11月18日月曜日
「被災地に希望を 仙台在住イラストレータ8人展」(東京都港区)
「震災を乗り越えて前向きに生きていきましょう」という地元に向けたメッセージを込めて、仙台在住の8人のイラストレーターが東京・港区のギャラリーで作品展を開きました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/8.html

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■編集後記

11月11日、仙台で初雪が観測されました。
平年よりも13日早かったそうですが、近年はその「平年」が当てになりません。
この数日は寒気もやや緩み、穏やかな陽射しに出会うこともありました。
広瀬川の河原で、ススキが光っていました。





(ココロデスク)

音楽の力、「北上音楽祭」(石巻市北上町)

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こんにちは、Chocoです。
皆さんはどんな音楽を聴きますか。
一言で音楽と言っても、ジャンルはたくさんあります。
クラッシックやジャズ、ロックやヒップホップ、レゲエやボサノバ、シャンソンやフォークソング・・・・

世の中には音楽がまだまだたくさんあります。そしていろんな言語で歌われています。
そこには、聴いている人たちの心をグッとつかむ歌がたくさんあります。
悲しい時に寄り添ってくれる曲、
うれしい時に気持ちを盛り上げてくれる曲、
悩みを吹っ飛ばしてくれる曲、
愛を感じる曲、
頑張ろうと踏ん張れる曲、
音楽にはそんな力があると思います。

そんな音楽の力で皆を元気にしようと活動している人たちがここにはたくさんいます。
ブログでもさまざまな形の音楽イベントを紹介してきました。
今回も私が出会った「音楽の力」を紹介したいと思います。


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「北上音楽祭」
「復興地に音楽を届けたい!」という熱い想いを持ったアーティストが2012年に立ち上げ音楽イベント開催しました。
石巻市をはじめ、女川町や仙台市等で復興支援ライブ等を行っています。
そして、2013年から「北上音楽祭」はイベント名としてだけではなく復興地にさまざまな形で音楽を届ける「アーティスト集団」としての活動も開始しました。
ライブという形だけでなく、使わなくなった楽器、誰かに使ってほしい楽器を集め、被災地へ届けています。

そして、北上音楽祭の皆さんと、東京GAIAボランティアチームの皆さんが開催したのが、「にっこりサンセットライブ」です。
このライブは、1994年から3年間続けて開催されていました。
今回、音楽を愛し、北上町を愛する人々の力で16年ぶりの復活を果たしました。

これを復活させたのが、「北上音楽祭」の皆さんです。
「以前ににっこり団地で『サンセットライブ』が行なわれていたと教えてくださったのは、北上中学校前校長の畠山卓也さんでした」
と話すのは、実行委員長の井戸琇さんです。

※北上中学校前校長の畠山さん
昨年の夏、ブログでも紹介した
石巻市立北上中学校の畠山 卓也 前校長先生は、退職後、浦和学院高等学校で理科の先生として、また、被災地の語り部としても活動されています。
「自分が校長のうちは・・・」とにっこりサンパークの仮設住宅に住む人々のために、体育館を無料開放したり、さまざまなイベントを企画したり、ボランティアの活動場所を提供してくれた方です。

浦和学園での畠山先生のブログ→http://www.uragaku.ac.jp/blog/ishinomaki/2013/09/in.html

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会場準備設営、運営、片付け・・・
全てアーティストである実行委員を中心に行われた音楽祭、
この日のために、全国各地から集まり、会場は朝からにぎわっていました。

もちろん司会進行もアーティストの方たちです。
そして、地元の中学生もお2人の間に挟まれて司会をしています。

司会は、ソーセージのお2人と
地元の中学生 大槻晃弘くん(中央)
ソーセージの2人がライブの準備中には、
大槻くんが1人で会場を盛り上げてくれました。
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そして8組の出演アーティストが会場に集まった人々へすてきな音楽を聴かせてくれました。

シンガーソングライター
木村真紀さん

ピアノの音色と綺麗な歌声で
会場を優しく包み込んでくれました。


ギターとキーボードを奏でる2人のユニット
「トラベリングさん」
青空に2人のハーモニーが響き渡り、
聴いている人たちも微笑みながら聞き入っていました。

メンバー4名のバンド
「ZyLBa(ジルバ)さん」
大人の雰囲気を醸し出しながらもさわやかに歌い、
会場をリラックスさせてくれました。
シンガーソングライター
さとうみかほさん」
ギターを片手に優しい温かな歌声は、
心がリフレッシュしたような感じになりました。

シンガーソングライター
森圭一郎さん」
10代で車いすの生活を余儀なくされた森さんは「生きること」を音楽で伝えている人です。
魂が込められた力強さの中にも優しさを感じる歌声でした。


地元のアーティスト
横山摩宗一さん&渋谷修治さん
今年の夏には、ハンガリーやフィンランドでもライブを行ないました。
音楽を通して、石巻から世界へ「熱い想い」を発信しています。

愛を届けようと結成されたボランティアバンド
Heart to Heartさん」
思わず口ずさんでしまう、懐かしい曲を歌って、会場を盛り上げてくれました。
2人の息の合ったハーモニーはとても素敵でした。

会場を沸かせるロックンローラーのお2人
ソーセージさん」
元気を与えてくれる音楽と、みんなを笑顔にしてくれるトークをするお2人は
最初から最後までハイテンションで会場を盛り上げてくれました。
最後に出演者全員で「上を向いて歩こう」を歌いました。
夕日が沈み始めているまで北上町には音楽が響き渡りました。


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震災後、メディアで被災地の状況を目にした、たくさんの人々が日本だけでなく世界各地から集まり瓦礫撤去やヘドロ出しが行われました。

その年の5月、音楽祭の実行委員長でもある井戸さんも石巻でボランティア活動を行いました。
3週間の作業を終え、
「次に何ができるのか」
自身に問いかけ続けたと言います。

瓦礫撤去も一段落し、これから先、何で寄り添うことができるか・・・。
井戸さんが考えたように、ボランティアをする多くの人々がそう考えました。

「音楽しかない!!!!」

「音楽には不思議な力があります。ホッとしたり、温かい気持ちになったり、涙を流して心が軽くなったり・・・」
これまで音楽に関わりがあった井戸さんは、そこで得た想いを被災地で伝えたいという気持ちで音楽祭を企画しました。

その想いから半年後に音楽祭が開催されたのです。

「本当に喜んでもらえるのか・・・という不安もあった」
しかし、ライブ当日、
立ち上がり、拳をあげる地元の人の姿をみて、その思いは一瞬で払拭されたそうです。


「ライブを通じて被災された方の魂に訴えかける力が音楽にある」
と信じていたそうです。
「それが明日への活力になったり、未だ先の見えない中で何かのきっかけになってもらえば」
と思う井戸さんは、ライブに来た人たちの笑顔や
「また来てね」「楽しかった」
そんな言葉に支えられていると言います。

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その後、昨年の4月からは、3カ月おきに被災とを訪れ音楽を通してのボランティア活動が行われ、現在も進行中です。


「音楽の力を東北に!!」
北上音楽祭 井戸雀琇(ゆうしゅう)さん

「震災の記憶が薄れていっているのは事実かもしれないが、
未だ心を寄せている人も大勢いるのも事実。
東北で待ってくれている人がいます。
東北へ行く自分たちを支えてくれている人がいます。
そんな多くの人がいるからこその「北上音楽祭」だと思います。
そして、その想いを少しでもつなげていくことができたら幸いです」

今回の音楽イベント「にっこりサンセットライブ」を終えて・・・
「北上音楽祭のオムニバスCDの発売もありますが、このライブの復活にはとても多くの方の協力で開催することができました。東北以外の地からも多くの方が足を運んでくださいました。
また、出演者、出店者、お客さん、誰1人として欠かすことのできなかったイベントでした。
にっこり団地にお住まいの方たちに楽しんでいただけたのはとても喜ばしいことです。
今後また、このイベントを開催し、『にっこり団地発信』の大きな催しにして行きたいと思います」

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音楽で生まれる熱い絆は、ここにもありました。
音楽の力を信じて、何度も何度も被災地に足を運んでいるアーティストの皆さん。
地元の皆を盛り上げるために、また、日本中や海外へ感謝の想いを歌い続ける地元のアーティストの皆さん。
そして、その想いの詰まった音楽を聴きに来ていた皆さん。

たくさんの人々がつながって、音楽を通して心を通わせていた、とても素敵な音楽祭でした。

(取材日 平成25年10月31日)

第2回 大人の科学教室開催(気仙沼市田中前)

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こんにちは。kaiiです。

東日本大震災から間もなく1000日を迎えます。この間、福島第一原子力発電所事故は国の内外で大きなニュースとして取り上げられてきました。
平成25年11月18日から4号機の使用済み核燃料の取り出し作業が始まり、これからも廃炉に向けての作業が続いていきます。福島第一原子力発電所の廃炉まで40年とも言われています。
40年以上の年月がかかる福島原子力発電所の廃炉作業の終了を、生きて見とどけたいと思っています。

原発事故後、たくさんの科学の言葉に出会いました。その中には、よく分からない言葉や内容がたくさんあります。こうしてついつい分からないと遠ざけている科学のお話を、分かりやすく教えてくれる教室が気仙沼で開かれます。

今回は「原子・分子の世界」から一歩進んで「自由電子が見えたなら」というお話です。
講師は「気仙沼わくわく科学クラブ」の山岸有さんです。
仮説を立てて、実験をして検証していく楽しい教室です。ぜひご参加ください。

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第2回 大人の科学教室
    ~サイエンスカフェ・気仙沼~
若い頃を思い出して科学の不思議を楽しみませんか?

日時:平成25年11月23日(土)午後6時30分~午後8時30分
                  受付開始 午後6時15分より
場所:気仙沼中央公民館 条南分館 
    気仙沼市田中前4-8
内容:自由電子が見えたなら
対象:大人(中学生以上)中高生は保護者の送迎が必要です
材料費:1人1500円
定員:20人 (定員になり次第締め切り)

問い合わせ・申し込み先:一般社団法人サイエンスキャラバン科学教育実践研究会

              電話・FAX 050-7504-0265(*電話での対応は原則として留守番電話になります)                  メールinfo@sc-pise.jp
                             リンク先http://sc-pise.jp




今回講師を務める、気仙沼わくわく科学クラブ代表の山岸有さんは、「科学とは、どういうものなのか」 ということを体験できる授業の普及を目的に、「わくわく科学教室」を開催しています。山岸さんは科学的なものの見方、考え方を広める活動をしています。


(取材日 平成25年11月21日)

ひとつになったふたりの「未来道」(南三陸町歌津)

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石野葉穂香です。

南三陸町の名足漁港を見下ろす小高い場所に、海明かりをいっぱいに浴びた3台のトレーラーハウスが並んでいます。
車体の横には「カフェかなっぺ」の看板。
そう。ここは、今年(20137月にオープンしたイタリアンカフェの店舗でもあります。

名足漁港や名足小学校ののすぐそばです
11月半ば、お店におじゃましました。気温18度。よく晴れた、小春日和のお昼でした。

お店を切り盛りするのは、千葉馨さんと嘉苗さんご夫妻。
ご主人の馨さんはもともと歌津の方ですが、奥さんの嘉苗さんは横浜のご出身。
入籍は、昨年2012年の11月でしたが、今年4月、ふたりは、地元で「未来道」と呼ばれる砂利敷きの道に布を延べて設えたバージンロードを歩いて結婚式を挙げました。

アーチやバージンロードは
地元の人たちやボランティア仲間が用意してくれたもの

空と海の青色の中で愛を誓いました

地元の人たちは普段着で参列。
あたたかな〝地域手づくりの結婚式〟でした

「未来道」とは、震災直後、道が崩落して孤立した歌津・馬場中山地区の住民たちがボランティアたちとともに農道を広げて造った延長約1.5㎞の避難道路のこと。今はもう使われていませんが、〝地区の未来を拓いた道〟として「未来道」と名付けられたのです。


