Quantcast
Channel: 宮城県復興応援ブログ ココロプレス
Viewing all 1285 articles
Browse latest View live

老舗とうふ屋3代目。生きるための挑戦!(気仙沼市)

$
0
0
kaiiです。

「うちの自慢は『メカジキのハーモニカ』」。
嵩上げ工事のために移転し10月5日に、リニューアルオープンする「鹿折復幸マート」でも、お食事処「塩田」として9月3日から商売を再開した塩田重美さんは自慢の逸品についてこう話します。

塩田重美さんの鹿折マートの新店舗


「メカジキのハーモニカ」とはなんだと思いますか?
気仙沼には「モカの星」とか「バクライ」とか?言葉からは想像しにくいおいしいものがたくさんあります。

「ハーモニカ」とは、メカジキの背びれの付け根に伸びる骨と身の部分のことです。その外見から、昔から気仙沼では「ハーモニカ」と呼ばれ、非常に好まれ食べられてきました。
背びれは良く動く部位のため、締まった食感があるうえ、適度な脂が乗っています。火を通すとゼラチン質が多いのでプルプル感も味わうことができます。

絶対数の少ない「メカジキのハーモニカ」を時間をかけてしょう油をベースに煮込んだものが、塩田さん自慢の「ハーモニカの煮つけ」です。
メカジキを丹念に煮込んだ「メカジキのハーモニカ」のファンがとても多いと塩田さんは話します。

塩田さん自慢の「メカジキのハーモニカ定食」


平成24年3月に開店して1年は、夫婦二人三脚で試行錯誤の連続でした。



「私たちの店ではこだわりのメニューだけを提供して、来ていただいたお客さんを歓迎しています。メニューが多いと夫婦2人では手が回らなくなるので限られたメニューですが、お客さんには満足していただける内容の食事を提供しています」
と塩田さんは話します。





塩田さんは、東日本大震災前、気仙沼市北部の鹿折地区で「塩田豆腐店」を営んでいました。
塩田家の当主としては5代目。
豆腐屋としては3代目。戦後、祖父が営み始めた豆腐屋の暖簾を65年間大切に守り続けました。
東日本大震災の大津波で自宅兼豆腐の製造工場をすべて失いました。
豆腐屋を続けるには、大量の水を使うため給水と廃水の問題があり、仮設店舗の中で豆腐屋として商売をすることは難しいと判断し、豆腐を納めていた時から親しくしていた板前さんたちの協力を得て「お食事処」として再出発することにしました。



お食事処「塩田」のメニューは、同じ仮設商店街の他の店舗と重ならないように工夫されています。

==============================

以前の自宅があった場所のすぐ近くに建設された新しい仮設商店街「鹿折復幸マート」で営業を再開しています。


再開した新しいお店でも奥さんと二人三脚でがんばる塩田さんは 
「気仙沼の新鮮でおいしい魚と私たちの笑顔に会いに来てほしい」
と話していました。

震災後、商売替えをして「生きるため」に挑戦を始めた塩田さんの生き方を支える奥さんの姿に「一生懸命生きること」を教わった気がします。

(取材日 平成26年7月4日)

人懐っこさが継続力の源 ボランティアチーム『ボーズ』の活躍 (南三陸町)

$
0
0
石野葉穂香です。

9月13日からの3連休、宮城県はおおむね晴天に恵まれて、各地でさまざまな催事が行われました。
家族でお出掛けしたり、職場や仲間で芋煮会などを開いた方も多かったのではないでしょうか?

また、この連休中、沿岸の被災地には多くのボランティアの方々が訪れてくださいました。
東日本大震災から3年半が過ぎても、継続した支援・応援を続けてくださる方がたくさんいらっしゃいます。
心強く、頼もしく、温かなお力添え・・・を継続してくださるのは、本当にうれしく思います。

9月14日、南三陸町の農地の草刈りをしてくださったチームにお会いしました。
チーム名は「Volunteer Opportunity Society」。
頭文字をとって、略称は〝VOS〟『ボーズ』といいます。

9月14日、気温は25度を超えていましたが、
ボーズのメンバーは朝から草刈りに大活躍。
写真は佐々木さんの背中です
今回で、震災以来、なんと28回目の南三陸入り。
3年半の間、さまざまな被災地のニーズに合わせて、力を振るい続けてくださっています。

平成の森での草刈り作業。
刈った草は丁寧に撤去し、キレイな農園をキープします
「ボランティアを経験することで、参加者の人生が少しでも豊かになってほしい」――。
『ボーズ』は2010年4月、代表である佐々木元康さんが、カンボジア支援をしていた「JHP」というボランティア団体での活動を通じて知り合った友人たちとともに立ち上げました。
ところが具体的な活動がないまま休眠状態に――。

半年後の秋、佐々木さんは「ボーズを復活させるには、自分自身の経験値アップと視野の拡大が必要」と考え、身近な国内に目を向けます。
「当時、最も興味があったのが〝限界集落〟でした。『脱・限界集落』を目指して頑張っている地域・・・新潟県の池谷集落を知って、そこでボランティアをさせていただくようになりました」

そして2011年3月11日、東日本大震災が発生――。
佐々木さんはJHPのスタッフに誘われ、初めて東北入りしました。
場所はJHPがボランティアセンターの設立に尽力した南三陸町でした。

3月末、佐々木さんは、勤務先である大正製薬の社員とJHPの友人に呼び掛け、「ボーズ」としての第1回目のツアーを実施しました。
このときは「ボーズ」とは名乗っていませんでしたが、これが活動のスタートでした。
佐々木さんに誘われ、その後、すべてのツアーに参加されている紙夏磯(かみがそ)俊介さんも、この時が初めての南三陸入りとなりました。

活動は継続され、やがて団体名が必要であることになったとき、佐々木さんはこの活動とチームに「ボーズ」と名付けたのでした。

ボーズの皆さんが初めて南三陸にやって来たのは2011年4月。
震災から1カ月ほどしか経っていなかった南三陸町は、
啓開されたばかりの道を、かろうじて車が走れるようになった頃でした。

同じく2011年4月の写真。
おそろいのTシャツは別のボランティア団体から借りたものだそうです
震災から約1カ月目に訪ねた南三陸町。町の景色は、佐々木さんたちはの目にどんな風に映ったのでしょうか。
「まだたくさんのガレキに埋もれていました。電信柱も倒れ、急いで片付けられた道がかろうじて通じているような状態で、なんだか映画の中にいるようでした。『ニュースは本当だったんだ』って・・・」。

『ボーズ』のメンバーは、ガレキを片付け、スコップをふるって側溝の泥をかき出し、支援物資を仕分けし、夏が近づくと草を刈ったり・・・と、さまざまな活動を行いました。

「避難所の仮設トイレをお借りしたとき、汚れているのを見て、『ああ、避難している人たちは、ホントにしんどい生活を強いられているんだな』と感じましたね」

代表の佐々木さん。2011年4月。南三陸町のボランティアセンター前にて。
遠くから来ていただいても、晴れた日ばかりとは限りません・・・。
当初はボランティアセンターを通じて、さまざまな被災地ニーズに対応していましたが、
「現地の方々と直接ふれあいたいって思うようになりました。ボラセン経由では、皆さんのお話を直に伺えるような機会は少ないんです。それを残念に思ったり、寂しいと感じているボランティアさんって、案外多かったんじゃないかなって思います」

2011年7月の泥出し作業。作業中の様子を初めて撮影した写真。
このころは「町の人びとを撮影することは不謹慎だと考えていた」そうで、
周囲に町の方がいないことを確認してとった写真とのこと。

昨夏のこと。佐々木さんたちはボラセン経由でボランティア活動を行いましたが、その日の天気予報は〝大雨〟--
『ボーズ』のメンバーはテント泊の予定だったのですが、見かねてメンバーに声を掛けたのが、当時、愛知県豊川市から派遣職員として南三陸町役場に赴任していた篠原英明さんでした。

メンバーは篠原さんが当時借りていたアパートへ泊まり、篠原さんから、さらに町の人たちを紹介されるなどして、南三陸町での〝つながり〟を広げていくことになりました。

2011年8月の草刈りボランティア。
このときは3日間でかなり広大な面積を刈ってくださいました。
出会った他のボランティアさんたちとも、熱い絆が生まれました

そして、そのときの写真を使って、JHP学校をつくる会のイベントでも講演。
(左から二人目が佐々木さん)
取材させていただいた9月14日は、南三陸町歌津にある「平成の森仮設住宅」の近くにある畑の草刈りでした。この活動をつないでくれたのも篠原さん。
この日はまた、今春、愛知県に帰られた篠原さんも、約半年ぶりに南三陸へ〝帰って〟来てくださいました。

畑は、南三陸町役場生涯学習課長である及川庄弥さんの奥様の実家の畑。
「休耕中で草ぼうぼうだったから、仮設住宅の人たちに、野菜づくりしながら交流の場としていただけたらと、提供しました。高齢の方が多くて草刈りはたいへん。こういうふうに力を貸していただけるのはありがたいです」(及川さん)

佐々木さんもまた、
「町の人たちとの繋がりができて、それがどんどん繋がっていけるのがうれしいです。知らない同士がここで出会って、一緒に汗をかけるのがいい」

そして、今年、2014年7月。伊里前の「マルタ拓洋水産」さんを訪問。
「志津川湾夏まつり福興市」 http://kokoropress.blogspot.jp/2014/08/blog-post_30.html には出店もされました。
メンバーは固定ではありません。
これまでに延べ100人以上の方が『ボーズ』のメンバーとして南三陸入りされました。
「マルタ拓洋水産」さんの記事は・・・
 http://kokoropress.blogspot.jp/2014/05/blog-post_5197.html

28回目の南三陸入り。
震災から3年半が過ぎて、佐々木さんは、町の変化も感じていらっしゃいました。

「復旧から復興に動き始めたんだなって感じたのは、実は今年の7月です。外を歩いている人が増えて、町全体が活気づいてきたなぁって思いました。たくさんの重機が動いていて、町のカタチも変わりつつある。ガレキを片付けていた頃から思えば、ああ、僕らもこの町で活動を続けてきてよかったと思います。続けてきたことがムダじゃなかった。そう思えます」

南三陸町の魅力もお話しくださいました。
「南三陸町は海がキレイで、食べ物もおいしい。また、気持ちのいい人が多いですね。この町や、ここに暮らしている人たちと関われることが楽しいし、逆に元気をもらって帰れるんです」

28回目の南三陸町入りとなった2014年9月14日(取材日)、「平成の森」での草刈り。
後列左より、隊長こと兒島さん、勝野さん、及川課長さん、松本朋恵さん、
前列左より、伏木さん、神夏磯俊介さん、佐々木元康さん、江原さん、篠原英明さん
 
そして、『ボーズ』の活動は、まだまだ〝継続中〟です。

「高校生も僕らの活動に参加してくれています。年齢や性別は問いません。みんなに南三陸をもっと知ってもらいたい。もちろん僕ももっと知りたい。
そして、ボーズの活動に参加した皆がこの町のファンになって、一人ひとりが「ボーズ」のようにたくさん友達を誘って南三陸を訪れてほしいと願っています」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
震災は、会いたい人にもう会えない・・・という悲しみを生みました。
でも、その悲しさを和らげてくれる新しい出会いもまた、間違いなく生まれています。

被災地の人たちにとっては、いつまでもなかなか慣れることのできない〝復興という変化〟・・・。
でも、〝たくさんの人とつながっているんだ〟という実感を、こうして届けていただけることは、肩を抱いてくれるようなやさしさ。

いつも笑顔で町にやってきて、明るくって、元気で、パワフルで、町の人たちの気持ちに寄り添ってくれる・・・。

そんな〝人懐っこさ〟こそが、彼ら『ボーズ』の〝継続パワーの源〟なのかな・・・と感じました.

(取材日 平成26年9月14日)

悲しんでばかりはいられない~「やまもと語りべの会」[中編](山元町)

$
0
0
こんにちは、にゃんこです。

宮城県の南部、山元町で“山元案内人”として震災の記憶を後世に語り継ぐため、また山元町の魅力をたくさんの人に伝えるため「やまもと語りべの会」を発足し、被災地ガイドなどを行っている会長の渡邉修次さん


2014年8月下旬、被災地体験学習のため山元町を訪れた館林市立第一中学校の生徒さんたちと一緒に、被災地ガイドに参加させていただいた時の様子を、前編に続きお送りしたいと思います。

前編はこちら。

2014年10月3日 金曜日
山元町の未来のために~「やまもと語りべの会」[前編](山元町)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/10/blog-post_3.html


私たちが降り立った場所は、旧山元町立中浜小学校

この中浜小学校は、海岸線から約400mと海から非常に近い場所に建っています。

左手の奥が海側になります。この外観だけでも津波の恐ろしさが伝わってきます

屋上からの景色。海はもう目の前。今は穏やかな海がどこまでも広がります

震災当時のまま…そのまま残されている校舎。
非常に危険な状態のため普段は立ち入り禁止となっています。
この日は自己責任と許可を得て入ります。

見学にあたり渡邉会長からとても大事なルールが伝えられました。

「壁は崩れ、天井からは鉄筋などいろんなものがぶら下がっています。ガラスも割れたまま散乱しています。非常に危険を伴いますので、ここからはヘルメットを着用してもらいます。

バスの運転手さんにラジオをつけていただくようにお願いしました。見学中に何かあればクラクションを鳴らしてもらいます。そしたら皆さんはすぐにバスに戻ってきてください。そして避難所に移動します。

みんなが助かるためには、自分の命は自分で守る。とにかく急いで戻ってくること。それが条件です」

一瞬にして車内がピリッとなりました。
そうここは、大津波が襲った場所。私自身、その危機感が薄れてしまっていることに気が付きました。
もし今ここで地震が、津波が起きれば…。
もう津波を遮るものは何もありません。海からのそのままの勢いで襲ってきます。

「いつ何があるかわからない。だから想定しておくことが大切なんだ」という渡邉会長の言葉が胸に響きました。


校舎の階段の上、屋根の下の部分に青い表示板があるのが分かりますか?
ここの位置が津波の高さです。鉄筋の柱でさえも簡単に壊してしまう津波の威力のすさまじさが分かります

当時、中浜小学校の全校生徒は59名、先生は14名。
平成元年に建てられた校舎は2階建で、屋上はありません。
震災時は、避難してきた保護者や地域の方を含め90名がいました。

近くの避難所までは徒歩約20分。
津波到達まで間に合わないと考えた校長先生が避難先に思い付いたのは、普段は使われていない屋根裏の倉庫でした。

「約20分の間に大きいもので4回の津波が小学校を襲いました。第2波から約12m。2階の天井まで到達したんです。津波は向こうの山にぶつかり、また戻ってくる。行きの津波で壊され、帰りの津波でさら大きく壊される。通常避難場所に指定している体育館も大破しました。

ここは周りよりも盛土していて高いため、津波が去った後は水が引きました。でも学校の周りの家はすべて流されて何もない。海の中に学校だけがポツンと残された陸の孤島状態だったんです。

校長先生のとっさの判断で屋根裏倉庫に避難した90名は奇跡的に全員無事でした。
 
もちろん食料なんてない、水もない。その日の気温は-2℃。天気は雪。温かい布団だってない。翌朝6時に自衛隊のヘリに発見されるまで約15時間、全員で必死に耐えたんです」


「津波の威力は本当にすごい。体重が100kgの人は50cmの津波で簡単に倒されてしまうんだよ」

昇降口。下駄箱も津波で流されました。
天井からはいろんなものがぶら下がり、いつ何が落ちてきても不思議ではない非常に危険な場所です

大津波が運んできた木の根やがれきも、まだそのまま残されています

震災前と震災当時に撮影された写真を見ながら被害の様子を語る渡邉会長。
写真右奥に見えるのが、資料室にある屋根裏部屋へと続く階段です

津波が去ったあとの中浜小学校。周りは海と同化し、小学校だけがポツンと残されています。
周りに集落があったことが想像できますか? 津波の恐ろしさが如実に表れています

「屋根裏部屋へ行くにはまず資料室の中にある階段を上ります。ここは今は鍵がかかり立ち入り禁止のため、当時のままになっています」

立ち入り禁止の理由、それは―

「今中浜小学校は、震災遺構として残すかどうか地域住民の間で話し合いが行われています。現在は住民の7割が賛成。中学生以上は8割が賛成しています。そのためここを入室禁止にして、そのまま残しているんです。今日は特別に入室許可をもらいました」

渡邉会長のご意見は?

「僕は賛成です。震災は若い命もたくさん奪っていきました。今も生きて頑張っていたんだろうなと思うと・・・。だからこそ防災教育のために残したい。取り壊してしまったら伝えるものが何もなくなってしまうんです。風化されてしまう。未来のために残さなければいけないと思っています」


ここが90名の命を救った屋根裏部屋です。広さは約200平方メートル

「津波が壁にぶつかるときの衝撃、音、振動―。すごく怖かったと思います。90名の避難者たちは真っ暗な倉庫の中でそれを体験していたんです。それがどんなものだったのか―。体験した者しか分からない。みんなで声を掛け合って乗り切ったんです」

「普段は倉庫として学芸会で使う衣装などをしまっていた場所でした。段ボールを敷いて寝床代わりにしたり、少しでも寒さをしのごうと衣装をかぶったり。散乱しているのはそのためです」



「震災遺構として残れば、震災の体験を100年、200年後にも伝えることができる。こいうことがあったんだと目に焼き付けてほしい」


中浜小学校と海の間に立つ樹齢約400年のケヤキ。家のイグネとして立っていたそうです

「このケヤキにたなびいているのは、全国、世界からのメッセージが書かれた3,000枚の黄色のハンカチです。中には山元町の人たちが書いた感謝のメッセージも含まれています。

津波で何もかも流されてしまった。でも支援をいただいたり、山元町に来ていただいたりと、たくさんの方々との出会いが今の私の一番の宝物です。それを今も大事にしています。形あるものではなく絆が生まれたことが、本当に最高の宝物です。感謝です。

でも当時は、感謝の言葉しか言えなかったんです。感謝したいけど何もお返しができない。
だから『私たち元気だよ』と伝えること、そしてここまで動けるようになったことを見せたかった。私たちが自立することが唯一の恩返しだったんです。

皆さんも自分が同じ立場になったどうするか、これから起きるかもしれない災害のために考えてほしい」



「ここは今後、全国で東日本大震災に匹敵する津波が起きたときの原点になります。各学校、地域によって逃げ方が違います。場所によって津波の高さも違う。例えば休日に一人だったら? 将来住んだ場所がもし海に、川に、山に近かったら? どうするのか。

自分の命を自分で守らないとダメなって思った。
山下中学校で4名の生徒を亡くして今更ながらに思っています。
一人の生徒はおばあさんを助けに戻って亡くなってしまいました。その生徒のお母さんも姉妹も、同じようにおばあさんの命を守ろうとして命を落としてしまいました。

みんなが大人になった時にどうやって助けるの?
自分が助けに行くのではなく、やはり一人ひとりがまずは自分の命は自分で守るということ、その後はどう助けるかを考えて行動していけば、もしかして助かったかもしれないと今私は思っています。

だから語りべをやっているんです。自分の命は自分で守るということを伝えたい。悲しんでばかりではいられない。伝えていかないと。黙ってたら通じない。言葉にして話すことによって風化が防げる。災害にあったときに思い出してほしい。

助けるものと助けられるものがいる。立場がどうなるのかは誰にも分からないのです。
どうしたらいいか今でも悩んでいます」


バスは解散場所となるJR常磐線の旧山下駅へ戻ります。
ここでは津波によって甚大な被害を受けた渡邉会長のご自宅の写真を見せていただきました。

がれきに押しつぶされてしまった渡邉会長のご自宅。
この地域は2種危険災害区域に指定されているため、自宅を再建する際は1.5mのかさ上げが必要なのだそうです


(後編へ続く)



(取材日 2014年8月21日)

復興の槌音が響く町(気仙沼市)

$
0
0
kaiiです。

東日本大震災から3年6カ月。
秋風が吹く気仙沼の町も確実に復興へと歩みを進めています。

ここに何があったのか?
この場所に何が建っていたのか?

少しずつ思い出せなくなってきました。

東日本大震災の大津波と津波火災で大きな被害を受けた気仙沼市鹿折地区も急ピッチで土地の嵩上げ工事が進められています。

気仙沼市鹿折地区は土地の嵩上げ工事が進められています
うず高く土砂が積み重ねられています
(平成26年9月18日撮影)
震災前、水産加工場などが建っていた海岸地域は、震災後、地盤沈下したため、大雨や高潮などで浸水していました。

嵩上げ工事前の土地は満潮時には冠水することがしばしばでした
(平成24年10月13日撮影)
その地域の嵩上げ工事も進み、新しい区画に工場が建ち始めました。

新築工事中の缶詰工場
(平成26年9月18日撮影)
大型漁船の第18共徳丸が打ち上げられていた場所の近くには、町の復興の様子を見ることのできる見学台が2年間限定で設置されました。

震災から1年7カ月後の鹿折地区には大型漁船
第18共徳丸が打ち上げられたままになっていました
(平成24年10月13日撮影)

第18共徳丸が打ち上げられていた場所の近くに設置された
鹿折見学台
(平成26年9月18日撮影)
工事現場では、大型トラックや重機が慌しく動いています。

鹿折唐桑駅付近の工事現場の様子
(平成26年9月18日撮影)


=======================

大島架橋の建設、三陸自動車道の整備が進められている地域では、山林の伐採と住居の移転のための解体工事が進められています。

集団防災移転と大島架橋アクセス道の工事が進む地域は山林の伐採が進められています
(平成26年8月24日撮影)
新しい土地を開発するために大型重機やトラックが動くことで舞い上げられるホコリに、近隣住民からは「洗濯物を外に干せない」などのクレームが上がり、散水車での散水作業が頻繁に行われています。

午前4時半頃から、工事現場では作業が始められています。

被災して仮設住宅で生活している人たちは、1日も早く安心して暮らせる住居へ移住することを願っています。

=============================
復興へと向かう町。変わりゆく風景。

漁船の係留場の様子
(平成26年8月24日撮影)
生まれてから同じ町で暮らしていながら、震災前の町や地域の記憶が薄れています。

少しずつ風景が変わっている気仙沼魚市場付近の様子
(平成26年8月24日撮影)

そして確実に高齢化が進んでいること、人口が減っていることを感じています。

==========================

私の95歳の伯母がぽつりと言った
「おら(私は)こんなところ(仮設住宅)からあっち(彼の世)さぁ、逝きたくないな」
高齢の方々は私たちが思うよりも切実に伯母の様な思いでいるのだと思います。

復興の町。その町が人の笑顔のあふれる町であることを祈っています。

(取材日 平成26年9月18日)

建設が進む仙台市通町復興公営住宅(仙台市)

$
0
0
高層階へ、絶え間なく物資を運ぶクレーン(仙台市通町復興公営住宅)

ザーリャです。
震災から3年と半年が経過し、被災各地では徐々に災害公営住宅の建設が進んでいます。

9/10、最新の宮城県内の災害公営住宅の工事進捗状況(8/31現在)が発表されました。


宮城県の災害公営住宅の整備状況は、以下の数値となっています。

計画戸数・・・・・・・・・・・・15,561戸
事業着手戸数・・・・・・・・12,306戸(進捗率 79.1%) 

うち、工事着工戸数・・・ 6,991戸(進捗率 44.9%)
うち、工事完成戸数・・・ 1,751戸(進捗率 11.3%)


各地では平日休日を問わず、復興に向けて懸命な工事が行われています。しかし、完成している災害公営住宅は、全体に対してまだ、11.3%。決して高い数値ではありません。


今日ご紹介するのは、建設が進む、仙台市通町復興公営住宅の状況です。
着工は25年10月。27年3月の完成を予定している地上14階建ての高層住宅です。

いくつかの地点を選び、今年平成26年の6月と9月に撮影した写真を並べてみました。


26年6月 仙台市通町復興公営住宅
26年9月


掲示されている建築計画のお知らせ

26年6月
26年9月

26年6月
26年9月


26年6月
26年9月
26年6月
26年9月
26年6月
26年9月 周辺からも、その姿を確認できるようになりました

工事に携わる皆さんの努力によって、建物が大空へ伸び続けていく様子をご覧いただけたと思います。

=========
被災した多くの方々が、いまだに不自由な生活をされていますが、一方では、震災の記憶の風化が進んでいるとも指摘されています。必要なのは、私たち一人ひとりが、これからも被災地の現状を「知り続けよう」とする努力です。

ココロプレスでは、これからも姿を変えて行く復興の現場の状況を、そして新しく作られてゆくコミュニティの様子をご紹介していきます。

(取材日 平成26年9月20日)

自分の命は自分で守る~「やまもと語りべの会」[後編](山元町)

$
0
0
こんにちは、にゃんこです。

宮城県の南部、山元町で“山元案内人”として震災の記憶を後世に語り継ぐため、また山元町の魅力をたくさんの人に伝えるため「やまもと語りべの会」を発足し、被災地ガイドなどを行っている会長の渡邉修次さん


2014年8月下旬、被災地体験学習のため山元町を訪れた群馬県館林市立第一中学校の生徒さんたちと一緒に、被災地ガイドに参加させていただいた時の様子を、これまで2回にわたりお送りしました。

前編、中編はこちら。

2014年10月3日 金曜日
山元町の未来のために~「やまもと語りべの会」[前編](山元町)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/10/blog-post_3.html

2014年10月6日 月曜日
悲しんでばかりではいられない~「やまもと語りべの会」[中編](山元町)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/10/blog-post_6.html








被災地ガイドを終えて、渡邉会長にお話を伺いました。

参加者に伝えたい想いは?