工事中の「未来道」

おふたりの出会いは2年前、20118月――。
嘉苗さんは、震災直後の4月にはもう歌津入りし、名足保育所で炊き出しボランティアを行っていました。その後も会社の有給休暇を使って歌津へ通い、8月には草刈りボランティアにやってきました。

嘉苗さんは、妹さんとふたりで海辺でキャンプしながら草刈りを手伝うつもりでしたが、ふたりのテントを見つけた地元の漁師さんが「いやいや、ちゃんと屋根のあるところを紹介すっから」と連れて行ってくれたのが馬場中山地区の生活センター。そこでお世話役をしていたのが馨さんでした。

馨さんは、家業の水産加工会社に勤めていましたが、会社は津波でダメージを受けて休業に。その後、地域の情報を発信するウェブサイトを立ち上げたり、支援に来た人たちの受付や、支援物資の管理などを担当していました。
「いわば地区の渉外担当。生活センターは避難所としては7月に閉鎖したのですが、その後もボランティアなどにやってくる人たちの窓口になっていました」

生活センターの前庭から見た、震災直後の馬場中山地区

嘉苗さんは、草刈りが終わったあとも月イチペースで歌津に通い続け、馬場中山地区の人たちと親しくなり、やがて歌津へ移り住むことを決意。
そして20128月、横浜の会社を辞めて、歌津へやって来たのでした。
「都会育ちの彼女ですが、南三陸の空気がすごく肌に合ったみたいです。ここに来ると、とにかくよく眠れるって(笑)。海の朝日、波の音、地区の人たち、全部ひっくるめて大好きになってくれたみたいです」

トレーラーハウスが設置される丘を重機で整地

嘉苗さんにはプランがありました。
調理師の免許を持ち、横浜ではイタリア料理店の経営責任者を任されていたことのある嘉苗さん。
「トレーラーハウスを使って、歌津で飲食店を開きたい――」
嘉苗さんの夢が、歌津という新しいステージで動き始めます。

嘉苗さんは、馨さんのお母さんともすでに仲良しでした。「じゃあ、住むところが決まるまでウチに来れば」と馨さんに誘われて、嘉苗さんは千葉家の居候に――。

そして9月、嘉苗さんはトレーラーハウスの貸出しで南三陸町を支援してくれていた茨城県の会社を訪ねます。馨さんも同行したのですが、そのとき、宿泊もできるトレーラーハウスを見て、馨さんも気持ちが揺さぶられたのでした。

4月3日、中山漁港にトレーラーハウスが陸揚げされました!

「ボランティアの仕事が減って、南三陸へ来てくれる人の数も減り始めていました。多くの人と出会えたというその関係を長く続けるには、被災地にまた来られる〝口実〟が必要です。だったら宿泊施設があれば、今後も気軽に再訪してくれるようになるかもしれないと思ったんです

 会社が流され、自宅も二階まで津波に襲われた馨さん。助かった命を皆のために使いたい――。その思いが嘉苗さんのプランと重なりました。
 
茨城県からの帰路、馨さんは嘉苗さんに交際を申し込み、そして間もなくプロポーズ。
「出会ったときは結婚するとまでは思っていませんでした(笑)。でも、馬場中山での僕の活動も理解してくれていましたし、価値観も近い。女性として、そしてパートナーとして、とても大切に思えたのです」

7月27日、雨が降ったり止んだりのあいにくの天気でしたが
「カフェかなっぺ」は開業しました

春の結婚式から3カ月後の727日、「カフェかなっぺ」はオープン。
「南三陸になかった味」と、嘉苗さんの本格イタリアンは評判を呼び、地域のお年寄りもやって来ます。パスタやハンバーグ、そしてスムージーやケーキなど、手作りのおもてなしが好評です。
「小松菜ときのこのペペロンチーノ」
今後は地元の魚介類などを使ったメニューも
増やしていきたいとのこと

 カフェと隣接して、馨さんの夢である宿泊できるトレーラーハウスもありますが、現在はまだ許可申請中とのこと。
「地区に人がやって来るという流れを断ち切りたくない。南三陸に活気を呼び込むことができる、そんな存在感ある場所になれたらって思います」


前庭からは、嘉苗さんが大好きな、馨さんのふるさとの海が青々と見晴らせます。

ふたりで歩いた「未来道」――。
ふたつの夢が今、ひとつになって、海明かりにキラキラと輝いています。

千葉馨さん(左)と嘉苗さん。
右の方は「TSUNAGARI」(一般社団法人震災復興支援協会 つながり魚竜)の石田寛道さん。
「TSUNAGARI」については「長須賀海岸海水浴場復活大作戦!」
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/07/blog-post_12.htmlなどを参照

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「カフェかなっぺ」

所  在 地 宮城県本吉郡南三陸町歌津中山2-1
電    話 090-1069-4870
営業時間 8:00~17:00 (ラストオーダーは16:00)
        ※予約の場合は平日夜でも20:00まで営業。当日の16:00までに連絡を。
定  休 日 毎週火曜日

馬場中山カオル商店 http://www.chibakaoru.jp/

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(取材日 平成25年11月18日)

第28回リアス牡蠣まつり唐桑開催!~感謝祭&復興の海原へヨーソロー~(気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。

秋の深まりとともに鍋もののおいしい時期になりました。


気仙沼市の東部にある唐桑町の養殖カキも旬を迎えました。


11月17日、カキの即売イベント「第28回リアス牡蠣まつり唐桑~感謝祭&復興の海原へヨーソロー~」が、唐桑小学校の校庭を会場に開かれました。
「ヨーソロー」は航海用語で「前進」を意味する言葉です。復興へ前進するという意味が込められています。


17日の唐桑町の天気は晴れで、気温も高く絶好の行楽日和。他県や他市からも多くの観光客が新鮮なカキを求めて唐桑町の会場を訪れました。午前10時の販売開始前には販売ブースの前に長蛇の列ができました。


大人気のカキの即売所


1.5トン準備された唐桑産の養殖カキは、直前の検査で気仙沼湾の検体からノロウィルスが検出されたため加熱用として販売されたものの、例年通り大人気でした。

気仙沼市内から多くの店が出店しました

22店の各販売ブースにも多くのお客さんが列を作りました。唐桑の地場産品や地元の料理を販売するブース前には、次々と「完売」の札が出されるなど大盛況でした。



会場は多くの人で大賑わいでした
気仙沼市内から訪れたという50代の女性は、「初めて来ましたがこんなに人が来ていることに驚きました。カキは残念ながら買えませんでしたが、最近販売開始を知った『ホヤぼーや最中』を買うことができました。本吉町の地場産品も買えたのがとてもうれしかったです。来年もまた来ます」と笑顔で話しました。

気仙沼市本吉町の菓子店が販売している
気仙沼のゆるキャラ「ホヤぼーや」の最中


会場の特設ステージでは地元の郷土芸能も披露されました。

ステージでは郷土芸能「鮪立(しびたち)大漁唄込」も披露されました

「復興の海原へヨーソロー」。
復興へ前進する唐桑の人たちの姿がありました。

(取材日 平成25年11月17日)

「町の魅力でまちおこし~亘理山元まちおこし振興会」(山元町)

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こんにちは エムです。

一瞬で甚大な被害をもたらした東日本大震災。
その直後から国内のみならず海外からもたくさんの支援をいただき、復興につなげてきました。
また、現在では「自分たちの町は自分たちの手で」という気持ちで活動を始めている方々もあり、その傷跡は少しづつ修復されつつあります。

しかし一方で、今なお深まりつつある傷跡もあります。
「人口の減少」「伝承文化の喪失」「文化活動の減少」などが挙げられますが、「心の問題」を抱えて“ひきこもり”になってしまう人も多いと聞きます。


歴史あるたたずまいのご自宅

亘理郡山元町で、そんな問題に歯止めをかけ、なんとか町を活性化したいと尽力しているNPO団体「亘理山元まちおこし振興会」の理事長を務める千石信夫さんを取材させていただきました。

釘を使わない古来の建築方法は残すべき財産です

「亘理山元まちおこし振興会」の連絡先である千石さんのご自宅を訪ねると、まず黒くて大きな梁(はり)に目を奪われます。一目で古い歴史のある建物と分かるりました。
天井は高く、天窓からは柔らかな秋の陽が差し込み、現代と古いものが調和した内装。それがなぜかとても落ち着く、そして同時に懐かしさを感じるお宅でした。
お聞きすると、築150年は経っているとのこと。
千石さんは「古民家」を残す活動もしているそうですが、このご自宅もその一環ではないかと思われました。

千石さんからは、「残そうと思って解体し、現在保管してあるのは築200年近く経っている古民家ですよ」というお返事。

震災の津波によって山元町の沿岸部の多くの民家が流されました。今となっては知る由もありませんが、その中には歴史的に価値のある古民家もあったのではと推測されます。今回のような災害などによる文化の喪失を防ぐには、守っていく努力が必要になってきます。


高速道路計画の真ん中にあった築(約)200年の古民家。
現在は解体後保管され復元を待っています(画像提供:千石さん)

平成21年9月に設立した「亘理山元まちおこし振興会」は震災前から“山元町のまちおこし”を考えて活動してきました。
現在でも『文化・スポーツ振興事業』『特産品・ブランド研究開発事業』『人材活用支援事業』など多方面に渡る活動を、復興を願う各方面の方々との協力の元、活発に行っているそうです。


古民家の内部(画像提供:千石さん)
「古民家保存活動」『文化・スポーツ振興事業』の中の1つ。
一級建築士 安井妙子さんの協力で解体され保管してある「古民家」ですが、なんとか復元し、山元町の何らかの施設に再利用できないだろうかと各方面に提案しています。
千石さんは、「古民家は町の文化財産なのです。古民家を活用した施設は、必ず将来の山元町の文化や教育にとって有益なものになるはずです」と語りました。

また地元の歴史にも注目した『文化振興事業』も展開しています。
地元歴史の第一人者である菊池文武さんによると、平安の昔、山元町とその近辺で鉄を生産していたという、いままで知られていなかった史実がありました。
古代において鉄生産地としては鳥取に次ぐ中心地だったらしいのです。
こうした興味深いテーマで、菊池さんによるシンポジウムが今まで5回開催されました。
「復興を願っての活動のひとつ、“地域資源を活かしたまちおこし”につながれば」と菊池さんは自身の著『山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語』でそう結んでいます。

「古代における山元町の鉄生産の歴史シンポジウム」
(画像提供:千石さん)

『文化・スポーツ振興事業』では他にも、「亘理山元まちおこし振興会」主催による無料のコンサートが今年も何度か開かれました。
被災者の方のためにと開催されたクラシックコンサートは、皆さんに心休まる時間を提供してます。

桐朋音楽学園の子ども達によるクラシックコンサート


ソプラノ歌手とピアノ奏者によるクラシックコンサート


『特産品・ブランド研究開発事業』では農業の活性化のために、新しい特産物の開発に着手しているそうです。まだ発表できる段階ではないそうですので、その時まで楽しみにお待ちしようと思います。
その他、新たに“ワイナリー”を作ってはどうかとの提案がなされているそうですが、どちらもこれからが楽しみな企画です。


また『人材活用支援事業』として、仮設住宅に住む方々を対象にした“農業体験”を今年4月から行っています。

仮設住宅に住む皆さんの農作業(画像提供:千石さん)

他にも、シルバー人材センターの無かった山元町で希望者を募り“シルバー人材活動”を始めました。現在登録がある約40名の方に草刈りや庭仕事など、必要に応じた作業をしてもらうことにより、引きこもり防止につなげる活動も行っています。

シルバー人材活動(画像提供:千石さん)

それにしても「亘理山元まちおこし振興会」の活動はまるでもう1つの“町政”のように感じました。ここまで町のことを考えて活動なさっているのはどうしてなのでしょうか。

「町は復興で手一杯なので、われわれが動いているだけなんです」と、あくまでも謙虚な千石さん。
「山元町は震災後、人口が約3000人減っています。私たちはなんとか町を活性化したい有志の集まりですが、行政と連携しつつも地域自治による住民主導のまちおこしが必要と考えています」
「活性化するには、山元町を魅力ある町にするのが一番なのです。リンゴやイチゴを買いに来てくれた人が立ち寄れる文化施設があったり、歴史的なアプローチから山元町を紹介することで観光・交流人が増える。
そして“特産物”などがあれば農業や産業も元気になる。“魅力ある山元町”が活性化につながると思っています」


「古い家のない町は思い出の無い人間と同じである」
大好きな東山魁夷 氏の言葉  と千石信夫さん。愛犬“梅丸”と。

なるほど、「亘理山元まちおこし振興会」は地元を愛する心強い方々が集まっているのですね。そんな人材を育む“山元町”には確かにたくさんの魅力があり、しかもまだ眠っているものもあるようです。
震災は多くのものを奪い去りましたが、千石さんたちのような、地元で頑張ろうと思う人を増やしたのかもしれません。

山元町の今後をこれからも取材させていただこうと思っています。

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「古民家解体調査報告会」のお知らせ

日 時/平成25年11月30日 13:30~15:00
場 所/山元町中央公民館 会議室
   (山元町浅生原日向12-1)
講 師/阿部和建築文化研究主幹研究員 安井妙子 氏
参加費/無料

詳しくは「亘理山元振興会ホームページ」内のブログを参照ください。
http://www.watari-yamamoto.com/


(取材日 平成25年11月15日)

高品質の地場産缶詰で地域活性を目指す~株式会社木の屋石巻水産(美里町・石巻市)

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YUUです。

宮城県遠田郡美里町(みさとまち)は、2006年に同じ遠田郡の小牛田町と南郷町が合併して誕生しました。

その名にふさわしく、どこまでも広がっているような田園風景が続く道を隣接する石巻市方面から進むと、道路沿いから少し奥まった場所に、流線形の外観が目を引く、新築らしい建物がありました。

缶詰製造ライン、缶詰を100万個以上保管するための倉庫が備わった新工場
株式会社木の屋石巻水産 美里町工場

上の写真の建物は、石巻市に本社がある水産加工業、株式会社木の屋石巻水産の美里町工場です。今年(2013年)3月に完成、6月から本格的に稼働を開始しました。

この外観は、鯨をイメージしたそうです。

木の屋石巻水産の鯨の大和煮7号缶。現在では見掛けることが少なくなった
果実7号缶の中には、鯨本来の旨みを活かした大和煮がたっぷり

木の屋石巻水産といえば鯨の缶詰。
石巻市民、周辺の自治体に暮らす人々、そして木の屋の缶詰のファンにとってはお馴染みの「石水」マークの入った赤い図柄。
この缶詰の図柄をペイントして広告塔にしていた大型魚油タンクが津波で流されて、被災を象徴するモニュメントとして度々、報道されたのをご存じの方も多いのではないでしょうか。

「タンクそのものは50年前からあったものなんです。2006年から、缶詰の図柄を描いて広告看板のように使用していました」

こう話してくれたのは、株式会社木の屋石巻水産の木村長努(ながと)社長。

同社は、3.11の東日本大震災により石巻市の製造工場、事務所、そして木村社長の自宅も津波で全壊してしまいました。

生産拠点を復旧するに当たり、工場の移転、新築に木村社長は頭を悩ませました。内陸部に移れば津波のリスクは少ないが、新鮮な魚をすぐ加工できるというメリットは減る。最終的に役割分担による工場の分散化を決断し、缶詰製造ラインを有する新工場が美里町に誕生しました。


石巻市魚町(さかなまち)の株式会社木の屋石巻水産本社工場
魚の選別、冷凍などを行っています
津波で全壊した工場は今年、2月13日に稼働再開しましたが
現在も一部復旧工事が続いています


木の屋石巻水産は昭和32年創業。石巻市で50年以上続いてきた会社です。

「創業時は鯨の缶詰を作れば、売れる時代だったと聞いています。その後、200海里や捕鯨規制などの問題が発生して経営環境が苦しくなりました」

さまざまな外的要因により捕鯨環境が一変し、鯨の商品が作れなくなる時代が到来し、木の屋石巻水産でも、鯨以外の商品の開発、販売にシフトせざるを得ませんでした。その後、調査捕鯨などにより、再び鯨が水揚げされるようになりましたが、その頃すでに、鯨を扱う水産加工業者は、同社の他には全国でも大手3社ぐらいになっていたそうです。

現在、鯨の缶詰は、調査捕鯨による冷凍保存のものを年間を通じて使用しているので、商品は通年出荷が可能です。
震災以前は、春は小女子、いさだ。夏はいわし。秋はさんま、さばなど、40種類もの旬の地場産品を素材とした缶詰を製造していました。


美里町工場内に設置されている見学者用の販売スペース

「鯨の缶詰だけを主力に作っていればいいという時代が過ぎ、経営的にもいろいろ大変な思いをして、石巻に水揚げされる新鮮な魚を当社独自のフレッシュパック製法で製造する方式を生み出しました。原料となる素材を厳選し、素早く加工、通常機械に任せるものに人の手を加るのがポイント
でしょうか」

保存食としても重宝される缶詰は、価格競争に巻き込まれてしまうアイテムでもあります。

木の屋石巻水産では、スケールメリットが重要視されてしまう価格競争にはあえて背を向けて、品質の追求にによる差別化した商品にこだわりました。冷凍原料を使用することが多い業界の中で、生で脂のりの良い素材を厳選しているそうです。

「海外から原料を輸入するのもいいが、地元には素晴らしい海産物が豊富にあるのにもったいない。当社の商品の約9割は地元石巻産のものを使用しています。幸いに『木の屋さんの商品は違う』と一定の固定ユーザーの方々から認められているのは大変ありがたいことです」


美里町工場のラウンジスペースに大切に保管されている
(同社に集まった)ボランティアたちからのメッセージ


固定ファン、リピートユーザーが多い木の屋の缶詰。

3.11の震災、大津波により石巻工場の倉庫にストックしていた缶詰約100万個ほどが流されてしまいました。石巻および周辺の沿岸地域で被災した人々が、この木の屋の缶詰によって飢えをしのぎ、生き延びたという挿話は、震災後、新聞やテレビ等にも紹介されました。

「津波で流されてしまった缶詰が『命の缶詰』、『希望の缶詰』と呼ばれ、被災された方々の命の糧となったことは幸いでした。もちろん、缶は密封されているため、中身は食べても問題ありません。缶詰が非常食として大きな役割を果たすことを改めて痛感しました」

上の写真のメッセージボードは、被災後の石巻工場の倉庫跡にあった板に、缶詰の掘り出しや洗浄に集まったボランティアたちがそれぞれの想いをつづったものだそうです。

木村社長は、会社の宝として、これからも大切に保管していくと言います。


木の屋石巻水産の人気商品。サバ、イワシ、サンマの缶詰めともに
旬の地のものを独自のフレッシュパック製法で加工する

希望の缶詰の話は、被災者の命を救っただけではありません。

東京都世田谷区経堂(きょうどう)北口の外食店の一部では、震災以前より、サバ缶を使ったメニューを採り入れて「サバ缶の街」として、集客戦略を展開していました。中でも、石巻産の金華サバを使った木の屋の缶詰は、その味に惚れ込んだ店主やお客さんが非常に多かったといいます。

「ちょっと面はゆい話ですが、私どもの方から商品を売り込んだわけではなく、経堂の複数の飲食店さんから、ぜひ、木の屋さんの缶詰をメニューに載せたい。日本全国のサバ缶を食べ比べてみたが、一番おいしかったと言われ、取り引きが始まったんです」

震災後、石巻地域の被害状況を知った経堂の飲食店の人々が、会社宛てに、流されて、ヘドロまみれになってしまった缶詰を掘り起こして送ってくれ、と申し入れたそうです。

「ほんの一部を送ったら、もっと大量に送ってくれというんです。何でも、義援金を送る代わりに皆で缶詰を洗って、都内在住の多くの人にこの缶詰を買ってもらおうよ、と提案してくださった方がいたそうです」

泥とガレキの中から掘り返した缶詰の総数が約40万缶。

中には、缶詰とはいえ提供できない状態のものも多数含まれていて、24万缶ほどを東京へ送ったといいます。

集まった4000人ものボランティアの人たちが缶詰を洗浄しました。

商品情報、製造者名が記された紙巻のラベルは当然、皆、剥がれていて、そのまま普通に売ることはできません。そこで、「復興義援金をいただければ、この缶詰を差し上げます」という形式をとって販売したそうです。

「送ったすべての缶詰、約24万缶が完売しました。本当にありがたい話です。品質に自信はありますが、ラベルはなく、中には、開けてみないと中身が分からないものもありました。いただいた義援金は社員たちに生活費として分配することができました」


「希望の缶詰」の販売会の様子
多くの人々の想いによって積み上げられた缶詰は完売しました

サバの缶詰は、石巻港に大きいサイズの金華サバが水揚げされるようになったのが開発、販売のきっかけだといいます。

金華サバは有名な関サバと同様、石巻沖の金華山周囲の「根」(海底の岩場)に生息して回遊しないサバのことで、一見するとシマアジなどと見間違えてしまうブランドサバです。そのなかで、大きくて形の良いものを速やかに加工して、かつ味付けは独自の製法で手間を掛け行うわけですから、ある意味、おいしくて当たり前、といえるような商品です。

「贅沢な素材選別、製法のようですが、遠回りなようで、良いものを作って販売することが生き残る道だと考えてやってきました。サバ缶に限らず、イワシ、サンマなども旬の地のものを使う。加工は速やかに、味付けの材料は吟味、手間を掛けてという基本は一緒です」

同社の広報担当を務める松友倫人(みちひと)課長代理が「今年一押しだ」というイワシの缶詰は、
やはり、朝一番に石巻市場に水揚げされた背の色がエメラルドグリーンの真イワシ。お刺身でもおいしいほど鮮度の良いその日のうちに加工するといいます。

「サバ缶ももちろんお薦めですが、脂のりの良い大振りの真イワシをフレッシュなまま、味付けなどはきちんと手間をかけて加工するという製法は、当社ならではのものだと自負しています」(松友さん)

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多くの被災者の命を救い、都内を中心に約24万個ほどの缶詰が完売したという「希望の缶詰」。

「被災したことにより当社の缶詰を手に取った方や、支援の気持ちで初めて購入していただいた方においしい、また買うよと言っていただいたのが大変うれしかった。実際に食べてもらって味を評価してもらい、リピーター利用が広がったことは会社にとって大きな財産」

この話は、偶然舞い降りた美談ではなく、品質重視の生産に真摯に向き合ってきた会社だからこそ導かれた、復興支援における一つの心温まるエピソードともいえるのではないでしょうか。

「新工場は完成したけれど、課題は山積しています」

と、木村社長が話す美里町新工場完成までの道筋、今後のグランドデザインなどについては、あらためて後編で紹介したいと思います。

株式会社 木の屋石巻水産
kinoya.co.jp/eccube/

(取材日 平成25年11月11日)

世界中で地球と握手(気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。
秋も深まり各地から初霜、初氷の便りが届くようになりました。
気仙沼は紅葉から落葉に季節が進んでいます。そろそろ冬の支度を始める時期になりました。
寒暖の差の大きいこの時期は流行性の感染症の罹患者数も増えます。皆さんお体を大切にしてください。