「やはり一番は同じような被災をしてほしくない。そのために風化させないこと。今、全国でいろんな災害が起きていますが、その災害に合わせて自分の命は自分で守ることを徹底していくことだと思います。小・中・高校、一般、行政など対象に合わせたマニュアルを作って被災地ガイドの中に入れ込んでいます」

これからの夢は?

「個人的には、孫と一緒に住めるようになったので、孫と死ぬまで楽しく過ごすことかな。これが私の力になっています。

また、弱者を一人でも少なくしていくことです。自立をできていないことが弱者だとすればそれを少しでも減らしていきたいと思っています」


「感謝」 今までの支援でこれまでになりました
やまもと語りべの会 渡邉修次


「お互い自分の命は自分で守る。次に周りの人をどう助けられるか考える」
被災地ガイドの中で渡邉会長が何度も繰り返した言葉です。

岩手県三陸地方に古くから伝わる言葉に「津波てんでんこ」という言葉があります。
「てんでばらばらに」という意味で、「人のことはかまわず、各自ばらばらに一刻も早く高台に逃げて自分の命を守れ」ということなんだそうです。

この教訓に基づき日頃から避難訓練を続けていた岩手県釜石市内の小中学校。
東日本大震災の際には、99.8%の生存率となり「釜石の奇跡」と言われました。

肉親さえもかまわず―。
初めて耳にしたときは、正直少し残酷な印象を受けました。
私にはそんなことができるのだろうか。

でも、家族全員で「てんでんこ」を共有し合うことで、「きっとみんなもちゃんと逃げているはず」という安心感や信頼感が生まれるのではないか。
きっとそれは自分にとってとても大きな力になる。そう思いました。


私が被災地ガイドで同行させていただいた、群馬県館林市立第一中学校

「被災地の復興は現在の日本の大きな課題。そのような状況の中で、次代を担う子どもたちが将来の日本のために東日本大震災とその被災地から学ぶべきことはたくさんある」と髙柳悦夫校長。

昨年(2013年)から希望者を対象に、亘理、山元町を訪れ被災地体験学習を実施しています。
今回は被災地ガイドほか、NPO法人「亘理いちごっこ」によるワークショップ、トマト農家の収穫のお手伝いなども体験したそうです。

実際に被災地を訪れて生徒たちは何を感じ、どんな印象を受けたのか。
渡邉会長の元に届いたお手紙の中からいくつかご紹介したいと思います。

======
「山元町を訪れる前は、津波の痕跡はほとんどなくなり、普通の町へと復興しているかと思っていました。そして津波の跡や建物は今はもうなくなっていると思っていました。中浜小学校を訪れた時、テレビや新聞で見ていたものとは違って迫力があり、これが本当の津波の恐ろしさなんだと思いました」

「大きな津波が来て多くの死者が出た、家が壊された、流されたなど簡潔なことしか知りませんでした。群馬県は海のない県なので、水の怖さも全然知りませんでした。でも中浜小学校のことを聞いた時、もし自分が同じ立場になっていたらと思うととても怖かったです。そして、一番に人の心の温かさや強さ、人の知恵の素晴らしさに感動しました。また、家族の大切さにも気づくことができました」


「津波に関わらず、災害があった時は『自分の命は自分で守る』ということをあらためて感じることができた」


「中浜小学校を震災遺構として残してほしい。あの学校を見て渡邉会長のお話を聞いて、衝撃を受け、今まで以上に震災を深く考えてくれる人が増えると思うからです」


「中浜小学校の話を聞いて、今でも当たり前のように生活している、安心できる家がある、大事な家族や仲間がいるということはとても幸せなことなんだとあらためて感じました」





こちらは生徒と一緒に参加しておられた保護者の方の感想です。

「この地に来るまで知らなかった事の多さに気づき気づかされた一日でした。山元町や亘理町の存在、そして震災遺構という言葉。残すことにより後世に伝えるという意味もあるが、とどめておきたくないという考えもある…。中浜小学校を見学して津波の威力、天災の計り知れない恐ろしさに人にはあらがえないものがあるということをあらためて感じました。『今、自分の与えられた場をどう生きるか、どう動くか』を今日は学べた気がします」


被災地体験学習を通して子どもたちが感じたことや学んだことを、髙柳校長にもお話を伺いました。

「東日本大震災を契機として、自然災害に対する備えや震災が発生した時にどう行動するかなど、防災教育の重要性があらためて認識されるようになりました。災害発生時にどのように行動して命を守り、どのようにお互い助け合うかは、子どもたちが身に付けなければならない大切な事柄だと思います。

生徒たちの感想からは、防災に対する意識が喚起され、津波により被災した人々に対する共感的な理解が生まれていることが分かりました。また亘理町における体験では、生徒たちは『被災地を支援したい』『現状を周りの人に伝えたい』など支援の大切さ、助け合うことの大切さ、経験を伝えることの大切さを学んでいたようです。


震災のことを教育に取り入れ、防災、自然についての学習、道徳の教材、さらには地域社会の課題についての学習などとして活かしていくことは、将来の日本を担う子どもたちの教育にとって必要なことだと思います。そうすることが、同時に被災地の復興に向けての歩みを加速することにつながると考えます。また、そのことは教育者としての私たちの使命であると思います」


---------------------------------------------------------------------------------
館林市立第一中学校の生徒の言葉にもあった
「実際に足を運んでみなければ分からない」

私も震災後初めて山元町を訪れた一人です。
この言葉に尽きると思います。

地元の方々の本当の声を、その土地の声を、もっとたくさんの方に聞いていただきたいと思います。
ぜひ山元町を訪れてください。


JR常磐線旧山下駅の隣に、震災前の山元町の様子、そして震災後の様子を伝える写真館
「みんなの写真館BRIDGE」があります。

開館時間は7時~18時頃。入場無料です。詳細は、みんなの写真館向かいの「橋本商店」まで

地元の方々が撮影した震災前の風景や、震災後の復興状況などの写真が展示されています。
山元町について、そして震災について知ってもらうための貴重な資料です。
ぜひこちらにも足を運んでみてください。




(取材日 平成26年8月21日)

「新しい田舎をつくろう」(気仙沼市)

$
0
0
kaiiです。

稲穂が頭をを垂れ新米の季節になりました。今年のお米の出来は「やや良」とのこと。新米をいただくのがとても楽しみです。



唐桑町小長根(こながね)の田んぼは
稲穂が頭を垂れ刈り取りを待つばかりです
(撮影:平成26年9月10日)
気仙沼市唐桑町の千葉正樹さんは会社員として販売の仕事に携わっていましたが、平成18年に会社を辞め、就農しました。
日本の食料自給率の低さと安心安全な食料について考えていた千葉さんは、お父さんが亡くなったのを機に、実家を継いで農業に本格的に取り組むことにしたのです。
お父さんが亡くなった後、農地を荒らすことも考えましたが、農地はいったん荒らしてしまうと耕作地に戻すまでに時間と労力が必要です。
千葉さんは無理をしてでも農業を続けることを選択しました。

農業だけでは生活していくことが難しいので海産物、健康食品の販売、シーカヤックや岩場トレッキングのインストラクターとしての活動をしています。

おいしいお米つくりのサポータを募集している千葉正樹さん
千葉さんは、農業を通じた交流をすることで都会の人に「新しい田舎をつくる」取り組みをしようと考えています。
千葉さんの農地で育てられた「米」「豆類」などを使って「みそ」などの加工品をいっしょに作ったり、唐桑の名産品「大唐桑」の葉を使ってお茶を作るなどの体験学習も企画の中のひとつです。

4月から11月ごろまでの農繁期に田植え、草引き、稲刈りなどの農業のさまざまな経験を通じて自分の食べるものについて考える機会をもってほしいと考えています。

唐桑名産「大桑茶」の原料になる大唐桑の畑
千葉さんの考えの根底には、東日本大震災の時、沿岸地域に住んでいた人たちの住居が流失し「食料」がなくて困っている姿を目の当たりした経験も大きな影響を与えています。
その時の様子を思い出しながら、「食料が自給できるということのありがたさを実感した」と千葉さんは話します。

自然豊かな唐桑町の風景
奥に見える「早馬山」は
唐桑の母なる山です
「新しい田舎をつくろう」と考える千葉さんには、核家族化が進んで帰れる田舎のない都会の人たちのために、気軽に帰れる田舎として唐桑を帰れる場所にしてほしいという願いと、災害などの緊急時に一時避難先として安心して帰れる場所をつくりたいという思いがあります。

丹精込めて育てられる大豆はシカの食害を受けやすいため
網の中で育てられています
農業を通じて「新しい田舎をつくろう」。
千葉さんは、多くの人の交流を促し、支え合う社会を作りたいという願っています。

千葉さんの自宅の庭に咲く白萩
東日本大震災の大津波は、住居や財産だけでなく生きるために必要な食料や飲料水までも奪いました。
お金さえあれば完結できる生活に慣れていた私たちに「食べるもの」がないという初めての経験もさせました。
私たちはその経験を震災から3年が過ぎ少しずつ忘れかけています。

最近、日本中で頻発している大きな地震や災害のニュースを観ると「災害に備える」ことについて新しい目線でもう一度考える時が来ているのかと思います。

「あたらしい田舎」

千葉さんの共助の考え方に共感しながらお話を伺いました。

(取材日 平成26年9月10日)

失われた「闇市」。そして「復興市場」へ(塩竈市)

$
0
0

桟橋には、羽を休めるたくさんのウミネコ。港の沖合には、緑の島々が重なり合い、たくさんの船が行き交っています。真っ青な海を渡り、観光客を迎える心地よい海風。しばし、取材を忘れて、その美しい風景を眺めました。

ザーリャです。
宮城県塩竈市にある松島湾観光の拠点、旅客船ターミナル「マリンゲート塩竈」。その西側の「みなと広場」に、「しおがま・みなと復興市場」(塩釜市海岸通仮設施設)はあります。オープンは2011年の8月。宮城県内の仮設店舗商店街としては、最も早く設置された仮設商店街です。鮮魚店や食品、衣料など15の店舗が向かい合い軒を連ねます。

その復興市場で代表を務めているのが、佐藤鮮魚店佐藤秀治さん
震災前はJR仙石線本塩釜駅からほど近い、「塩釜海岸中央鮮魚市場」(通称「闇市」)で鮮魚店を営んでいました。お店は佐藤さんのご両親が、戦後間もないころに開いたもの。佐藤さんも、高校生の時からお店を手伝い、以来50年以上にわたって魚一筋で生きてきました。

「お客様には心を込めておもてなししたい」と話す佐藤秀治さん

「一度立ち寄ってくれたお客さんがね、応援したいと言ってね、遠くからまた来てくださるのです。本当にありがたいことです」

昭和35年(1960)のチリ地震津波から再建した「闇市」の店舗も、今回の東日本大震災の津波で再び被災し、周りの店舗と共に取り壊されました。最盛期には20軒以上の鮮魚店が軒を連ねた「闇市」の跡地は、震災後に塩竈市が進める「海岸通地区市街地再開発事業」の予定地となり、更地のままの状態が続いています。

「店舗がここに移転したことを知らないお客様がね、以前のお店のあった闇市に来てね、驚く人もいますよ。すっかり、何にも無くなってしまったからね」

◆直感した、津波の到来
東日本大震災の発災当時、いつものように店舗にいた佐藤さん。その異常な揺れに、「津波の到来を直感しました」。迷うことなく、お店はそのままで、藤倉地区にある自宅へ家族と共に避難したと言います。多くの方々が、かつてのチリ地震津波を経験していた市場の皆さん。その避難は、「非常に早かった」と佐藤さんは振り返ります。

震災の発生から1時間16分が経過した16:02。塩竈市の本土側に、高さ1.5m~4.8mの津波が到達し、市街地中心部を飲み込みました。佐藤さんが、再びお店に入れるようになったのは、津波の去った2日後。市場の様子は、「とても手が付けられる状態ではなかった」と言います。

かつて「塩釜海岸中央鮮魚市場」(通称「闇市」)があった跡地。
今もほとんどが更地になっています
◆再び歩き出すために
「仮設店舗ができるまで、さまざまな後片付けに追われました。それでもお客様から商品の注文があれば、何とかして手に入れて、発送していました。手に入らないものは、仙台の市場まで出てね、探しました。お客様がね、離れてしまいますからね」

仮設店舗ができるまでの間、車での移動販売も行いました。営業場所は「あそこでやればいいよ」と、お客さんが教えてくれました。干物などの調理が簡単な商品が良く売れたそうです。