現代美術作家松宮喜代勝さんの指導で製作されたモニュメント「地球と握手」の除幕式

平成25年11月15日、気仙沼市立面瀬小学校は開校30周年を迎えました。
午後から行われた30周年記念式典に先立ち、面瀬小学校の全校児童が福井県の現代美術作家松宮喜代勝さんの指導で製作したモニュメント「地球と握手」の除幕式が行われました。

御影石で作られたモニュメント「地球と握手」


 モニュメントには、気仙沼市立面瀬小学校の年度がまたいだ七学年分の児童約500名分のパーツと、松宮さんの地元である福井県鯖江市惜陰(せきいん)小学校の児童など450人が陶土を握って作ったパーツ、さらに菅原茂気仙沼市長、小野寺五典防衛大臣など関係者が陶土を握って作ったパーツ約1000個が台座や柱部分に埋め込まれています。


面瀬小学校と惜陰小学校の児童が陶土を握って作ったパーツが埋め込まれたモニュメント

 除幕式で松宮さんは、「世界中の人たちに仲良くなってもらいたいという願いを込めて作った作品です。支え合うことを大切にする象徴にしてください」とあいさつをしました。


「世界の人たちに仲良くなってもらいたい」とあいさつする現代美術作家の松宮喜代勝さん

 校長の長田勝一校長、白幡勝美教育長、6年生の小野寺大耀さん、小野寺優美さんが児童代表でモニュメントを除幕し披露しました。

児童代表などがリボンを引き披露されたモニュメント「地球と握手」

 児童代表で6年生の小野寺瑛輝さんは、東日本大震災の時に全国・全世界からいただいた支援に対する感謝の言葉と、フィリピンで起こった台風30号の被害に心痛めていることを話し、モニュメントに世界中の人たちと仲良くしてほしいという願いが込められていることに触れ、「面瀬小学校の宝物にしていきたい」と感謝の言葉を述べました。



 
松宮さんは、
「今は気仙沼の子どもたちの夢と希望と元気をサポートすることに全力を注ぎたいと考えています。気仙沼に北海道から沖縄まで47都道府県の応援を集めたいと思っています」
「将来は継承団体を地元の人たちと一緒に作り、気仙沼市の復興公園に”地球と握手”のモニュメントを設置して拡大と管理をしてほしい」
「ボランティアや観光に訪れる人たちがワークショップに参加し、気仙沼を幾度も訪れる場所にしてほしい」


と話しました。

子どもたちの「夢と希望と元気」をサポートしたいと話す松宮さん

地球をイメージしたモニュメントには10cmほどの穴が開いていて
対面で握手できることができる構造になっています
握手をする児童代表と製作者の松宮さん


(取材日 平成25年11月15日)

第一回 気仙沼・女の芸術祭開催 (気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。

色づいていた紅葉も枯葉になり、北風が吹くたびに落ち葉になって舞い落ちてきます。秋から冬に季節も進んでいます。皆さんお体には気を付けてください。

伐採が決まっている気仙沼市大川公園のサクラは落葉していました
平成25年11月16日、気仙沼市役所ワン・テン庁舎で「第一回気仙沼 女の芸術祭」が開かれました。主催したのは気仙沼市各種女性団体連絡協議会です。18団体と10個人が参加し、気仙沼市内の女性が趣味で製作した手工芸品などを一堂に展示して、創作活動に励む女性たちの成果の発表と交流の場となりました。

第一回の気仙沼 女の芸術祭開会式

会場にはたくさんの女性たちの作品が展示されました
自然素材を使って作ったバスケットや着物地を使って製作された和小物の他、イラストやアクセサリーなどの作品が展示販売されました。

「カエル」に色々な思いを込めて描いています
「えんじゅ」のさいとうあつこさんは自身が描いている「カエル」のイラストを販売しました。さいとうさんは、震災の被害を受けた友人の作品も一緒に販売しました。

「目指すは若い者を支えられるおばあちゃん」と話すさいとうあつこさん
「震災当時は、生きることだけで精一杯でした。少し生活が落ち着いて再出発です。自分自身のためで他の人のため・・・世の中を明るくしたいです。目指すは若い者を支えられるおばあちゃんです」
さいとうさんはカエルのイラストに「帰る」「変える」「返る」の思いを込めて描いています。

震災後2人で始めた手仕事が続けられること感謝している
「ほどーる」の清水さんと木戸さん
和小物を販売している「ほどーる」の代表清水さんは、「和小物の温かさを感じてほしいです」と話ました。

自然の素材で作られたバスケットの展示販売をした「I(アイ)女性会議」
「I(アイ) 女性会議」は、道端などに自生している葛などのつるを使ったバスケットと和小物を展示販売しました。
「材料なんて道端にいっぱい生えているのにね。作るのかばねやんで(かばねやむ=怠ける)こうやって買うんだよね~道路っぱた(道路っぱた=道路に近いのり面や土手など)にいっぱいあるのにね」と言いながら、買い求める高齢の女性も居ました。
「I(アイ) 女性会議」の阿部さんは「今回の企画はお互いに女性の隠れた才能が発見できてとても楽しいしうれしい。今回に限らず女性が交流する機会が増えるといいですね」と話しました。

全国からのご支援に感謝していると話す「I(アイ)女性会議」の小野寺さん
開会式では峯浦副市長が
「震災からの復興はハードーは市民の皆さんにやっとお示しできるようになりました。ソフトについてはこれからです。地域で活動する女性たちのお力を復興に役立ててほしい」
とあいさつしました。

嵩上げ工事の進む南気仙沼エリア

約300人の人が会場を訪れ、人が途切れることはありませんでした。
会場内には女性たちの再会を喜び合う姿や、近況を語り合い情報交換する姿がありました。

(取材日 平成25年11月16日)

震災とせんだいメディアテーク 前編(仙台市青葉区)

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YUUです。

定禅寺通り沿いにある仙台市の複合文化施設・せんだいメディアテーク(以下・メディアテーク)。

2001年には、毎年およそ700点から1000点を超えるほど選定されるグッドデザイン賞の中から投票で選ばれるグッドデザイン大賞も受賞しました。

外側から内部の様子をうかがうことのできる全面ガラス構造。

初めて仙台の地に訪れて、この建物を見る人々は、意匠を凝らした外観も含め、柱の代わりに建物を支えるチューブに驚くようです。



初めて訪れた人が一様に驚く「せんだいメディアテーク」のチューブ。
採光やエレベーターを通す実用的な役割も果たしています
「デザイン的には地震の時など大丈夫かな、と感じる方が多いと思うんです。ガラス張りで柱もないし、梁もありません。ですが、建物内にはチューブが13本、4隅には大きな直径6~9メートルのチューブを配置しています。この4隅のチューブが特に建物の重さを支えて、耐震的な役割を果たしているんです」

せんだいメディアテークの庄司武夫管理係長は、同施設の建物の構造について、こう説明してくれました。

高層建築に使用されている分厚い床板は通常、頑丈な柱で支えられています。しかし、メディアテークはデザイン上、支柱をできる限り軽く、透明にすることが求められました。

そこで採用されたのが、小さな鋼管で構成されたらせん状のチューブ(格子)です。

4隅に配置された大径のチューブ以外の9本のチューブは、サイズはばらばらで、建物全体にさまざまな角度で不規則に配置されています。

耐震性も考慮され、大きさも向きも不規則に配置されているチューブ

一見すると、アーティスティックな意匠にしか見えなかったメディアテーク内に配置されたさまざまな大きさのチューブ。実は、このチューブこそが建物に構造的な強度と強靭(きょうじん)性を与えていると聞くと、正直、びっくりです。

「館内のチューブは、単なるデザインと思われる方も多いと思いますが、実は、大変、実用性に優れたものなんです。内部に光を採り入れたり、エレベーターや階段、配管、配線を通す役割も果たしています」

メディアテークを設計したのは、世界的に著名な建築家の伊東豊雄氏。

今年2013年3月には、毎年、世界中の建築家の中から原則1人だけが選ばれる、建築界のノーベル賞とも例えられるプリツカー賞を受賞しました。

定禅寺通りの並木道にマッチする「せんだいメディアテーク」の外観

定禅寺通りの並木道にマッチしたモダニズムの粋を極めたような建物は、その外観から感じる美しさだけではなく、大規模自然災害に耐え得る構造技術上の優秀性、先進性も兼ね備えていました。

気象庁の定めた最大値の震度7まで耐えられる構造設計。担当したのは建築構造家の佐々木睦朗氏。伊東、佐々木両氏が力を合わせたことにより、メディアテークは、伊東氏のデザインのビジョンを損なうことなく、公共的な建物に何より大切な、十分な安全性を備えた建物として誕生しました。

「メディアテークは年間約100万人の方が利用しています。半分強は図書館利用です。休館日は月に1回と年末年始の6日間ぐらい(年間17日)で、1日平均3000人ほどの利用者がいるんですが、3.11の地震の時に居合わせたのは300人程度でした」

マグニチュード9.0の地震発生時、メディアテーク館内の様子をネット上にアップした動画は異例の再生回数が記録されました。

7階のスタジオにいた人が撮影したらしいその映像は、画面上で見るだけでも、その激しい揺れの様子にめまいを覚えるほどでした。

震災直後のメディアテーク7階南側エレベーター付近の様子
(提供 3がつ11にちをわすれないためにセンターhttp://recorder311.smt.jp

建物は激しく左右に揺れ、7階の南側天井部分の一部が剥がれるように落下するなどの被害はあったものの、メディアテークは宮城県内の多くの建物を破壊した巨大地震にしっかりと耐え、基本構造が崩れることはありませんでした。

「建物そのものの大きな被害は7階の天井の南側部分が落ちたことと、3階図書館の内側ガラス部分の一部が壊れたことです。もちろん、外側から見えない建物のダメージは色々とありました。しかし、年配の方も含め非常に幅広い層の方が利用される公共施設で人的被害がなかったことが何よりのことでした」

3階の図書館では、書架は床に打ち付ける構造になっていたので倒壊することがなかったものの、収められていた20万冊ほどの本が散乱し、元に戻すためには図書館職員以外の職員も総動員しなければならないほどでした。それでも、庄司さんが話すように、一部とはいえ天井が落下して大きなけが人が出るようなことがなかったのは幸いでした。

メディアテークでは、利用者の多い大規模公共施設ということを踏まえ、火災訓練だけではなく、年1回の地震訓練も行ってきたそうです。しかし、3.11では今までに経験したことのない大きな揺れと長さだったこともあり訓練どおりにはいきませんでした。

「全てが訓練通りにいかなかったとはいえ、避難経路の確認など、防災訓練をきちんと行ってきたことが、大震災の時は有効に働いたのだと思います。想定を超える状況に対しても、対応できるためには、職員の防災意識の高さが求められるからです」

「これからも市民の交差点を目指して頑張ります」と話してくれた
せんだいメディアテークの管理係長・庄司武夫さん
宮城県民は約40年間の間に宮城県沖地震、東日本大震災と2回の巨大地震を体験しました。

あと100年後の事ですら、現在の科学では予測不可能です。

仮に100年周期に大きな地震が起こると仮定しても、その周期が短いスパンで連続で起こることだってありえます。どんなに建物の耐震、免震構造が優れているとしても、運営管理を行う職員の防災意識の発揚を促す定期的な防災訓練は、メディアテークのような施設においては絶対に欠かせないことでしょう。

震災後、メディアテークの部分開館が実現したのは2011年5月3日。

部分的に開館できるところを段階的に進めていき、天井が崩れた7階部分を含めた全館再開が実現したのは、翌年の1月27日でした。7階部分に関しては、天井の設計を見直し、軽量で耐久性のあるものに変更しました。

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図書館、ギャラリー・イベントスペース、ミニシアターなどが館内にあり、フランス語の「メディアを収める棚」にその名が由来するメディアテーク。

世界的建築家伊東豊雄氏の代表作と評されるその建物の造形が国外の人も含めた多くの人々の心を捉えたことも寄与して、開館間もなくして、仙台市のシンボルともいえる文化施設として称えられるようにもなりました。

その構造的特殊性は、多方面からの関心を集める一方で、専門的な構造建築の知識のない大勢の人々からすれば、大地震に耐え得る建築物なのかという不安もあったのではないでしょうか。

しかし、開業以来、都市のシンボルとも評されてきたメディアテークは、一部損壊があったとはいえ、マグニチュード9.0の巨大地震に耐え得る建造物でした。

今回は、震災時のメディアテークを振り返りましたが、後編では、震災後の文化施設としての歩みを紹介したいと思います。

せんだいメディアテーク
www.smt.jp

(取材日 平成25年9月28日)

東日本大震災から1000日 ~被災地気仙沼へのメッセージ fromベトナム

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こんにちは。kaiiです。
平成25年12月4日で東日本大震災から1000日を迎えます。
この間たくさんの人にお会いし、たくさんのご支援をいただきました。心から感謝しています。
未曾有の大震災と大津波から1000日。
未だ(平成25年11月8日現在)2651人の方が行方不明のままです。
1日も早く行方不明の方が家族のもとへ帰れるよう祈っています。

被災された皆さんにはとても長い1000日だったことでしょう。
被災地を見守っている皆さんには「復興」に向かう被災地がどう映っているのでしょうか。

これまでココロプレスで取材させていただいた中で、現在も「復興」に向けて努力されている方、被災地に思いを寄せてくださる方々から、震災から1000日を前にメッセージをいただきました。

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「気仙沼巡回療養支援隊」で医療支援活動に従事した西尾浩美さんからメッセージをいただきました。

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 医療支援のため、約1年を気仙沼で過ごしました。
温かく懐の深い気仙沼の人たちに愛してもらい、気仙沼を離れる時は「帰宅」というより「親元を離れる」寂しさでいっぱいでした。
 被災後は、想像できないほど厳しい状況に疲れ果て、迷い揺らぎながらも1日1日を大切に生き、少しずつ前進していく姿に被災地の人たちの姿に「人の強さ」を知りました。

 今私は東南アジアの途上国で暮らしていますが、たくさんの人に「被災地はどうなった? 大丈夫?」と聞かれます。遠く離れた場所からも、たくさんの人が心を寄せています。

 どうぞ皆さんがお元気で、温かなお正月が迎えられますようにお祈りしています。

                                          西尾 浩美


ベトナムの子どもたちと一緒の西尾浩美さん

震災後、医療支援のために気仙沼に入った西尾浩美さんは医療支援が終了した後も気仙沼に残り、約1年間気仙沼で支援活動を続けました。
「巡回療養支援隊気仙沼(JRS)」では医師や行政や地域と連携を図りながら、全国から駆けつけた医師たちと必要な医療を気仙沼市の沿岸部だけでなく中山間地など市の全体に医療を届けるコーディネートをしました。
昼夜を問わずに続けられた支援活動は過酷なものでした。ひたむきに頑張り続ける巡回療養支援隊の活動は被災地の命綱でした。

現在、西尾さんは看護師としてベトナムで子どもたちの医療支援に当たっています。ベトナムで貧困のために傷ついた、辛い小さな命の現実を見つめながら毎日活動を続けています。

西尾さんとkaiiの出会いは平成23年6月で、巡回療養支援隊の医療支援の終了が決まり地域の医療の確保と継続ができる環境を考えるために彼女が訪ねて来た時でした。
地域の人たちが医療を継続して受けられる環境を一生懸命考えている彼女の姿が、とても印象的でした。

もうすぐ震災後3回目のお正月がやってきます。新しい年の準備が始まるころです。西尾さんの「温かなお正月を迎えられますように」の願いが、日本に・・・被災地で毎日がんばっている人たちに届きますように。

JRS(巡回療養支援隊)=被災後13日目に、市立病院外科の横山医師が「被災を受けていない山間部の多い気仙沼には避難所だけでなく、自宅で困っている人たちがいるはず」と直感して、横山医師、SHARE沢田医師とJMATから派遣された「たんぽぽクリニック永井」とで立ち上げ、当初参加していた宮城大学チームや兵庫県保健師チーム、PCAT等皆で作り上げた在宅医療支援チームのことです。


(取材日 平成25年11月25日)

東日本大震災から1000日 ~被災地気仙沼へのメッセージ~from『LOVEフェス3.11〜神戸から東北へ笑顔の架け橋を〜』(気仙沼市)

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こんにちは。kaiiです。
急に冬めいてきました。風邪の流行もみられるようです。みなさんお体大切にされて下さい。
先日仙台市へ行きました。12月6日から開催される「2013 SENDAI 光のページェント」の電飾が定禅寺通りのケヤキ並木に取り付けられ、開催を待つばかりになっていました。
「2013 SENDAI 光のページェント」は震災から三度目の冬も暖かく優しい光で輝かせてくれると思います。

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これまでココロプレスで取材させていただいた中で、現在も「復興」に向けて努力されている方被災地に思いを寄せて下さる方々から震災から1000日を前にメッセージを頂いています。

<お一人目>
「気仙沼巡回療養支援隊(JRS)」西尾浩美さん(fromベトナム)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/12/1000from.html

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お二人目は、震災直後から被災地に入り被災地の状況を大阪で毎月11日に「福興カフェ」を開いて伝え続けている釜谷直人さんにメッセージを頂きました。

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 僕は東日本大震災が起きるまで東北に来たことがありませんでした。
震災をキッカケに東北へ足を運ぶようになりました。今は東北が大好きです。

 被災地の皆さんは、大阪から来た僕たちを心優しく迎え入れてくれます。
今ではたくさんの知り合い、友達、仲間ができ、東北を自分の「第二の故郷」と思っています。

 国道45号線などの沿岸部の道を車で走ると、海も山もとてもきれいです。
震災の大きな被害を受けても残る風光明媚な景色を見るたびに、震災前に東北を訪れていなかったことをとても後悔させます。
 東北の美しい景色が元の素晴らしさを取り戻し、人々の生活が落ち着き、東北が「復興した姿」を見るまでは東北に毎月通い続けようと心に決めています。

 東北に来るたびに感じたことや風景などを、大阪で毎月11日に開いている「福興カフェ」の中で紹介しています。


平成25年11月11日の福興カフェin大阪
福興カフェが2周年でした

 被災した東北の様子を関西の方々に伝え、震災を風化させず関心を高めてもらうことが目的です。
 毎年3月に「LOVEフェス3.11〜神戸から東北へ笑顔の架け橋を〜」という東北復興支援イベントも行っています。このイベントも東北が復興するまで併せて続けていきます。


上段左側2番目釜谷直人さん
毎月多くの仲間と一緒に東北に来て東北を応援し続けています

 東北の冬の寒さを私たちも体験して知っています。皆さんどうぞ寒さに負けずお体大切にお過ごし下さい。
                                                 釜谷 直人

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釜谷さんとkaiiの出会いは平成24年11月の南三陸町でのイベントの取材に出掛けた時でした。
仲間4人で南三陸町に車で来ていました。その時、気仙沼にお誘いしたのがきっかけで、彼らの活動を知りました。「継続して毎月来ている」と話す彼らに感動したことをおぼえています。
それから毎月気仙沼を訪ねてくれた時には、私のところも訪ねてくれるようになりました。

「復興がなかなか進まない」と取材先でお聞きすることが多くあります。
私は、自分の生活の中に小さな復興がたくさんあり、毎日町が姿を変えていくのを感じます。その確信を得たくて釜谷さんたちに毎月お決まりで「先月と今月の気仙沼に変化はありますか」とお聞きしています。

(取材日 平成25年11月22日)

週刊ココロプレス第65号

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ココロデスクです。

今日は12月4日。
2011年3月11日に発生した東日本大震災から1000日目に当たります。
被災された方々、見守り、支援してくださった方々、一人ひとりにそれぞれの思いがあることでしょう。
ただ、共通するのは「何もかも、まだまだ途中である」ということではないでしょうか?

「○年目」「○○○日目」という時間の節目は目標にもなりますし、それまでを振り返り思いを新たにするきっかけにもなります。

もちろん、それは何か物事にひと区切りを付ける機会にもなるでしょう。
しかし、こと震災からの復興に関して言えば、区切りを付けるのはまだまだ先のことに思われます。


明日は、震災から1001日目です。


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気仙沼方面担当のkaiiが、これまで取材させていただいた方々から「震災から1000日」をめぐってメッセージを頂いています。どうぞご覧ください。


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■お知らせ
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宮城県が全国からいただいたご支援に対して感謝を発信する「宮城から感謝をこめて」に、新しい記事が加わりました。
今回の新着記事は、石巻市雄勝町の「ローズファクトリーガーデン」と、南三陸町の「長須賀海水浴場復活」の2本です。トップページ左側の目次からたどってください。

宮城から感謝をこめて
https://sites.google.com/site/kanshamiyagi/


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■イベント情報
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東日本大震災祈念特別展
11月16日~2014年1月13日
東北歴史博物館(多賀城市)
http://www.thm.pref.miyagi.jp/exhibition/detail.php?data_id=499

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支援のかたち
被災地でのパートナーシップ
12月11日
せんだいメディアテーク 6fギャラリー4200
仙台市市民活動サポートセンター/せんだいメディアテーク
http://www.smt.jp/thinkingtable2012/?p=4617


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  ■最近のダイジェスト (11月18日~12月3日)
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2013年11月18日月曜日
「被災地に希望を 仙台在住イラストレータ8人展」(東京都港区)
「震災を乗り越えて前向きに生きていきましょう」という地元に向けたメッセージを込めて、仙台在住の8人のイラストレーターが東京・港区のギャラリーで作品展を開催しました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/8.html

2013年11月20日水曜日
音楽の力、「北上音楽祭」(石巻市北上町)
「復興地に音楽を届けたい!」という熱い想いを持ったアーティストが2012年に立ち上げた音楽イベント「北上音楽祭」。2013年からは復興支援ライブだけではなく、復興地にさまざまな形で音楽を届ける「アーティスト集団」としての活動も開始。使わなくなった楽器、誰かに使ってほしい楽器を集めて、復興地へ届けています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_6071.html

2013年11月21日木曜日
第2回 大人の科学教室開催(気仙沼市田中前)
震災による原発事故の後、たくさんの科学の言葉が飛び交いました。その中には、よく分からない言葉や内容がたくさんあります。こうしてついつい分からないと遠ざけている科学のお話を、分かりやすく教えてくれる教室が気仙沼で開かれました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/2.html

2013年11月22日金曜日
ひとつになったふたりの「未来道」(南三陸町歌津)
南三陸町の名足漁港を見下ろす小高い場所にあるトレーラーハウス。イタリアンカフェの「カフェかなっぺ」です。お店を切り盛りするのは、地元歌津出身の千葉馨さんと横浜出身の嘉苗さんご夫妻。ふたりは今年4月、地元で「未来道」と呼ばれる砂利敷きの道に布を延べて設えたバージンロードを歩いて結婚式を挙げました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_7723.html

2013年11月25日月曜日
第28回リアス牡蠣まつり唐桑開催!~感謝祭&復興の海原へヨーソロー~(気仙沼市)
11月17日、カキの即売イベント「第28回リアス牡蠣まつり唐桑~感謝祭&復興の海原へヨーソロー~」が、唐桑小学校の校庭を会場に開かれました。「ヨーソロー」は航海用語で「前進」を意味する言葉。復興へ前進するという意味が込められています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/28.html

2013年11月26日火曜日
「町の魅力でまちおこし~亘理山元まちおこし振興会」(山元町)
NPO団体「亘理山元まちおこし振興会」の理事長を務める千石信夫さん。「古民家は町の文化財産なのです。古民家を活用した施設は、必ず将来の山元町の文化や教育にとって有益なものになるはずです」と、古民家を残す活動に取り組んでいます。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_26.html