そうして迎えた6月。「しおがま・みなと復興市場」のプレハブ店舗が建設され、準備ができた店舗から、入居が始まりました。営業を再開するためには、流失した機材を買いそろえなければなりません。物不足が続く中で、入居する皆さんには大変な苦労があったと言います。佐藤さんの営業準備が整い、本格的に営業を再開したのは8月でした。すべての店舗が入居した全面オープンは、10月を待つことになりました。

再開した当初は来客数は非常に少なかったのですが、報道や口コミなどで復興市場の存在が知られるようになると、徐々に来客数は伸びていきました。仕事やボランティアで塩竈を訪れた人々が、復興支援の一環として、復興市場を訪れました。

「ここに来てよかったのは、毎日、お客さんに会えるということだね。お客様に、なんだかんだで勇気がいただけます。おかげさまで、私も健康に働かせていただいています。お客様とのコミュニケーションを大切にしてね、おもてなししてね。私はね、それが一番いいと思うのですよ」


◆「復興市場」―減少する来客者数と、移転先の問題
復興に向けて、さまざまな試練を乗り越えて営業を再開した復興市場の皆さん。しかし、震災から3年半が経過し、さまざまな問題にも直面しています。

「一つには、お客様の数がだいぶ減ってしまったということですね」

震災後の2年間は、「復興支援」の活気にあふれていた復興市場。3年目を経過したころから、次第に来客数が減少し、経営も厳しくなってきていると言います。生活を建て直し、力をつけるための仮設店舗の営業が、商店の努力だけでは乗り越えられない「震災の記憶の風化」という現実にさらされています。

また、「しおがま・みなと復興市場」には、もう一つの大きな課題があります。
復興市場の営業期限が、来年平成27年の1月15日で終了するという事です。

復興市場に出店しているそれぞれの店舗は、その期限までに、自力で代替え地を見つけて移転しなければなりません。「今後どうなるのか、まったく先が見えない」と佐藤さんは言います。

「本当に大変になるのは、今からだと思っています。まだそれぞれの商店の代替え地も決まっていませんし、移転には新たな土地と資金が必要になります。しかし、被災した商店には、それだけの体力がまだ付いていません。街の再開発も進まない中で、個々の商店が独力で移転再開するということは、今はまだ大変難しい時期だと思うのです」

現在の「しおがま・みなと復興市場」のある「みなと広場」は、市場の閉鎖の後、防潮堤と高架式の津波避難デッキが建設される予定になっています。

できることであれば、現在の復興市場のように、罹災した店舗が集まって、営業を続けていきたい。「しおがま・みなと復興市場」の皆さんはそう考えています。

そのためには、何より、営業をするための土地が必要です。

「そのような場所を提供していただければ、皆移りたいのです。場所さえあれば、私たちは、まだまだできる。私たちが復興するためには、やらなければいけないことが、まだいっぱいあるからね」

復興へ向かうための道が、今も模索されている復興市場。
佐藤さんをまた再び訪ねる約束して、ウミネコが鳴く復興市場を後にしました。


(取材日 平成26年9月11日)

ダンスの先生が女川町にやってきた(女川町)

$
0
0
こんにちは、Chocoです。
東北の寒い冬に向けてじわじわと気温が低くなってきている今日この頃です。
スポーツの秋!
先月、第17回アジア競技大会が韓国で開催され、日本勢も日頃の練習の成果を大会で発揮していました。

そんな中、女川町にダンスの先生がやってきました。

今回は、スポーツの秋にちなんで、2人の若いダンスの先生と女川の子どもたちの出会いを紹介します。

============
8月末、
女川に2人のプロダンサーがやってきました。

千葉県出身のCHIHARUさんと神奈川県出身のC-ONE(しおね)さん

目的は、子どもたちにダンスを教えることです。

「子どもたちにダンスの楽しさ、体を動かす素晴らしさを伝えたい」
そう語るのは、19歳でダンス歴12年のベテランダンサーのC-ONEさんです。
2年前の3月11日前後、C-ONEさんは初めて東北を訪れ、被災地の現状を目の当たりにしたと言います。
「私が見た景色を両親に見せたいと思い、その年の夏に同じルートを回りました」
当時、高校生だったC-ONEさんは、被災地へまた行こうと思っても学校生活もあり、なかなか再び行くという機会がありませんでした。
「連絡が取れていても実際行くことができず、2年が過ぎてしまいました。
だから卒業して、絶対行こうと考えました」


「自分には何ができるか」
被災地を訪れる人たちの多くが自分自身にそう問いかけます。
C-ONEさんの場合は、ダンスでした。
「ダンスは、自分にとって楽しいものでもあり、自己表現ができるもの」
だからこそ、女川でダンスを教えたいという強い想いがありました。

そして、その想いに賛同した友人のちはるさんと共に今回、女川を訪れることになりました。
「自分がダンスをやっていて楽しいから、それをみんなと分かち合えたら良いという思いで女川へ来ました」
と話す、ちはるさんはC-ONEさんと高校の同級生でダンス歴は15年でこちらもベテランダンサーです。
現在、ダンスの大会やオーディションに出場するだけでなく、子どもたち向けにダンス教室を開いたり、インストラクターとして活躍しています。
東北は初めてというCHIHARUさんは、テレビでしか見たことがなかった被災地を実際に自分の目で見たとき、ジーンとさまざまな感情が込み上がってきたと言います。
「行く場所では、『来てくれて、ありがとう』と声を掛けてくれる人や、
とても親切にしてくれる人たちがたくさんいました。
本当に、地元の人たちの温かさを感じました」
被災地の現状を見て、また地元の人たちとのふれあいを通して思いました。

「2年前とは変わったと思います。
当時は私が通った道には、ガレキや山積みになった車が多くのところで見られました。
立ち入り禁止の区域になっていてもそのまま放置されているところがすごく多く感じました。けど、2年後来てみて、ガレキや山積みの車もなくなり、撤去作業するためのクレーン車も多く見えました。
何より一番びっくりしたのは、女川駅が再建されていることでした。
女川の人ではないけれど、やっとそこまで来たんだな・・・と考え深い想いでした。
その反面、仮設住宅に暮らす人が多く、まだまだ不便なことがあると思うので、これからも応援していこうとあらためて強く思いました」

そして女川小学校で始まった、ダンス教室。
3日間の休み時間や放課後などを使って子どもたちにダンスを教えました。
毎日、約30人以上が来て、ダンス教室を楽しんでいました。
「子どもたちのパワーはすごい。
女川にはダンスをやったことがない人たちばかりなのに、経験者かと思うくらい上手な子や楽しくやっている子どもたちもいました。
疲れたと言っている子も音楽が流れるとすぐ踊り出していました」
1人の男の子は「将来ダンサーになる!!」と2人に話していたそうです。
子どもたちとダンスを通して繋がった2人は、うれしそうに3日間を振り返りました。

今回、ダンサー2人の想いに協力してくれたのが女川小学校の青山修司教頭先生です。
「子どもたちの表情が全く違いました。
子どもたちはダンスに憧れているから、知らず知らず楽しくやって運動ができているということは一番良いと思います」
と、2人のダンス教室を見守りながら、お話ししてくれました。
最終日のダンス発表会、
クラスの友達や地域の人たちが集まりました。


その中で、子どもたちは3日間練習した成果を発揮しました。
========

C-ONEさん
「皆さん、よく頑張りました。
3日間でダンスを覚えて、人の前で披露することは普通のダンサーでも難しいことです。
みんな一生懸命やってくれて、踊りたいと言ってくれて、うれしかったです。
何よりも皆んなのかわいらしい笑顔をみれて、楽しんでくれて本当にありがとうございました。私たちも女川へ来てよかったと思っています。
また来るから覚えていてくださいね!」

CHIHARUさん
「3日間すごくみんな頑張ってくれて最後に踊ったときもとても感動しました。
出会えて事に感謝します。ありがとうございました」



子どもたちと笑顔で別れた2人、
「ワークショップをやったのも今回だけとは考えていません。
何度も来て、「あのときの踊っていた人だ」と覚えてくれればうれしいです。
何よりも地元の人たちとともに復興していく段階を私も見続けていきたいと思っています」

「輝く笑顔をありがとう」
       C-ONE CHIHARU
C-ONEさんには、何よりもダンスの楽しさを伝えたいという想いが強く、指導者としてダンスを続けていくという夢があり、
CHIHARUさんには、今までお世話になった人たちの分まで優勝を目指して大会等にたくさん挑戦して、表現していきたいという夢があります。
ダンサーでも色々な道がありますが、2人に共通することは、「ダンスが好き」ということ。

1つのことを一途にずっと見つめ、極めることはなかなか難しいと思います。
多くの人は、挫折したり、目移りしたりしてしまうことが多くあります。
C-ONEさんとちはるさんは、ずっとまっすぐにダンスを見つめてきている人たちです。
その2人のまっすぐな想いが今回、子どもたちに伝わったのだと思います。

==========
実は、このダンス教室には、続編があります。
どんな続きかは、後日お伝えします。
お楽しみに!!

【C-ONEさんとCHIHARUさんのダンサー経歴】

C-ONE

・中京テレビ 

『スーパーチャンプル』出演
・日本テレビ
『SUGAR HILL STREET』出演
・YOU THE ROCK☆バックダンサー『R-festa』『B-BOY PARK』『LIVE JAM』『RHYTHM BEAUTY COLLECTION』出演
・ZEEBRA バックダンサー『X-TRAIL JAM IN TOKYO DOME』出演
・『TOMI-E 銀座個展』ダンサー出演
・『〜史上最強の移動遊園地 〜DREAMS COME TRUE WANDERLAND 2011』 東日本(@味の素スタジアム)黒ドリ⁈ダンサーズ出演
・『Ms.OOJA Special LIVE2011』
ダンスショーケース出演
・『PEOPLE POWER 3.11(@仙台)』ゲスト出演
・bjリーグ千葉JETS オープニングアクト
・IKSPIARI MUSIC & DANCE Festival 出演
・DANCE@LIVE SHOW CASE出演
・MORI TOWN STREET DANCE CONTEST 優勝
・movement AWARD'07 ベストキッズダンスチーム受賞
――――――

CHIHARU
・MADFOOTモデル
・TUBEバックコーラス
・『ナオト・インティライミ アリーナツアー2012 〜ツアーって言っても横浜と大阪の2ヶ所だけだけど…。背伸びしたってええじゃないか!師走にお祭りしたってええじゃないか!〜』バックダンサー出演
・D- SHOCK 優勝 
・HAISAI 2011 in OKINAWA -5th ANNIVERSARY ジュニア部門 優勝 
・Soulm8 DANCE CONTEST優勝
・ATTACK予選通過
・グランドソウル予選優勝
・movement 決勝優勝
・グランドソウル決勝3位
・U-15 CREW BATTLE JAPONE TOKYO優勝

(取材日 平成26年9月30日)

愛知×宮城 おいしいつながり! 豊川市から大葉のプレゼント(南三陸町)

$
0
0
石野葉穂香です。

大津波に襲われた三陸沿岸の市町では、行政職員の方々もまた、数多く犠牲となってしまいました。
復旧から復興へ。新たな町づくりを進めていくとき、職員がいないという状況は、計画の立案にも遂行にも支障となります。

そこで、被災した市町では、全国の自治体に対して、業務に精通した「応援職員」の派遣をお願いしています。
被災した側からお願いするケースもありましたし、派遣を申し出てくださるケースもありました。

そして、震災から3年半が経過した今でも、被災した市町には、多くの応援職員の方が来られています。
また、派遣期間が終わって地元へ帰られたあとでも、派遣先だった町の物産市を企画されたり、写真展を開催されたり、あるいは連休やイベントのたびにまた宮城を訪ねてくださったり・・・と、一度結ばれた「ご縁」を大切に繋ぎ続けてくださる方も大勢いらっしゃいます。

愛知県東部の5市2町1村で構成する「東三河広域連合」から南三陸町に応援職員の方が来られていて、町の方々と交流されていらっしゃること、これまで何度か記事を書かせていただきました。
過去記事をご覧ください。


2013年11月12日 火曜日
出会いこそ支援。派遣職員大活躍!
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/11/blog-post_331.html


2014年9月16日 火曜日
夜空に描く みんなの未来! 福興市で「三河手筒花火」
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/09/blog-post_51.html

そして今回、「ご縁」がさらに広がって、また新しい「ご縁」が結ばれました。
9月16日、南三陸町の飲食店組合へ、愛知県豊川市の「JAひまわり」、「東三温室園芸農業協同組合」から、豊川産の「大葉」4000枚がプレゼントされ、「さんさん商店街」のフードコートで贈呈式と大葉料理のお披露目が行われました。

豊川市産の大葉。
大柄で肉厚で、味も香りも若々しいのが特徴
この企画は、昨年4月から今年3月まで、愛知県豊川市から南三陸町に派遣されていた豊川市役所職員の篠原英明さんのお声掛けにより実現したもの。
豊川市からは、篠原さん、大葉生産農家でつくる「東三温室園芸農協」の平松忍組合長、清水喜八副組合長が来町。そして現在南三陸町に派遣されている市職員の白井和孝さんの4人が出席されて、南三陸町飲食店組合の高橋修組合長をはじめ、さんさん商店街の若手料理人に大葉を手渡しました。

左から「豊楽食堂」の岩田大さん、南三陸町飲食店組合の高橋修組合長、
東三温室園芸農業組合の平松忍組合長、
同じく清水喜八副組合長

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

南三陸町には、ご当地グルメ「キラキラ丼」をはじめ、お寿司、お刺身の盛り合わせ、貝類や海草類を使った小鉢や一品料理など、海から届く四季それぞれの恵みを使った多彩な海鮮料理があります。

これらのお料理には〝ツマもの〟が欠かせません。
中でも大葉の持つ香りと風味は、海産物の美味しさを一層引き立たせてくれる「点睛」というべき食材です。

大葉の生産量が日本一の愛知県。中でも豊川市は愛知県内で2番目の生産量を誇っています。
「お届けしたのは『愛経』という品種です。東三河の『愛経』は、キザミ(葉の周囲のぎざぎざ)が大きく、形もよくて厚みもあり、若々しい香りが広がるのが特徴です」(平松組合長)。

「栄養価も高いんですよ。鉄分やポリフェノールが豊富。そして抗菌作用もあります。海鮮料理の〝ツマ〟として昔から欠かせないものです」(清水副組合長)。

左から(顔の順番で)・・・今年、南三陸町に応援職員としていらっしゃっている白井和孝さん、
「創菜旬魚はしもと」の及川満さん、平松組合長、「弁慶鮨」の菅原賢(すぐる)さん、
高橋組合長、岩田さん、清水副組合長、
そして、〝橋渡し〟をしてくださった篠原英明さん
「篠原さんからお話をいただき、大葉の消費が盛んな南三陸町を、私たちもこんな形で応援させていただけるならうれしいと思ってやって来ました。これを契機に、2つのまちの交流がもっと深まれば」(平松組合長)

フードコートには、「季節料理 志のや」のご主人でもある飲食店組合の高橋会長、「創菜旬魚 はしもと」の及川満さん、「弁慶鮨」の菅原賢さん、「豊楽食堂」の岩田大さんが大葉を使って創りあげた多彩な料理も並べられました。

ホヤの大葉巻き(上:「豊楽食堂」さん)とキラキラ丼

さんまの梅しそ揚げ(「季節料理 志のや」さん)

大葉のさんま巻き(「季節料理 志のや」さん)

しその創作寿司(「弁慶鮨さん」)

大葉を使ったお料理の試食会も行われました。
南三陸の海産物と、豊川市の大葉の〝おいしい出会い〟です
「さんさん商店街の飲食店だけでも、大葉は多い日には3000枚は使うことがありますし、『志のや』でも500枚使ったことがあります。なくなったとき、早めに休憩にして、車で約40分もかかる佐沼まで買いに行ったこともありました」と高橋会長。

「震災の記憶が風化しかけていると言われている昨今、こういう提案とご提供がいただけることはうれしいですし、励みになります。生産地と消費地が〝win=win〟の関係で結ばれて、これから長くおつきあいしたいですね」

「被災地ももう、もらうだけでなく、こちらからも恩返しがしたい。まずはおいしい料理で両市町の名前をPRできたら・・・」と高橋会長はおっしゃいます。

そのあと、南三陸町役場の町長室へ、佐藤仁町長を訪ねました。
仁町長、お味はいかが?

佐藤仁町長の〝おいしい顔〟(笑)

「これまであまり大葉を意識して食べたことはなかったけれど、お話しを伺ったあとだと、味わいはひとしお。うまいっ!」

大葉=「青紫蘇 アオジソ」には、こんな逸話が伝えられています。
昔むかし、中国の都で、若者がカニを食べ過ぎてお腹を壊し、死にそうなほど衰弱してしまいました。ところがある名医が、薬草を煎じて紫色の薬を作り、それを若者に飲ませたところ、若者の食中毒はたちまち癒えてしまったとか。
「〝紫〟色をした〝蘇る〟薬」だったことから、この薬草は「紫蘇」と呼ばれるようになったそうです。

薬効もさることながら「おいしい料理」は、いつだって私たちを癒してくれます。

南三陸の海の恵みの味を、もっと高次元に引き立ててくれる豊川市の大葉。
若々しく瑞々しい大葉の力を味方にして、南三陸の海産物は、ますますおいしく〝蘇って〟まいります。


皆さんもぜひ、南三陸町×豊川市の〝おいしい交流〟を応援しに、ぜひ南三陸へお出掛けください!

(取材日 平成26年9月16日)

待ち続ける動物たち~アニマルピース~(仙台市)

$
0
0
こんにちはエムです。

東日本大震災は多くの人の命を奪い、たくさんの人の運命を変えてしまいました。
そしてまた、大震災によって運命を大きく分けた犬や猫、豚や牛などの動物たちがいることもまた、私たちは忘れてはなりません。


宮城県獣医師会によると、大震災で犠牲になった犬と猫は、宮城県内だけで1万匹以上。その他分かっているだけでも牛580頭以上、豚2900匹以上が犠牲になりました。

更に大震災以降、飼い主が分からない迷い犬や猫が保健所に持ち込まれ、たくさんの数が殺処分になっています。
震災から3年半経過した現在でも、迷い猫が野良猫となり、その野良猫から生まれた子猫が保健所に持ち込まれる例が後を絶ちません。


その状況に心を痛め、殺処分ゼロを目指して活動をし、犬や猫たちの現状を発信し続けている動物愛護団体の1つに「アニマルピース」があります。

※「アニマルピース」の活動はココロプレスでも紹介させていただきました。
=========================
平成26年5月20日 火曜日
「傷ついた動物たちに幸せな家庭を」(仙台市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/05/blog-post_20.html
=========================


現在アニマルピースが引き取っているのは、宮城県内の保健所に持ち込まれた犬や猫のみ。(一般家庭からの引き取りはしていません)
アニマルピースに引き取られた犬や猫は、たまたま運が良かった、ごくごく少数の犬や猫たちです。その子たちに共通するのは、今まで何らかの辛い体験を持っているということ。

「二度と不幸にしたくない。今度こそ裏切らない信頼できる本当の家族に手渡したい」

そんな、動物たちの幸せを最優先に考えたアニマルピースの家族募集会を取材しました。

会場はダイシン泉店前の駐車場

【アニマルピースの家族募集会】
場所:ダイシン泉店(泉区松森)
日時:毎週日曜日(12月末まで) 午前11時〜午後4時
    ※ 暴風暴雨の日は中止になる場合があります。
ダイシン泉店
http://diy-daishin.co.jp/shop/data_izumi.html


たくさんの人が見に来ていました

この日は約20匹の猫と1頭の犬が会場に連れて来られていましたが、多い時では50匹の猫がいる週もあるそうです。

アニマルピースで引き取った犬や猫は、代表の菅原とみえさんの自宅だけでは間に合わず、「一時預かりボランティア」の方たちに手分けして預けています。
「一時預かりボランティア」とは、各家庭で犬や猫を預かり、家族募集会の日に会場に連れて来て、引き取り手がなかった場合は再び自宅に連れて帰る、というものです。

アニマルピース全体では犬と猫合わせて約100匹が保護されていますが、幼すぎたり、逆に年をとっていたり、病気になっていると会場には連れて来られません。
特に大きくなったり病気だったりすると、引き取り手はほとんど現れないのだそうです。

会場が苦手なネコ、平気なネコ、性格はさまざまですが
本当の家族が迎えに来てくれるのを待っています

しかしアニマルピースでは、こちらからお願いして引き取り手になってもらうことはしていません。
「それは本当に家族になってくれる飼い主に手渡したいから」と菅原さんは言います。

「かわいがるから良いじゃない」
「困っているならもらってあげる」

そんな安易な気持ちだけでは正当な引き取り手になれないのです。希望者は菅原さん自身による審査を受けなければなりませんし、申し込みの内容によってはお断りする場合もあるということでした。

菅原さん(左から3人目)による審査があります

菅原さんが重要視しているのは次の点です。
◆ 本気で家族に向かい入れ、最後まで一緒に暮らす覚悟があるのかどうか。
◆ 飼い方は昔からの慣例ではなく、今の時代にあった、こちらの要望通りの飼い方をしてくれるかどうか。

飼い方の要望というのは、猫の場合は例えば「完全室内飼育」「不妊手術」「ワクチン接種」などですが、それは殺処分の現状や猫特有の伝染病があることなどを知っていれば当然のことと理解できます。

「しかし中には理解できない方もいるのです。その場合は本当に動物が好きな方だったとしても、残念ですがお断わりしています。それでも納得できない人もいますが、野良猫が社会問題になってる今、現代に合った飼い方をしてもらえなければ、せっかく引き取った命を無駄にしてしまうことになります」

小さな動物の命の重みも尊さも知っている菅原さんだからこそ、“動物たちの幸せを最優先に考える” その姿勢を貫いているのだと感じました。

みんなから「大ちゃん」と呼ばれている大五郎(推定5歳)。
とってもおとなしい性格で会場では始終ドキドキしているようでした。
東日本大震災後に保護され1度は家族が決まりましたが

事情があり現在も家族を募集しています

私が取材した3時間の中で、4匹の子猫が新しい家族に引き取られて行きました。この日は夕方までに合計で5匹が引き取られていったそうです。
お話をお聞きすると、何度か会場に足を運び、家族で話し合った後、決心してキャリーケースを持参した方が多かったのが印象に残りました。

「家族全員で面倒をみます」というご家族。
引き取り手が決まると菅原さんが記念撮影をします

幸せそうな家庭に引き取られました

家に着くまでは洗濯用の網の中で我慢してね

家族募集会は出産が続く5月から12月末まで毎週行われています。
会場に行ってみるだけでも、犬や猫たちの現状を知ることができますし、希望者はだっこもさせてもらえますよ。

「アニマルピースではボランティアをしていただける方、物資や資金を常時募集しています。できる範囲で、できれば長期的なご協力、ご支援をお願いします」

菅原さんにお聞きすると、アニマルピースは経済的にも厳しい状況で運営されているようです。関心のある方は下記の内容を参照して協力内容をご検討ください。

☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆

【一時預かりボランティア募集】
引き取り頭数が多く、早急に募集しています。
 幼猫・子猫・成猫
 子犬・成犬
預かり期間/猫の場合:5日~2カ月
      犬の場合:3カ月~6カ月

カメラを向けると大きな目だと思って
緊張した顔になってしまいました





【物資の募集】
◆ 子猫・成猫・老猫用缶詰、ドライフード、粉ミルク(幼猫用)、トイレ砂
◆ 成犬・老犬用ドライフード、缶詰、栄養ドリンク・・・その他


☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆
【ご寄付のお願い
餌代・物品などの他、ワクチン接種・不妊手術・病気治療の医療費に高額な出費となっています。
この活動へご理解、賛同していただける皆さまのご支援、ご協力をお願いいたします。

〈振込先〉
郵便局 郵便振替口座 02230-1-47659
    名義 アニマルピース

銀 行 七十七銀行 八幡町支店 普通 5467861
    名義 アニマルピース



◆ 上記全ての内容について詳しくはホームページをご覧ください。
アニマルピースホームページ
http://www.anip.biz/

(取材日 平成26年9月14日)

今年も島は元気です。(塩竈市浦戸諸島桂島)

$
0
0

えみです。

昨年ノリノリに盛り上がった浦戸諸島桂島の「のりフェスティバル」が、今年も行われました。

このフェスティバルは、東日本大震災で被害が大きかった浦戸諸島の人々の復興の思いを込めて、昨年に続き第2回目の開催となります。

「のりフェスティバル」会場となった桂島までは、仙石線本塩釜駅徒歩10分弱のマリンゲート塩釜から市営汽船が出ています。





船乗り場には出発時間になるとたくさんの人が乗り込んできました。


桂島までは塩竈市営汽船でおよそ30分で到着です。
増便した船には大勢の人が乗り込みました。
船乗り場にはご当地ヒーロー
タガレンジャーがいました。
































船から牡蠣の養殖風景も見えました。









穏やかで天気恵まれ、桂島に到着です。

むすび丸のお出迎えです。














5月26日、天気にも恵まれ大勢の人が船から降り、「のりフェスティバル」会場に集まりました。


  今年で2回目になる「のりフェスティバル」は島の復興を願い、地域の人たちが主体となり、ボランティアの方たちと一緒に作り上げました。たくさん美味しい海苔料理を食べて楽しんで帰ってください。