2013年11月27日水曜日
高品質の地場産缶詰で地域活性を目指す~株式会社木の屋石巻水産(美里町・石巻市)
「津波で流されてしまった缶詰が被災された方々の手に渡り『命の缶詰』『希望の缶詰』として命の糧となったことは幸いでした。缶詰の価値をあらためて痛感しました」と木の屋石巻水産の木村長努社長。内陸部の美里町に工場を新築移転して再出発しています。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_27.html

2013年11月28日
木曜日世界中で地球と握手(気仙沼市)
「支え合うことを大切にする象徴にしてください」。開校30周年を迎えた気仙沼市立面瀬小学校で、全校児童が福井県の現代美術作家松宮喜代勝さんの指導で製作したモニュメント「地球と握手」の除幕式が行われました。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_28.html

2013年11月29日金曜日
第一回 気仙沼・女の芸術祭開催 (気仙沼市)
「震災当時は、生きることだけで精一杯でした。少し生活が落ち着いて再出発です。世の中を明るくしたい。目指すは若い者を支えられるおばあちゃんです」と、さいとうあつこさん。気仙沼市内で創作活動に励む女性たちの作品を一堂に展示した「気仙沼 女の芸術祭」の一コマです。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_8641.html

2013年11月30日土曜日
震災とせんだいメディアテーク 前編(仙台市青葉区)
柱の代わりのチューブで支えられたガラス張りの建築、せんだいメディアテーク。一見、耐震性が心配ですが、実は緻密な計算に基いて強度を実現していることを震災で証明しました。「これからも市民の交差点を目指して頑張ります」と管理係長の庄司武夫さんは語ります。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_9588.html

2013年12月2日月曜日
東日本大震災から1000日 ~被災地気仙沼へのメッセージ fromベトナム
「今、ベトナムで暮らしていますが、たくさんの人に”被災地はどうなった? 大丈夫?”と聞かれます。遠く離れた場所からも、たくさんの人が心を寄せています」と巡回療養支援隊気仙沼(JRS)隊員だった西尾浩美さん。
12月4日で東日本大震災から1000日。これまでココロプレスで取材させていただいた支援者の方々から、被災地気仙沼へのメッセージをいただきました。シリーズでお送りします。
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/12/1000from.html

2013年12月3日火曜日
東日本大震災から1000日 ~被災地気仙沼へのメッセージ~from『LOVEフェス3.11?神戸から東北へ笑顔の架け橋を?』(気仙沼市)
震災1000日目のメッセージの2人目は、大阪で毎月11日に「福興カフェ」を開いて被災地の状況を伝え続けている釜谷直人さんです。
「東北は自分の第二の故郷。東北の美しい景色が元の素晴らしさを取り戻し、「復興した姿」を見るまでは東北に、毎月通い続けようと心に決めています」
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/12/1000from311.html

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■編集後記

ココロプレスのタイトル文字のバックには、月替りで各地の現在の様子を撮影して使用しています。
今月は、12月1日にグランドオープンした名取市閖上の「ゆりあげ港朝市」。

6時の開場セレモニーを待たず、場内では新鮮な魚介類や野菜を買い求める人々で大混雑です。名物のメンチカツや小籠包を頬張りながら店を見て回る姿も目に付きました。

「アイソン彗星が見られるかも」という期待は外れましたが、美しい朝焼けを拝むことができました。


黙祷のまぶたひらけば閖上の港朝市を照らす朝焼け





(ココロデスク)

私たちが食べている「命」(石巻市釜谷針岡)

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こんにちは、Chocoです。
皆さん、今日のご飯は何を食べましたか?
皆さんが口にしたもの全て生き物(植物や動物)でした。
その命を絶ち、調理したものが、私たちの口に入ります。
小さい頃、嫌いな食べ物を最後まで食べずにいたら、
おばあちゃんに「バチが当たるんだよ」
と、叱られたものです。
おかげで私は好き嫌いがありません。


いつも食べる時に言う、
「いただきます」
この言葉には、生き物の命をもらい、それを食べる人間が、自分の命を維持し生存できるということの感謝の想いが込められています。

お買い物をしに外に出て、いつも手に取る、野菜、魚、お肉・・・
それらは、人の手によって育てられ、処理され、販売されています。

今回は、普段私たちが目にすることがない養鶏場へお邪魔しました。

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以前紹介した豊作・復興祈願祭が行われた大川地区針岡にご夫婦で経営されている養鶏場があります。

2013年7月1日月曜日
豊作・復興祈願祭(石巻市釜谷)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/07/blog-post_2480.html

北上川沿いを通り、ここから約2km先の針岡に向かいます。
私が5月に見た小さな苗はグングン育ち、稲刈りが行われ、おいしいお米になったそうです。
そして、今回紹介する養鶏場は、その田んぼのすぐ横にあります。
左が養鶏場
右が豊作祈願祭の際、作付した田んぼ
小高いところにある養鶏場にも津波は来ました。

津波の跡が残る倉庫
北上川から約2km離れているところにある針岡にも氾濫した海水が押し寄せてきたのです。
「車から、家から、人から・・・ここまで流れてきたんだ」
鶏舎にいたオーナーの高橋芳男さんは、震災当時を振り返りました。
溺れている人を何度も助けました。

海からの勢いは止まらず、北上川を昇り、川から陸へ流れてきたのです。
ここの地域は、そうやって津波が押し寄せてきました。

鶏舎も半壊、シャッターも壊れ、船も鶏舎に流れてきたと言います。
出荷を明日に控えていた鶏も全滅してしまいました。


自宅は無事だった高橋さんは震災直後から地元の方々と一緒に、避難してきた人へ毛布や服、そして食料を配っていました。

鶏舎は、使うことができない悲惨な状態になっていました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「もうやめようか」
奥さんの貴久子さんは言いました。

「・・・もう一度やる」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−

震災から半年後、たくさんの人たちの協力によって、再開を果たしました。


養鶏場を始めたのは40年以上前のことです。
その当時は、何軒か鶏舎があり、そこで約7万羽の鶏を収容していました。
成長した鶏を出荷すると、業者に回り、そこでは鶏の状態を見て成績が付けられます。
痩せている肉は量が取れないため、契約量に合うように注意しなければなりません。

「寝るところは、腹を冷やしたりしないように・・・。
やっぱり寝床が一番大切だからね」

そう言って、私に鶏舎の中を見せてくれました。

室内は、優しい灯で、温かくなっていました。

生まれて間もないヒナが高橋さんの元へ連れて来られます。
そして約1カ月半後に出荷されて行きます。
その間、2人でヒナを若鶏まで育て上げます。
それを震災前は、年に5回転していました。
季節によって気温や湿度も異なり、温度調節はとても大切です。
毎回、記録は取っているものの、同じ状態ではありません。
「昔は、機械もなかったから、餌やりも温度調節も換気扇を回すのも全て手作業だった。風の入れ具合を調節するのがとても難しかった」
と、昔を振り返りますが、機械で管理できるようになった現在でも、朝目が覚めて、寒さに気づくと、
「夕べもっと温かくしておけば良かった・・・」
と、気がつけば、ヒナの事を考えることがあるそうです。
「『暑いー』や『寒いー』と、しゃべってくれないから困る(笑)」


「ヒヨコがいないと寂しいんだ。いるといないとでは、何となく身体持て余すんだ。
辞めるかなと思ったけど、皆さんが手伝ってくれたおかげで再建することができた。
とてもうれしい。
仕事は生きがいなんだ!!」
そして、40年以上も休むことなく働いてきたことに対しては、
「ヒナを若鶏に成長させて、業者に良い評価をもらっても、満足するっていうことがない。常に改善点を考えていた。その成績で満足するということがないんだ。
だから、面白いし、ここまでやってきたんだと思う」
7万羽収容していた以前とは違えど、仕事に対する想いは変わっていません。
常に前進しているように思いました。

「私の選んだ道、養鶏業は育てる喜び、悩み、そして楽しみがあり、
幾度かの困難を乗り越えながら前向きに考えています。
身体と相談しながら、もうちょっと続けたいと思っています」
高橋芳男さん
「書くのが苦手だから・・・」という芳男さんの思いを奥さんの貴久子さんが代わりに書いてくれました。
「休みながら、調子見ながら頑張らなきゃね」
40年以上も寒い日も暑い日も、風の日も雪の日も共に頑張ってきた貴久子さんだからこそ芳男さんの想いと身体のことが分かるのです。

ヒナが来るとお孫さん方は、友達を連れてきたり、ボランティアの人たちを呼んで来ては、自慢のヒナを見せていました。
今回も2人は、ニコニコしながらヒヨコを見ていました。

12月半ばには、このヒナも大きくなって出荷されます。
それまで、高橋さんご夫婦は、ヒナを立派に育ててくれるのです。

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私たちが何気なく食べている「物」
それは、簡単にポンッと出てくるものではありません。
寒くても暑くても毎日毎日手を掛けて育てられています。

「いただきます」
生き物の命をいただきます。
そして、高橋さんのような普段見ることのできない生産者や食品加工する人、
それを食卓に並べてくれるお母さんへの
「ありがとう」が込められています。

何気なく言う言葉も、心を込めて言ってみてください。
普段よりもおいしく感じるかもしれません。

(取材日 平成25年11月10日)

元気発信中! 気仙沼復興屋台村2周年祭(気仙沼市)

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 石野葉穂香です。

 11月23日。気仙沼市の「復興屋台村気仙沼横丁」で開設2周年を祝うイベントが行われました。

気仙沼市南町。かつてたくさんの飲食店が立ち並んでいた場所に
「復興屋台村気仙沼横丁」はあります

 「復興屋台村」は、2年前の11月27日、大島汽船の発着所だったエースポートの南側すぐのところに開設された復興市場。
 物販店や飲食店など22店舗が営業中です。

海鮮丼、気仙沼ホルモン、海鮮ラーメン、おいしい地酒・・・
食べて呑んで買ってよしの横丁です


 この場所での営業は、当初2年間暫定という予定でしたが、諸事情から延長されることとなり、それぞれのお店のご主人やおかみさんたちも一安心。
 そして、この日のイベントで、横丁の、ますます元気な様子がにぎにぎしく発信されました。


横丁の一角に置かれたダルマには、全国の方から寄せられた応援メッセージが


 イベントは、午後2時からの開催でしたが、土曜日・祝日とあって、午前中から多くの方が横丁を訪れていました。駐車場には関東地方のナンバーを付けた車もたくさん止まっていました。


 それぞれのお店も「2周年記念セール」や「記念メニュー」を用意して、雰囲気を盛り上げます。



 
 「港町・気仙沼」は、魚介類の水揚げでにぎわう町であることはもちろん、長い航海から戻った海の男たちをもてなしてくれる「おいしくてにぎやかな飲食店のある街」でもありました。
 しかし、津波は、市街地で7割、繁華街だった南町では、ほぼすべての飲食店を押し流してしまいました。
 「復興屋台村」は、津波で店舗を失った販売店、飲食店が集う「屋台村」の運営を通じて、長期的に復興を支援するプロジェクト。地元の人たち、海の男たち、そして観光客、ボランティアの人たちなどがたくさんやって来て〝港町・気仙沼〟〝観光都市・気仙沼〟のにぎわいを取り戻すための、その礎石を目指す場所でもあります。

若生理事長がごあいさつ

 風はちょっと冷たかったけれど、よく晴れた「勤労感謝の日」。
 そして午後2時、「2周年記念祭」が始まりました。
 
 イベントに合わせて、「復興屋台村気仙沼横丁」が、12月2日から開始する、仮設住宅の入居者向けの「宅配弁当事業」の出発式を行われました。

 「復興屋台村」の若生裕俊代表理事は「市内には93カ所の仮設住宅があり、3500世帯の人たちが不便な生活をしています。外出や買い物がたいへんという高齢入居者の皆さんに、屋台村の味を届けたい」とあいさつ。