という司会者のあいさつでフェスティバルはスタート。



フェスティバル会場はたくさんの人でにぎわいを見せていました。






手書きの「のりフェスティバル」スケジュール表。


GENkidsによる☆のりのり塩竈ダンス



多賀城出身GAMISMによるヒップホップ

観客の皆さんも多いに盛り上がっていました。


浦戸海苔が入っているのりのりパン。

浦戸海苔がたくさん入ったパンの数々。


マグロと生のり特製汁











美味しいのりで!みんな笑顔。
のりのりクッキーを販売していました。
お隣の島。野々島から来ました。
わかめのつくだ煮を大きな声で売っていました。
海苔パンにのせたマグロのタルタル仕立て

頑張れ、浦戸諸島!
地元塩竈のお酒。阿部勘酒造店。





塩竈浦戸復興のりを売っていた
ボランティアの方と地元ののり養殖業の方たち。


島のおいしい食べ物をたくさんの人にたべてもらえるように
浦戸諸島の特産品を使った料理を紹介しています。
今日はキッチンカーでのりのり丼を出していました。


「ノリの生産が真っ盛りの3月に震災が起きてたため、その年のノリ養殖業は大打撃を受けました。ノリを加工する機械も津波で壊れてしまい新しい機械を取り入れたのですが、機械を使いこなすにも時間がかかり生産量は上がりませんでした」
「今は徐々に上向き傾向ですが、まだ震災前の半分の出荷量です」
「今後の目標は浦戸のノリのブランド化です。全国の皆さんに浦戸のノリを食べたもらいたいです」

と、浦戸諸島桂島でノリの養殖業を営んでいる内海洋倫さんが力強く話してくれました。


浦戸諸島桂島で海苔の養殖業を営んでいる内海洋倫さん。
塩竈浦戸復興のり
     浦戸諸島は2度の津波の被害にあいました。
それでも、浦戸の海の男たちは力と力も合わせ、立ち上がりました。
 津波に絶対にまけない、力と愛の結晶を込めた塩竈浦戸復興のりです。






塩竈の歌姫、asariさん。
震災後、地元塩竈のことを思い作った歌「塩竈桜」を歌ってくれました。

今年から登場しました。海苔レンジャー!
多いに盛り上がり、観客の皆さんは大喜びでした。


松島高校ダンス部による迫力あるダンス。
私たちのダンスで浦戸諸島を盛り上げたいです。

祭りでみんなひとつに!
のりフェスは復興祭として来年、再来年も続きます。
浦戸諸島へ多くの人が来てくれますように!
しおがま文化大使でもある、のりフェスティバル実行委員の畑中みゆきさん。


フィナーレは全員で「のりロック」の大合唱。
海苔は海の贈り物 のーりのり ♪♪♪


浦戸諸島は4つの島々からなっています。「のりフェスティバル」会場となった桂島は65歳以上の高齢化がすすみ、人口は約400人。浦戸諸島の中では最も人口が多い島です。

2年前の大震災の大津波では高さ10メートルの津波が襲い、住宅の半分が損壊しました。

しかし、驚いたことに亡くなられた方や行方不明の方は1人もいなかったそうです。

取材した日も島民同士が道ですれ違う時に全員名前を呼び合っていました。
桂島の住人は全て、顔見知りなのだなと驚きました。

震災での被害が大きかったにもかかわらず、亡くなられた方や行方不明の方が1人も出なかったのは、こうした昔から島民同士が顔見知りであり、絆の強さがあったからなのでしょう。

桂島の人々は自分の船を所有しており、
塩竈市のスーパーまで自分の船で買い物に行くそうです。
(知りませんでした!)

島の人々は常日頃から助け合いながら生きており、団結力があります。
そして「強い地震が来たら、津波が来る。高台に逃げる」という習慣は桂島の人々に根付いていたのでしょう。
小さな島だからこそ、当然かも知れませんが、地域の人と顔見知りになっておくことは私たち地域社会でも最低限必要なことです。
災害が起きてから一番頼りになるのは遠い親戚よりも近所に住む知り合いだということを震災で学んだ人は多いと思います。

浦戸諸島の人々に学ぶべきところがたくさんあると感じました。



浦戸諸島桂島での復興祭「のりフェスティバル」は来年も再来年も続きます。

島の人々の心の温かさを感じ、また島民同士の絆の強さを実感した取材でした。
ぜひ、海がきれいな浦戸諸島へ遊びに行ってみてください。
私たちが忘れかけていた大切なものが見えてくると思います。







(取材日 平成25年5月26日)


さぁ~気仙沼へ行こう!(気仙沼市、南三陸町)

$
0
0
kaiiです。
秋の深まりを感じますね。気仙沼では木々の葉が色づきはじめました。
先日、気仙沼出身で東京在住の友達と電話で話しました。

「皮肉だけど、東日本大震災をきっかけに『気仙沼』の知名度は東京でもアップしたんだけどね。
気仙沼ってどこにあるのか?気仙沼がどんな場所なのかよくわからない人が多いんだよ」
気仙沼出身の友達はそのことをとても悲しく思っていました。

東日本大震災直後の湾内(鹿折地域)
友達は続けて、東日本大震災の時のニュース映像が伝えた「気仙沼湾が燃えています」のニュースが内湾の被害の印象だけを残してしまったのかもしれない。気仙沼が受けた被害の全容が伝えられていないよ」と話します。

「気仙沼にはおいしいものがたくさんあって、きれいな風景がたくさんあって、素敵な人がたくさん居るのに知られていないんだよね。気仙沼の良さが伝わっていないんだと思うよ。それがとても残念だよ」と続けます。

震災後復旧工事が進められた漁船の係留所には遠洋漁船などが係留されています
気仙沼の良さ。気仙沼の魅力。
気仙沼はおいしい魚がたくさん水揚げされる港町。

気仙沼魚市場の近くの漁船係留所にはカツオ漁船も係留されています
(平成26年8月24日撮影)
日本百景気仙沼湾を中心に風光明媚な場所がたくさんある場所。
伝えても伝えきれない魅力をどう伝えるのがいいのかな?と考え始めました。

気仙沼ってどこにあるのか? アクセスは? 何が魅力? 何が自慢? 近くに何があるの?
震災ではどんな被害があったの? 震災をどう伝えていくの?
「ココロプレス」として気仙沼のことはたくさん伝えてきました。
しかし「気仙沼」の「すてき」が伝わっていないことがとても残念でした。

================================
そこで「仙台」から「気仙沼」までをテクテク電車の旅でお伝えします。

企画チケットで仙台まで出発!
仙台から気仙沼まで企画チケットを利用すると3700円で往復できます。チケットの利用期間も1カ月ととても長いのでゆっくり「気仙沼」を堪能いただけます。ただし途中下車できませんのでご注意ください。
仙台駅から東北本線で小牛田駅まで移動します。小牛田駅で石巻線に乗り換え前谷地駅で気仙沼線に乗り換え柳津駅まで移動します。柳津駅から高速バス輸送システム(BRT)で気仙沼駅まで移動します。所要時間は4時間ほどです。

===========================
さぁ~気仙沼に出発です!


仙台駅を出発するたくさんの電車が見えてきます。
国府多賀城駅のすぐそばには東北歴史資料館があります。


松島、鹿島台などを経由して小牛田に到着です。


昭和の時代、小牛田駅では窓を開けると売り子さんが「小牛田まんぢゅう」を売りにきました。
今も村上屋の「山の神まんじゅう」は人気の商品です。


小牛田駅を出発すると周りは黄金色の稲穂が頭を垂れていました。


小牛田駅を出て石巻線で前谷地駅まではのんびりした田園風景が続きます。眺めていると15分ほどで前谷地駅に到着です。前谷地駅から気仙沼線で柳津駅まで21分です。

北上川の鉄橋を渡る時はドキドキします
一級河川「北上川」を渡る時はワクワクします。

気仙沼線の車両
柳津駅に着きました。

気仙沼市観光キャラクター「ホヤぼーや」と南三陸町復興PRキャラクター「オクトパスくん」が
BRTの車両に描かれています

ここから気仙沼駅まではBRT(バス高速輸送システム)で出発です。
柳津駅を出て、お不動様で有名な「横山不動尊」の前を通り、東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた南三陸町へ。


こんな場所まで津波がきたの? と思う風景と、嵩上げ工事の進められている風景を眺めていると
自分の命に同じことが起こってしまったらどの様に避難行動をとれるのか? いつも携帯していると安心な物は何かを考えます。

南三陸町のは震災当時のままの場所も
(平成26年9月20日撮影)
南三陸町に入ると嵩上げされた土地の風景と付け替えられた道路、土埃と大型の重機や車両が目に飛び込んできます。



志津川駅の近くには「南三陸さんさん商店街」があります。

南三陸さんさん商店街の様子
(平成26年9月27日撮影)
南三陸町のおいしい食べ物を求めることができます。季節の「南三陸きらきら丼」をいただけます。

チリ共和国から贈られたモアイ像がお出迎え
(平成26年9月27日撮影)
モアイ像が出迎えてくれます
南三陸町から気仙沼までは約1時間30分の旅です。

南三陸町歌津伊里前の「伊里前福幸商店街」の様子
(平成26年9月20日撮影)
南三陸町歌津では、津波が高い場所にあった駅も飲み込みました。
歌津駅から徒歩4分の場所にある「伊里前福幸商店街」には、Jリーグのサッカーチームの旗がたくさん掲げられています。


歌津駅からたくさんのトンネルを通って海岸線へ出てきました。

陸前小泉駅につながる架橋も震災の大津波に破壊されたままです
(平成26年9月20日撮影)
サーフィンの名所だった「小泉海岸」。


近くにあった陸前小泉駅には今も震災の跡が残っています。


大谷海岸駅の近くには大きな土嚢が積まれています。遠浅の海水浴場だった大谷海岸駅の近くにも防潮堤の高さが示された看板が建てられています。


陸前階上駅まできました。陸前階上は景勝地「岩井崎」の近くです。
駅から岩井崎までは徒歩30分ほどです。

気仙沼市の景勝地「岩井崎」の潮吹き岩
気仙沼音頭の中にも「どんとな~どんとどどんと」と歌われる潮吹き岩が有名です。
今年の7月には、天皇皇后両陛下もお立ち寄り下さいました。

大津波にも負けず岩井崎に立つ気仙沼出身の横綱
秀ノ山雷五郎の像
気仙沼出身の横綱秀ノ山雷五郎の像があります。
この像は東日本大震災の大津波にも負けませんでした。

気仙沼駅に到着です
気仙沼駅に到着です。

仙台から気仙沼まで約4時間の旅でした。

======================
気仙沼駅から、路線バスで内湾地区へ。

五十鈴神社拝殿
内湾地区にある五十鈴神社からは日本百景「気仙沼湾」が一望できます。

気仙沼湾は日本百景のひとつです
気仙沼はモクゲンジの木の、自生の北限とされる場所です。


出入港する漁船と魚市場で行われる入札の声が気仙沼の元気です。


震災の前までは、内湾には大正時代の建物も多く建っていました。
震災の津波で被害を受けた建物は保存に向けて保護されています。




五十鈴神社から北に歩いて5分ほどで鹿折地区に到着です。
震災の後大型船が打ち上げられた場所の近くには見学台が設置されました。
復興作業の様子を見ることができます。

平成24年10月の鹿折地区の様子
(平成24年10月13日撮影)

船が打ち上げられていた場所の南側に
鹿折見学台が設置されました
==================================
kaiiの秋のごちそうは、炊きたての温かい新米と気仙沼に水揚げされたばかりの、サンマの塩焼き、脂ののった戻りカツオの刺身です。


東日本大震災後、「当たり前」だと思っていた「食べられること」が「幸せ」だと気がつきました。
多くの人の努力と労働の「おかげさま」でサンマと新米の組み合わせの秋の贅沢な食事でいただけることに感謝しています。

============================
「気仙沼」ってどんな場所? 何があるの?

気仙沼には、おいしい魚と海の幸、おいしい山の幸があります。

そして何より誇れるのが、多くの船員さんたちを迎えてきた港町としての「おもてなしの心」です。

気仙沼に居心地の良さを感じると話す人がいます。
「居心地の良さ」=「人の温かさ」だと思います。

おいしい食べ物とステキなおもてなしを感じに気仙沼にお出掛けください。

=======================
東京から気仙沼へのアクセスは、自家用車を使う場合は川口JCTから仙台宮城ICまで326.8Km、約3時間30分ほどです。仙台宮城ICから仙台市中心部までは渋滞がなければ車で20分ほどです。
仙台市内から気仙沼までは、仙台港北ICから石巻河南ICまで三陸縦貫自動車道を使います。国道45号線で気仙沼まで渋滞がなければ3時間ほどです。
仙台宮城ICから一ノ関ICまで東北自動車道を使い峠越えで来るルートもあり、所要時間は2時間30分くらいです。

公共交通機関を利用する場合、東北新幹線で東京駅から仙台駅まで1時間半から2時間ほどです。
仙台駅から東北本線で小牛田駅まで移動します。小牛田駅で石巻線に乗り換え前谷地駅で気仙沼線に乗り換え柳津駅まで移動します。柳津駅から高速バス輸送システム(BRT)で気仙沼駅まで移動します。東京からの所要時間は6時間ほどです。

東北新幹線で東京駅から一ノ関駅まで移動し、一ノ関駅から大船渡線で気仙沼駅まで移動すると所要時間は4時間30分ほどです。

その他、仙台駅から気仙沼まで高速バスも運行されています。所要時間は3時間ほどです。

============

(取材日 平成26年9月20日)

コミュニテェカフェ「commons(こもんず)」営業中です(南三陸町)

$
0
0
kaiiです。

南三陸町に行くたびに、町の風景が変わっていくことに驚きます。
旧町内に盛られている土の高さに比例するようにこの場所に以前何があったのか? と記憶を辿っても思い出せなくなってきました。


重機やトラックが慌しく動き土地の造成を進めています
(撮影日:平成26年9月1日)
東日本大震災から3年6カ月。町は確実に復興へと歩みを進めています。

「防災対策庁舎」には犠牲者の冥福を願う人たちが訪れています
大津波で被災し全壊した、南三陸町の「防災対策庁舎」には震災犠牲者の冥福を願う人たちが訪れています。

========================
東日本大震災後、「さんさカフェ」として町内外の人たち親しまれてきたお店が、道路移転などを理由に閉店したのが平成26年1月29日のことでした。

「さんさカフェ」だった店舗が空き店舗になっていたことから、移転までの間という条件付きで平成26年4月のゴールデンウィークに、コミュニテェカフェ「commons(こもんず)」としてリニューアルオープンしました。

家庭料理風愛情弁当を販売している
commons(こもんず)内海明美さん
(平成26年9月1日撮影)

commonns(こもんず)とは共有の場所、集える場所という意味です。

オーナーの内海明美さんは、コミュニティーカフェcommonns(こもんず)に来た人が好きな時間を楽しめる場所にしようと、オープンしました。

「オープン後、地元の人たちに気軽に集まれる場所、語らえる場所として利用していただいています。女性のお客さんが増えたことがとてもうれしいです」と内海さんは話しています。

店内は落ち着いた雰囲気です
地元の人や工事関係者などを中心に手づくり弁当の配達もしています。愛情たっぷりのお弁当は大人気です。

commonsのお弁当は家庭料理中心に作られています
(写真提供:内海明美さん)
県外から南三陸町を訪れ「commonns(こもんず)」を訪ねた人たちが、「とてもおいしい」と話していた「ソフトクリーム」です。kaiiもやっといただきました。

こもんずのソフトクリーム
噂通り、濃厚でとてもおいしかったです。

店内は沖縄に憧れる子ども達の思いもあり沖縄テーストになっています
内海さんは、復興の町でも商売を続けるそうです。

「ゆっくりできる場所として誰でも気軽に入れるカフェの営業を続けていきたいです。10年後、南三陸町で育った子どもたちといっしょに仕事ができることが私の夢です」と内海さんは夢を話してくれました。

=====================
自分の生まれた町、自分の生活する町の素敵なところを大切にして子どもたちに伝える内海さんの姿に、内海さんの「この町を大切に思う心」を感じました。

将来「この町の子どもたちといっしょに働きたい」とてもすてきな夢だと思います。その夢がかなうと信じています。

志津川高校の近くで営業中の「commons(こもんず)」
内海さんの周りには地元の素敵な女性たちがたくさんいて仕事を手伝っています。
内海さんたちのお弁当が人気な理由のひとつが、家庭的な料理が多いこと。
地元の女性たちの笑顔と愛情がたくさん詰まっています。

南三陸町にも元気にがんばる素敵な女性たちがたくさんいます。

愛情弁当の内容を確認できるcommons(こもんず)twitte:
https://twitter.com/akkesan33


(取材日 平成26年9月1日)

七夕の夜に広がる踊りの輪~「やりましょう盆踊り」(仙台市)

$
0
0
こんにちはエムです。

つい最近までうるさいくらいだったセミに代わり、草むらから虫の声が聞こえる秋になりましたね。
今年も、夏はためらいもなく過ぎ去ってしまいましたが、皆さんには忘れられない夏の情景がありますか?

その中でも「盆踊り」は格別ではないでしょうか。
盆踊りの単調な調べと動きは、なぜか毎年躍らないと落ち着かず、太鼓や笛の音には心躍ります。
同じ地域同士でも、あまり付き合いの無かった人と笑いあったり、会話をしたり……。そして盆踊りが終わった後の爽快感はなんとも言えません。

それもそのはず。盆踊りは昔から、亡くなった人を供養するための行事であり、小さな村社会での娯楽や、結束を強める役割も果たしていたと言います。

会場となった「つなぎ横丁」。櫓(やぐら)は会場の広さに合わせコンパクトな
可動式櫓を「やりましょう盆踊り実行委員会」で製作して設置しました!

さて、何度かお伝えしてきました、今年で3年目となる「やりましょう盆踊り」が無事に終了しました。

「やりましょう盆踊り」とは盆踊りを一緒に踊ることで、東日本大震災で犠牲になった方への鎮魂と供養の祈りを捧げ、復興に向けての地域のコミュニティをさらに結びつけることを目的とした復興支援のプロジェクトです。

====================
2014年7月7日 月曜日
踊り手大募集!「やりましょう盆踊りプロジェクト」(仙台市、亘理町、気仙沼市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/07/blog-post_9556.html

2014年8月8日 金曜日
「やりましょう練習会」(仙台市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/08/blog-post_26.html
====================

今年の夏「仙台七夕」・「亘理町吉田地区」・「気仙沼市唐桑町大沢地区」3会場で行われた盆踊りの様子を2回に分けてご紹介します。

☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆

やりましょう七夕おどり・盆踊り in 仙台七夕

 

◆ 開催地:仙台市 つなぎ横丁(仙台七夕まつり おまつり広場)
◆ 開催日:8月6日(水)・7日(木)・8日(金)

今年の仙台七夕は3日間共に台風11号の影響が大きく、盆踊りも開催が心配されました。それでも初日の8月6日は30分遅れながら開催。7日は定刻に始めることができました。
最終日の8日は雨で中止になってしまいましたが、仙台七夕期間中としては初めて開催された「やりましょう盆踊り」は大好評で、会社帰りのサラリーマン、七夕観光の一般客、外国人なども飛び入りで参加し、二重三重に踊りの輪ができました。

曲目は「七夕おどり」「宮城野盆唄」「相馬盆唄」の他、沿岸部の東松島市宮戸地区の「宮戸音頭」、山元町花釜地区の「花釜音頭」。それぞれ日替わりで地元の方が参加し、東日本大震災からの復興に向かう沿岸部に思いを馳せる機会になりました。
最終日には、石巻市の「大漁唄い込み」が披露される予定でしたが、雨で中止になったのはかえすがえすも残念でした。

8月6日:東松島市宮戸エリアから約20名の方が参加しました

浴衣姿が決まっています

お母さんと子どもたちも参加。昔からあった心なごむ風景です

8月7日:山元町花釜地区の「花釜音頭保存会」から踊り手、お囃子の
約40名の参加がありました。「花釜音頭」やりましょう盆踊り」が
きっかけになり、地元で親しまれていた民謡に踊りを付け、東日本大震災後に
誕生した盆踊りです。それだけに震災後のたくさんの支援や、
このプロジェクトへの感謝、復興への思いなどが詰まった盆踊りです。

若い人の参加もありました。見よう見まねでも踊り始めるとすぐに
踊れるようになるのが盆踊りの楽しいところです

仙台すずめ踊り」有志によるお囃子。ライブです!
花釜音頭保存会」メンバーによるお囃子

「盆踊りは1人でも参加でき、上手下手に関係なく気軽に輪に入り踊れるところが良い」(70代男性)
「とてもにぎやかで楽しかったし、皆と一緒に踊れてうれしかった」(30代女性:海外)
「『静』の印象の強い七夕まつり中で『動』を表すもの。七夕まつりが全員参加型になる重要な役を持っていると思う」(20代女性)
「最初は盆踊りを覚えたいという気持ちで練習会から参加しましたが、このプロジェクトの趣旨を知り、とても素晴らしい企画だと思いました」(30代女性)
「老若男女問わずに踊れるところが良かった。子どもや外国人の観客が輪に入り、一緒に踊ってくれてうれしかった」(50代男性)

踊り手・唄い手ボランティアに参加した方々からはそんな感想が寄せられました。

外国人も参加! 人種や年齢の垣根を越えて楽しめる盆踊り。
これからの仙台七夕には欠かせない行事になりそうな予感……


石巻市不動町から参加の皆さん。「大漁唄い込み」を踊る予定でした。
雨で中止になったのは本当に残念でした

こうして、仙台七夕を会場に初めて行われた「やりましょう盆踊り」が終わりました。
誰でも参加できるとあって、今まで以上に大きな踊りの輪が広がった3日間(2日間)でした。

「亘理町吉田地区」・「気仙沼市唐桑町大沢地区」の2会場の様子は回を改めてお伝えいたします。お楽しみに!

七夕観光に来た方や他のイベント出演の女の子も一緒に踊りました

※ 写真は「やりましょう盆踊り実行委員会」提供

☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆

★このプロジェクトは企業のご協力で成り立っています。継続のため、共感する皆さまのご支援をお願いします。
【お問い合わせ】
〒980-8660 仙台市青葉区五橋1-2-28
TEL  022-211-1341(月~金曜 10時~19時)
河北新報社メディア編集部 担当/与野

★「やりましょう盆踊り」実行委員会 Facebook

(取材日 平成26年9月9日)

「必ずお伊勢浜に戻ろう!」お伊勢浜ライブフェスタ(気仙沼市)

$
0
0
kaiiです。

平成26年10月5日、気仙沼市の景勝地・岩井崎園内を会場に「お伊勢浜ライブフェスタ」が開催されました。

台風18号の大きなうねりと龍の松
(平成26年10月5日撮影)

この日は気温16℃と、肌寒い1日でした。



岩井崎には、台風18号の大きなうねりが打ち寄せて、「潮吹き岩」も大きなしぶきを空に向かって吹き上げていました。

大きな潮を噴き上げる潮吹き岩
(平成26年10月5日撮影)
お伊勢浜に向かって組まれた特設ステージでは、市内のアマチュアバンドを中心に13団体が熱いライブを繰り広げました。


震災で亡くなられた方に黙祷を捧げた後、階上地域を中心に活動する「明戸虎舞」の勇ましい太鼓演奏でライブフェスタは幕を開けました。
気仙沼向洋高校軽音楽部などが次々にステージに立ち、熱い音楽を披露しました。




気仙沼市内から来た音楽が大好きだと話す60代の男性は、「毎年このイベントを楽しみにしています。震災の年も、震災から半年しかたっていないのに中止にならなかったこのフェスタにその時は励まされました。今年は台風で中止にならなければいいと心配しましたが、中止にならずに良かったです。今日は最後のバンドの演奏が終わるまで楽しんでいきます」と話していました。



岩井崎の見学に来た人たちも、しばし演奏に足を止めて聞き入っていました。

会場では、気温が低かったこともあり、出店で販売される豚汁や気仙沼ホルモンなど片手に、音楽を楽しむ人の姿がありました。


「また、お伊勢浜でこのイベントを必ず開きたい」と会場では繰り返しアナウンスが流れていました。

今年で7回目を迎えた「お伊勢浜ライブフェス」をたくさんの人が楽しんでいました。
東日本大震災後、私たちは音楽の力に勇気づけられてきました。これからも音楽に励まされ勇気づけられながら「前へ歩みを進めていかなければならない」と思います。

お伊勢浜ライブフェスタを運営する階上地区、市民有志の会の人たちの地域を大切に思う強い気持ちを感じました。


(取材日 平成26年10月5日)

塩竈湾、「2度」の全滅被害を乗り越えて(塩竈市)

$
0
0
穏やかな塩竈の内海。マリンゲート塩竈からの眺め
ザーリャです。
宮城県塩竈市にある観光の拠点、旅客船ターミナル「マリンゲート塩竈」。
その西側の「みなと広場」にあるのが、震災の年の8月に設置された仮設商店街、「しおがま・みなと復興市場」(塩釜市海岸通仮設施設)です。鮮魚店や食品、衣料など15の店舗が軒を連ねます。

ココロプレスでは、その復興市場の様子をご紹介しています。
===================
2014年10月11日 土曜日
失われた「闇市」。そして「復興市場」へ(塩竈市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/10/blog-post_11.html
===================