 そして、仮設住宅を巡回するワゴン車がお披露目され、テープカットのあと、この日はデモンストレーション(試食)として、市内の仮設住宅に20食が届けられました。

宅配のお弁当を積んで走る「横丁弁当号」

 お弁当の名前は「気仙沼横丁弁当」。横丁に入居する全店舗が参加して、メインディッシュを1日1店舗が担当、物販のお店も材料を提供し、横丁内の「お弁当事業所」で注文をさばきます。

 真新しいワゴン車は「味の素(株)」の提供。そしてお弁当箱は、石川県のタカノクリエイト(株)の協力によって開発されたものです。


各店舗のご主人・おかみさん。ワゴン車の前で、はい、ポーズ

 「飲食業の復興から街のにぎわいを取り戻してほしいというのが私たちの願いです」と話すのは味の素(株)家庭用事業部の専任部長・深水秀介さん。
 「仮設住宅に暮らす人たちの栄養バランスの改善にもお役に立てるなら…と、2011年の10月からは、被災三県で「健康栄養セミナー」という催しも開いてまいりました。おいしさと栄養のバランスが取れたお弁当で元気になっていただきたいですね」

鏡開きには「ほやぼーや」も駆けつけてくれました

 また、代表理事・若生さんは「各店ともやがては自立を目指しているわけですから、地元のお客様の確保も大切です。お弁当の宅配事業は、収入の安定的な確保にもつながります。そして、お弁当を通じて屋台村の味を知っていただき、こちらにもぜひ足を運んでほしいと思っています」


気仙沼を拠点に活躍する地元アイドルグループSCK。
「産地・直送・気仙沼」の略(Sanchi Chokuso Kesennuma)で、
気仙沼の元気を全国に発信する〝超元気〟な女の子たちです

 そして、お待ちかねの2周年イベントもスタート。
 産地直送アイドル「SCK」のミニライブ、ダンスグループのパフォーマンス、そして屋台村のイベントに、もう何度も応援に来てくれている「フレイディ・マーキュリー」さんらが、2周年を祝うステージを盛り上げてくれました。



「フレディ」ならぬ「フレイディ」さん。
朝ドラ『あまちゃん』の中で花巻さんが真似ていたのはこの方? というウワサ。
今や復興屋台村のイベントには欠かせない人気者です


子どもたちもお年寄りもステージを最後まで楽しんでいました

 「復興屋台村」の事務局長・小野寺雄志さんは、
「2周年を迎えられて、ほんとうによかったのひと言です。ありきたりな言葉かもしれませんが、たくさんの方にありがとうと伝えたいし、そして、これからも、どうぞよろしくお願いいたします」とにっこり。

 イベントの準備から進行まで、お疲れ様でした。そして、楽しい一日をありがとうございました。

事務局・小野寺さんからのメッセージは
気仙沼、元気、気力、気合いの『気』
なお「横丁弁当」は、いつか〝横丁現地〟でも販売したいとのことです。

 三陸ドライブや気仙沼観光の時、地元のおいしい味がぎゅっと詰まった屋台村のお弁当を買うことができるかもしれません。楽しみです。

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「復興屋台村 気仙沼横丁」

所在地/気仙沼市南町4-2-19
電   話/0226-29-6769(事務局)
※ 営業時間や休業日は、店舗によって異なります。
   営業時間の目安は、物販は9時ごろ~、飲食店は11時ごろ~23時ごろ
   (午後は休憩時間を取るお店もあります)

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(取材日 平成25年11月23日)

希望の赤い星。ありがとう「復興いちご」(山元町)

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こんにちはエムです。

残ったのは体だけ。他は全てを無くしてしまった。
そんな体験をした方の話をこの生涯の中で聞くことになるとは、考えてもみませんでした。……今までは。

東日本大震災で、福島県北部から宮城県南部にかけての沿岸部は、海からの津波と、山にぶつかってりはね返った津波の両方に襲われました。
山にはね返った津波は平地をなめるように北上し、山元町にも甚大な被害をもたらしました。

その山元町で、震災のあった平成23年からイチゴ栽培を再開したいちご農家がありました。
その中の一つ「菅野園芸」を取材させていただきました。

通称「ハウス」と呼ばれているビニールハウス。
中は温度管理がされ、冬でも春のように暖かい

長年、家族でいちご農家を営んできた「菅野園芸」菅野孝雄さん。山の近くにあった自宅は津波被害に合い、屋根だけが2km先に見つかった他は何も残らなかったそうです。自宅より海側にあったいちご農園のハウスは跡形もなく流され、農地はがれきに覆い尽くされていました。
幸い、菅野さんの家族8人は全員避難して無事でしたが、それは菅野さん一家の“生きる戦い”の始まりだったのです。

避難所生活は1カ月にわたりました。
その間、92歳(当時)の菅野さんのお母様は親戚の家へ、お嫁さんのまろみさんと3人のお孫さんは、まろみさんの実家のある青森に避難していました。菅野さん一家が再び一緒に住めるようになったのは、一戸建のみなし仮設住宅が見つかった4月に入ってからでした。

当面の生活費のために息子さんの孝明さんとまろみさんが外で働く中、菅野さんと奥さんの明子さんが、親交のあった蔵王町の畑を借りて親苗の育苗をスタートさせたのは、5月という早さだったそうです。

親苗から伸びたツルから出た芽が、イチゴが実る苗となります

「自分にはいちごを育てることしかできない。それを1年でも休んだら嫌になると思った。ずっといちごに携わっていないと気持ちが切れてしまうのが怖かった。気持ちが切れたら終わりになるから」
菅野さんは当時を振り返り、そのように話しました。
それは明子さんも同じ気持ちだったそうです。

「蔵王まで毎日通うのが大変だった。3日に1回づつ車に給油する日々。
この先どうなるんだろうと考えて不安だった…」
いちごを詰めながら話す菅野明子さん

蔵王での育苗と並行して、ハウスを建てるための土地とハウスの確保を急ぎました。菅野さんの尽力で、角田市の知り合いからハウスと畑を10アール、山元町内の山沿いの畑を10アール借りることができ、平成23年は合計20アールの農地でのスタートでした。


震災前は70アールの農地を所有していたそうですが、規模は小さいとはいえ、震災の初年度からこれだけ再開できたのは驚くべきことです。

「これも、ボランティアの人や町の青年部など、たくさんの人が協力してくれたから」と、取材中に何度も菅野さんは言いました。

さらに、県との連絡を欠かさず行っていた菅野さんの耳に、その秋、良い知らせが入りました。「東日本大震災災害対策等の支援事業」が始まり、ハウスの復元が決まったのです。今までの場所で再開したいと訴え続けた菅野さんの気持ちが実現することとなりました。その事業は24年春に着工されました。

ミツバチは大事な“相棒”。ミツバチの協力無しには
いちごはほんのわずかしか結実しません
 
一棟に平均2つのミツバチの箱が
置かれています

県の事業が動いた続く24年は、整地された現在の場所にハウスが建てられました。

「ここまで来るには、自分たちだけでは到底できなかった。全国から来てくれたボランティアの人たちやたくさんの人が助けてくれたんだ……」

前年に山沿いに建てたハウスをボランティアの人たちが解体して運んできてくれたのです。 
「自分たちが3、4カ月かかって建てたハウスを、たった1日で解体して持ってきてくれたのは驚きだった」
また、解体したハウスの再建に手を貸してくれたのは、仙台のゼネコンOBによるボランティア団体でした。
8月末には、たくさんの人の協力や県の事業により、30アールまでに回復したハウスが完成しました。ハウスには無事にいちご苗が植えられ、その年11月には出荷を実現しました。

さらに国の農業公社による「被災地域農業復興総合支援事業(山元町いちご団地化整備事業)」も始まり、25年の今年は、震災前の70アールまで農地が回復したとのこと。

想像以上に大きく立派なハウスは三角の屋根3つで1棟

また、震災前に山元町にあった直売所「夢いちごの郷」の会長でもある菅野さんは、事務局長の斎藤忠男さんと共に、新しい直売所の土地を確保するための交渉なども行ってきました。
「夢いちごの郷」はいちご農家の他、野菜農家、りんご農家など約50人の会員がいます。
沿岸部だけではない会員のためにも再開の必要性を感じた菅野さんは、なんとか私有地を借り、支援のために山元町に入ってくれた自衛隊の残したプレハブを譲り受け、23年9月9日に山元町農産物直売所「夢いちごの郷」を再オープンしました。

「菅野園芸」、「夢いちごの郷」、どちらも菅野さんの行動力によって、このように早い再開を成し遂げたのは驚きです。

「たくさんの人に助けてもらった」と話す菅野孝雄さん

「ここまでくるには……本当にたくさんの人に助けてもらったから」と菅野さんはしみじみ話し始めました。
「震災後はすぐに自衛隊が入って、がれきを撤去してくれた。そのおかげで7月いっぱいでがれきは無くなったんだ」
「それに合計では1000人を超すボランティアの人が、沖縄や北海道、熊本や鹿児島など全国から来て手伝ってくれた。今こうしてあるのは手伝ってくれただけではなくて、励ましてもらったりした応援があったから。その人たちが背中を押してくれた。それがなかったら、もしかしたら今のようにやってなかったかもしれない。本当に助けてもらったんです」
しかしそれも、菅野さんや菅野さんのご家族が「いちごでやっていく」という強い気持ちでいち早く動いたからこそ、協力者が現れたに違いありません。


「震災の後の事は考えたくないくらい全部
大変だった。着たきりスズメみたいに身一つで逃げた。……でも今はいちごの事だけ考えていれば良いから楽なのね」
そう語る明子さんは、いちご農園の再建に無くてはならない方。菅野さんと共に力を尽くした心強い存在です。


現在は震災前と同じように、家族全員でいちご農園を稼働している「菅野園芸」。
頼もしい後継者の孝明さんと、明るいまろみさん。そして3人のお孫さんが応援しています。真ん中の9歳の女の子は、「じいちゃんを先生にしていちごを作る!」と言ってくれているそうです。
菅野さんの行動力の源を垣間見たような気がしました。

家族全員での作業は早朝からの“いちご摘み”  “パック詰め”と
毎日休み無く行われています

息子さんの菅野孝明さんと奥さんのまろみさん

「今まで大変だったけどうれしかったのは、前のお客さんが、震災後様子を見に来てくれたことがあったのね」
「心配して現場に来たけど何も無いでしょう。人に尋ねたり探したりして家まで来てくれた。その時『生きてたんだ』と言って泣いてもらった。生きてるだけで泣いてもらった経験はなかったから、本当にうれしかった」
菅野さんはその時、お客さんとのつながりができたと初めて実感できたそうです。

そんな菅野さんのこれからの目標は、生産も販売も、震災前まで回復させること。そのためにはまだまだ予算的に厳しいのは否めません。町と連携しながらも、さらなる応援が必要です。現在もその方法を模索中だそうです。



平成23年、大震災直後のいちごの出荷はクリスマスの直前。
何も無くなった土地から奇跡のようによみがえったそのいちごは、いつしか「復興いちご」と呼ばれるようになりました。菅野さんのいちごは、山元町の復興を願う皆さんの心を照らす“希望の星”になったに違いありません。
また菅野さんの、今まで助けてくださった皆さんへの感謝の思いも込められているそのいちごは、これからも山元町の方々を、そして私たちを勇気づけてくれるでしょう。

ありがとう! 復興いちご!





【菅野園芸・夢いちごの郷「いちご狩り」のお知らせ】

期間/2月〜6月
  【菅野園芸】(土・日・祝日)10:00〜15:00
   団体(10名以上)の場合は平日も受付  〈※ 要予約 ・個人は予約不要〉
  
  【夢いちごの郷】(毎日営業)9:00〜16:00
   ※団体(10名以上)は要予約 ・個人は予約不要


入園料金/30分食べ放題
  〈2月〜5月上旬まで〉※ 団体は100円引き
    大 人 1500円
    子ども   700円
  〈5月中旬〜6月末まで〉※ 団体は100円引き
    大 人 1300円
    子ども   600円

※ 申し込みは直接「菅野園芸」か「夢いちごの郷」までお早めにどうぞ。


「菅野園芸」
〒989-2202 山元町高瀬字北沼71
電話・FAX/0223-37-1008
または携帯/090-5237-8119

山元町農産物直売所「夢いちごの郷」 
〒989-2203 山元町浅生原字下宮前94-1
電話・FAX/0223-37-1115


☆「菅野園芸」の震災後の取り組みは、学校図書館用書籍「語りつぎお話絵本」(全8巻)〈学研〉の中の第8巻に「花のいちごハウス」として掲載されています。
書店には並びませんが全国の学校図書館や公営図書館などで閲覧することができます。
またAmazonで購入することができます。

(取材日 平成25年11月21日)

「正しいと思ったことをする」(南三陸町 登米市)

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石野葉穂香です。

今回は、震災直後のお話です――。

被災した自治体の首長の必死の思いに、ある量販店の若い女性店長さんが、機転を利かせた好判断で応えてくれた・・・・・・というエピソード。
町長と店長。おふたりのファインプレーが、多くの人たちの窮地を救ってくれたのでした。

波高15m超という大津波に襲われた南三陸町。
総合体育館「ベイサイドアリーナ」や、町内の公民館、学校などの避難所は、着の身着のまま逃れてきた多くの避難者であふれていました。
服が濡れたままの人もいました。赤ちゃんを抱いたお母さんもいました。救援物資も届かずに、食事もとれない。誰もが膝を抱えてうつむくばかりでした。

「急ぎ必要な物資だけでも、何とか早急に手に入れられないだろうか?」 佐藤仁町長は考えました。
しかし、役場庁舎さえ流された南三陸町。買い物をするにも現金がありません。
そこで町長は、イチかバチかの行動に出ます。

町長の機転。手書きの証明書


町長は、上の写真のような文言をコピー用紙に走り書きし、これを職員に持たせ、町外の被災していないエリアへと走らせました。
「掛け売りで、何でもいいから買ってこい――」

PCもプリンタもコピー機もなかったため、何枚もの紙に書き殴りました。
町長のハンコもありません。だから、このメモを見たお店の人も、ほんとうに南三陸町の職員かどうかなんて分かりません。

「とても不安でした。でも、ほかに方法がなかった」と佐藤町長。

そして、職員が、いざ町外へ出てみると・・・・・・。
多くの街が停電中。揺れによる建物被害、流通のストップ、販売スタッフの欠勤などもあって、営業しているお店はほとんどありませんでした。
また、手書き証明書を差し出しても、けげんそうに眺めたあと「ウチはちょっと・・・」と断るお店がほとんどでした。

こちらは岩手県にある薬王堂一関三関店の震災後の様子。
3月12日か13日ごろの写真とのこと。
外に何人かのお客さまが並んでいます

職員の I さんは、峠を越えて隣の登米市へ向かいました。登米市内でも開いているお店はほとんどなかったそうです。
旧迫町の加賀野地区に差し掛かったとき、ようやく店頭販売をしているお店を発見しました。
「薬王堂 登米加賀野店」でした。

登米市にある薬王堂登米加賀野店。
外観は震災時から大きく変わってはいません


加賀野地区は、量販店が比較的多く立ち並ぶ商業ゾーンですが、震災から2~3日目だったこの日、営業していたのは薬王堂だけでした。

I さんは、店頭販売していたスタッフを通じて、店長さんを呼び出してもらいます。
そして、出てきた店長さんに先の「証明書」を見せながら、南三陸町の惨禍と窮状を訴え、掛け売りをお願いしました。

すると店長さんは、大きくうなずくと、Iさんを、お店裏手の搬入口に案内し、そして、こう言ってくださったそうです。

「どうぞ、必要なものを必要なだけ、お持ちになってください」

一関、築館、大崎市古川など、大きな街のお店を訪ねた職員もいました。
でも、掛け売りに応じてくれるお店はほとんどなかったそうです。
すべてがダメだったわけではありません。でも、この薬王堂登米加賀野店の対応は「すごかった。ほんとうにうれしかった」と、南三陸町役場では、のちのちまで職員たちの話題に上ったそうです。

普段は整然と商品が並ぶ店内。
でも、震災から数日は、
陳列棚から落ちた商品で足の踏み場もなかったそうです。

それから3カ月後の6月上旬。佐藤仁町長は I さんが運転する車で登米市迫町を通り掛かりました。
そのとき「町長、実はですね・・・」と、町長は、この話を初めて聞かされたそうです。
「それなら、ぜひお礼を言わなければ!」
佐藤町長は、登米加賀野店を訪ね、そして、その店長さんと初めて会ったのでした。

「そんな機転を利かせてくれた店長さんなのだから、結構ベテランの人なのかなと思ってました。ところが、お会いしてみれば、加賀野店にやってきてまだ数カ月という20代半ばほどの若い女性でした。この人が、とっさの判断でウチの町に物資を回してくれたのかって・・・。驚きもしましたし、いや、もう感激でしたね」


「当時の店長は、川崎恵美子という者でした。ご家族の事情で、残念ながら、今はもう当社を退職してしまいました」
と話すのは、(株)薬王堂の岩渕智也さん。
「明るくて、ハキハキしてて、笑顔を絶やさない社内の人気者。評判の元気社員でした」

当時、川崎さんの下で働いていた日高純一さん(24歳)にもお話を伺いました。
「とてもやさしい方でした。川崎店長は、震災直後の南三陸町の状況も知っていました。だから〝南三陸から来た〟っていうお客さまを、実は優先していたんです」


津波で壊滅してしまった志津川店。
JR気仙沼線志津川駅の近くにありました

薬王堂は、当時、東北地方で130店舗を展開していましたが、沿岸部を中心に20店舗が営業不能となり、そのうち11店舗は壊滅してしまいました。
それでも「地域の人たちのために」と、無事だった店舗に対しては、本部から「翌日から営業するように」との指示が出されたそうです。

登米加賀野店も、店内は商品が散乱するなどして大変でしたが、店頭に机を置き、お客さんのオーダーを受けて、スタッフが店内へ商品を取りに行く、という対応を取っていました。


川崎さんの、とっさの判断。後日、薬王堂社内では、どう評価されたのでしょう?
独断で掛け売りしたことを叱られたり・・・・・・なんてことはなかったのでしょうか?
 
「もちろんそんなことはありません(笑)。彼女は会社の一員として、そして被災地の隣町にある店舗の責任者として、正しいと思った行動をしたのですから」(佐々木大輔さん)

「まずお客さまの安全確保。そして地域の人たちのためにいち早くお店を再開する」
左から営業本部店舗運営部スーパーバイザー佐々木大輔さん、
当時の登米加賀野店スタッフ(現在は志津川店勤務)の日高純一さん、
営業本部店舗運営部ゾーンマネージャーの岩渕智也さん
震災後、薬王堂社内では、あらためて「災害時行動マニュアル」を策定しました。
そこには
「人命第一で行動すること」
「一刻も早く店を開店するように行動すること」
「正しいと思うことは現場で臨機応変に対応すること」
とあります。

――まさに、川崎さんの行動そのままです。

今は志津川店に勤務されている日高さんも、
「店長の行動はすごいと思いました。もしもまた災害が発生してしまったときなどは、僕もそんな対応ができたらって思っています」

佐藤仁町長からも、メッセージをいただきました。

南三陸町役場町長室にて。
「町民は、ホントに助けていただきました。
機転の利いたファインプレー。感謝、感謝です」

なお、職員の I さんが、登米加賀野店から真っ先に買って帰った商品は「粉ミルク」だったそうです。
「店長さんはエライ。でも、ウチの職員もエライ(笑)」

今はもう退職されてしまった川崎さんですが、佐藤町長をはじめ、南三陸町の役場職員の皆さんは、あらためて感謝の気持ちを伝えたいとおっしゃっています。
そして、粉ミルクを赤ちゃんに飲ませてあげることができたお母さんたち、そして多くの町民の方も、きっと。

川崎さん――。
どこかで、このページがお目に留まれば幸いです。

(取材日 平成25年11月26日・27日)

東日本大震災から1000日~気仙沼に通う日々の中で感じたこと~(from神戸市)

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こんにちは。kaiiです。
平成25年12月4日で東日本大震災から1000日を迎えます。
この間たくさんの人にお会いし、たくさんのご支援をいただきました。心から感謝しています。
未曾有の大震災と大津波から1000日。
 
これまでココロプレスで取材させていただいた中で、現在も「復興」に向けて努力されている方・被災地に思いを寄せてくださる方々から震災から1000日を前にメッセージをいただきました。

=================================
震災後、まちづくりアドバイザーとして気仙沼市のまちづくりを支援している、NPO法人神戸まちづくり研究所の事務局長の野崎隆一さん。
野崎さんには今年4月「復興」と「町づくり」についてお話をうかがいました。「復興とは、一種の社会実験だと思います。実験である限りどんな結果を出すかが大切です」と話す野崎さん。
野崎さんが感じている震災後1000日と気仙沼市について、メッセージをいただきました。


=================================
<気仙沼に通う日々>

 卒業して入った会社で同期だった友人が、気仙沼出身で今回の震災で家族を亡くしたと聞き、お見舞いにきたことから気仙沼に通う日々が始まりました。

 面瀬、鹿折、唐桑、大島の各地域の方、仮設住宅の方、地元支援者の方、多くの人と出会いお話を聞きました。
 関西では「東北の人は口が重くてしゃべってくれない」とか、「大阪人は声がでかくて厚かましいから嫌われている」とか言われました。
 しかし、実際に来てみると、男性も女性もみんなよく話しをしてくれます。地域によっては、女性の方が元気なところもあります。
 みんな、同じ人間だと大いに勇気をもらいました。

 復興の進め方については、阪神・淡路とは大きく違っていました。
 阪神では、被災後1ヶ月の段階で、行政が復興事業の都市計画決定を行い、被災者から火事場泥棒と言われ、まずは反対運動が被災者の意志表示でした。その後、まちづくり協議会方式が定着して住民主体による「まちづくり提案」が作られ、それを反映した計画の見直しが行われました。
 しかし、東日本では、法改正もあり、そんなにあわてて計画決定をしなくて良いことから、復興計画の概要がわかるまで被災者は「待ち」の状態におかれました。被災者が、復興の主体になるためにはこの期間がもったいなかったと感じています。

 とは言っても、復興にはまだまだ時間がかかります。
これからやらなければならないことは、いくらでもあります。
 少しでも被災者の方々が、誇りと自信を回復して、住み続けたいと思う復興まちづくりに向けてがんばれるよう、応援を続けていきたいと考えています。




気仙沼に通い続ける中で私は、メカジキ、ホヤ、戻りカツオ、秋サンマのおいしさに出会いました。気仙沼は素晴らしい町だと感じています。

                                             野崎 隆一
=====================================

阪神淡路大震災から間もなく19年。神戸市でも確実に高齢化が進んでいます。
東日本大震災の被災地も高齢化が加速していくと思います。復興のまちに住む自分たちの住みやすい町についてもっと積極的に住民が話し合っていく必要性を感じます。

4月に取材した時、野崎さんが「震災前とまったく同じ状態に町が戻ることはできない。けれど住民が住みやすいまちづくりはできる」と熱く語っていたのがとても印象的でした。

(取材日 平成25年11月29日)
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