その店舗の中で、宮城県漁業協同組合に所属するのが、「共栄丸水産」、「幸進丸水産」、「いとう水産」、「赤間水産」の4店舗。長年にわたり、塩竈湾で漁業を営んできた方々です。復興へ向け、海での共同作業を行いながら、漁協の直営店として塩竈湾の海産物の販売・PRを行っています。

◆全国で評価される「塩竈産」をめざして

「震災後、再びワカメを種から培養してね、丹精を込めて育ててきました。その結果、昨年になってやっと『三陸産』にも負けない品質のワカメができたのです。本当に、やっと、やっとさ。うれしかったねぇ」

そう語るのは、しおがま・みなと復興市場で「共栄丸水産」の店舗を営む水間正夫さん
水間さんは、宮城県漁業協同組合・塩竈市第一支所の元運営委員長です。「組合員すべての復興」を果たすために、委員長を退任する今年の6月まで、わが身を振り返る暇もなく、被災地を奔走してきました。

震災当時、漁協の運営委員長だった水間正夫さんと、
隣でワカメの袋詰め作業を行う、妻の水間みちゑさん
塩竈湾の天然昆布を初めて商品化していた水間さん。20年前から養殖品目をワカメと昆布に絞り、以来、試行錯誤を重ねながら、養殖技術の開発に努めてきました。栽培方法の開発は苦労の連続だったと言います。

「出荷量が少ないというだけで、市場で正当に評価されてこなかった」という、塩竈湾のワカメと昆布。その美味しさを広め、塩竈のブランドとして定着させるために、国道45号に面した越ノ浦漁港に直営店を開きました。

◆2年続いた津波と、施設の全滅
長年にわたり、地道な開発努力によって品質向上に努めてきた養殖漁業者の皆さん。その結晶を奪ったのが、前例の無い津波の被害でした。

「私たち養殖漁民は、実は2年続けて養殖施設が全滅する被害に遭っています。東日本大震災の大津波と、その前年(平成22年)のチリ中部沿岸地震による津波です」

東日本大震災の前年、平成22年2月28日。
チリ中部沿岸地震(M8.8)による津波が発生し、太平洋側沿岸の養殖施設に大きな被害をもたらしました。この津波の最大波高は、塩竈市で1.1m。人的な被害はなかったものの、塩竈市の養殖漁業者は壊滅的な被害を受け、その総額は5億円に上りました。
政府はこの被害を「激甚災害」に指定、国を挙げて復旧の支援に当たりました。

右上が東日本大震災による店舗の被害。
それ以外はチリ中部沿岸地震(M8.8)による養殖棚の被害。(写真撮影:共栄丸水産)
水間さんの養殖施設もすべてが流失し、その復旧には相当の経済的負担を強いられました。

「そうやって、何とか養殖施設を復旧させた矢先に起こったのが、東日本大震災の大津波でした。努力して、タンクを据え付けて、種の培養施設まで作って、『これで完璧だ』というものができたところでした。多くの組合員が船と施設を失い、大切な種となるメカブも、すべて流出してしまいました」

しおがま・みなと復興市場に出店している店舗のうち、水間さんの「共栄丸水産」をはじめとする4店舗(「共栄丸水産」、「幸進丸水産」、「いとう水産」、「赤間水産」)は養殖漁業を生業とする漁協の組合員。同様の壊滅的被害を受けました。

「命こそ助かりましたが、もうショックでね、立ち上がれなかったですね。何もかにも、すべて流されたから。もうとにかく、『なんじょすっぺ』と。まず、腰が折れてしまったんだわなぁ。『やる気』までもが、流されてしまったんだねぇ。人と会うのも嫌になってしまってねぇ」

水間さんは、そう当時の心境を振り返りました。

◆背中を押してくれた、娘三姉妹の姿
塩竈市が復興市場の計画を進める中で、水間さんは出店を考えることができずにいました。漁協の組合長として多忙を極めただけではなく、心の底に沈んだ鉛のような虚無感と疲労感が、水間さんの気力すらも奪っていました。

「おとうさん、おかあさん、そんなに考えても仕方がないのだから、前向きに、考えようよ。まず、店を再開しよう。そうしなければ、何も始まらないのだから」。

打ちひしがれる両親を支え続けたのは、さわ子さん(長女)、さと子さん(次女)、さく子さん(三女)の水間さんの3人の娘さんでした。
最初に『再開することの大切さ』を語りかけたのは、三女のさく子さんだったと言います。

「海をよみがえらせ、もう一度父の養殖事業を再開させる」。
その日から、さと子さんとさく子さんは、自ら船に乗り込み、来る日も来る日も塩竈湾の瓦礫を引き上げました。
長女さわ子さんは、商品の新しいパッケージデザインや広告を担当。海産物を用いた料理教室を企画するなど、漁協の商品を少しでも多くの人々に知ってもらうために奔走しました。

水間さんたち漁協グループで生産した塩竈湾のワカメ。
デザインのアイデアや裏面のメッセージは、
長女さわ子さんによるものです

今年から漁協の新商品となった、「塩竈産」の昆布。
新しい塩竈の特産品として、期待が高まっています

「娘たちがね、呆然自失している私たちのために、いろいろと代わってやってくれたからね、そうやって一所懸命に動いてくれる姿を見てさ、自分の娘たちに、背中を押されたんだっちゃね」

水間さんはそう言って、丸めて保管されていたカレンダーを広げました。「これにも、娘が出ているんですよ」。
アメリカの企業が、日本の復興支援のために作成したというカレンダー。その一面で紹介されていたのは、ご両親を支えるため、物産展で懸命に商品の紹介をしている長女さわ子さんの姿でした。

◆多くの出会いがあった、新しいにぎわいの場
多くの観光バスであふれる、週末のマリンゲート。松島観光に訪れた人々が、復興市場での買い物を楽しみます。

「ここにお店を構えたことで、以前にも増して、さまざまな地域のお客様と会えるようになったのね。私たちのことを話すとね、関心を持ってくださるんだね。遠くの方から『おいしいワカメに出会えた、また送ってください』と手紙が来ることもあります。塩竈の商品が受け入れられ、着実にお客様の裾野が広がっていることを実感します」

観光客でにぎわう、日曜日の復興市場。緑色の看板が共栄丸水産の店舗。
漁協の4店舗は並んで入居しています
震災前、お客の多くは近郊から自家用車で来る方々がほとんどでした。
しかしマリンゲートに隣接する現在の復興市場に移ってから、観光客は全国から、そして海外からやってきます。
水間さんは、「ここに出店させてもらっている私たちには、大切な役割がある」と言います。

「漁協に所属する私たち4店舗には、生産した商品に付加価値を付けて、ブランド化し、宣伝をするという務めがあります。塩竈の養殖漁民として、他地域に負けない品質の商品を生産し、自らが全国へPRしていく。そのために、それぞれが一所懸命に知恵を絞っています」

水間さんたち漁協のメンバーが懸命に取り組むのは、塩竈の浅海漁業の将来を支えるためでもあります。

「現在、第一支所の漁協の組合員は70人、その半数は80歳を超えています。将来を担う30代までの若手組合員はせいぜい5、6人。度重なる災害の負担に、廃業を考える組合員もいます。私たち浅海漁業に携わる人間が努力することで、漁業を活気に満ちた魅力あるものにしたい。そうすれば、新しい担い手も育ちます。それは、塩竈の復興を支えていくことも繋がるはずです」

◆再建にかかる時間と、復興市場の閉鎖の問題
水間さんの漁業の拠点であった、塩竈市越ノ浦漁港。その嵩上げ工事は今年いっぱい続く予定だと言います。
再び越ノ浦漁港に戻れるのは、いつごろになるのでしょうか。

「嵩上げ工事が予定通りに終了し、その後の手続きがスムーズに進んだとしても、店舗の再建に着工できるのは来年の平成27年、12月。実際に営業できるようになるのは、まだ1年以上先になりそうです」

「しおがま・みなと復興市場」の営業期限は、来年の1月15日まで。それ以降は、漁港の店舗が再建できるまで、自力で「仮設店舗」の営業場所を確保しなければなりません。しかし、2度にわたって壊滅的な被害を受けた養殖漁民にとって、これ以上の経済的負担は不可能だと、水間さんは現状を語ります。

マリンゲートから見る市街地の様子
塩竈市の復興計画では、正面のJR本塩釜駅からマリンゲートをつなぐ
全長350mの「津波避難デッキ」が建設される予定です。

「できるならば、石巻市や気仙沼市のように、塩竈市にも『仮設の仮設』となる店舗を、どこかの場所に作っていただけると、本当に助かるのです」。復興商店街の皆さんの願いは一致しています。

「支援してもらったものを、早く返さなくてはと、皆焦っています。しかし、私たちの努力だけでは、どうにもならない現状があります。そのために、私たちが自力で立ち上がるまでの時間の猶予を、もう少しだけいただきたいのです。今はまだ、立ち上がるための手掛かりを、もがきながら探しているところなのです」

震災後、被災した人々が寄り集まって、足並みをそろえて歩んできた復興市場。
「迅速な復興を目指していても、しかし時間をかけなければできないこともある」と、水間さんは言います。

「一つ一つはとても小さな店舗ですが、それでも今は、新しい一つの『まち』となり、塩竈のひとつの顔になっています。
なんとか、存続できることを願っているのです」

塩竈市との話し合いを重ねながら、しおがま・みなと復興市場の皆さんは、長く続く復興への道を歩もうとしています。



共栄丸水産
〒985-0002 宮城県塩竈市海岸通226-5 しおがま・みなと復興市場A棟 1F
TEL:022-366-1163
 

(取材日 平成26年9月11日)

動物たちの大震災は終わらない~アニマルピース(仙台市)

$
0
0
こんにちはエムです。

東日本大震災から3年半経過した現在でも、迷い猫が野良猫となり、その野良猫から生まれた子猫が保健所に持ち込まれる例が後を絶ちません。保健所では基本的に殺処分になるのです。
仮設住宅に迷い込んだ猫たちに餌をあげ、生まれた子猫を保健所に連れてくるという例もあるように、「かわいそう」と思ってしてることが、逆に動物たちを苦境に追い込んでいる場合が多いのです。


また犬の場合は、犬自身が病気や老犬になったり、飼い主が高齢化して飼えなくなったなど、飼い主側の理由で保健所へ持ち込まれる場合が多いということです。
震災後にはさまざまな状況から “飼えなくなった犬” が、最終的に保健所に連れてこられた例が多くありました。

その状況に心を痛め、殺処分ゼロを目指して活動をし、犬や猫たちの現状を発信し続けている動物愛護団体の1つに「アニマルピース」があります。


これまでの記事
=========================
平成26年5月20日 火曜日
「傷ついた動物たちに幸せな家庭を」(仙台市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/05/blog-post_20.html
=========================
2014年10月13日 月曜日
待ち続ける動物たち~アニマルピース~(仙台市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/10/blog-post_87.html
=========================

アニマルピースでは5月〜12月末まで、保健所から保護した犬と猫の家族募集会を毎週開催していますが、保健所から運良く引き取られ、新しい家族に出会える猫や犬は、その中のほんのわずかです。(※ 一般家庭からの引き取りは行っていません)

しかしさほど大きな団体でもなく、飼えるスペースの限られているアニマルピースにとっては、わずかな数ではありません。より多くの命を助けるには、やはり大勢の協力者が必要なのです。


アニマルピースの活動に賛同し協力する方法は、「一時預かりボランティア」「犬猫の搬送」「家族募集会 会場でのお世話」「物資の支援」「活動資金の寄附」などがあります。

取材させていただいた9月中旬の晴れた日曜日。その日の家族募集会でも、ボランティアの方々が協力する姿がありました。忙しい時間の合間にお話をお聞きすることができましたのでご紹介します。

「そのカメラ怖い!」・・と言われました(想像)


「昨年5月から猫の『預かりボランティア』をやっています。
自宅の広さでは3匹が理想ですが、現在5匹を預かっています。でもしばらく10匹の期間が続いていました。いままで全部で60匹くらいの面倒をみて新しい家族に手渡しました。

現在の5匹は5月頃から預かっているんですが、なかなか決まりません。白黒やサビ色の猫は決まりにくいんです。それに加えてだんだん大きくなってしまうと、ますます見つからない傾向があります。すぐに決まる時もあるんですけどね……。

『預かりボランティア』は朝連れて来て、もらい手がいなかった場合は、夕方迎えに来ます」(40代・男性)


「会場でのお手伝いだけやっています。できる範囲でやってますので毎週ではないんですが、5年ほどやっています。
以前は月2回の開催だったんですが、昨年から保護頭数が増えて、毎週やらざるを得ない状況になっています。前は空いてる週に街頭で募金活動をしていました」(40代・女性)

「菅原さんのお手伝いを始めて7年位です。
猫を外に出さずに中で飼う人は増えていますが、昔から猫は外に行くものと思っている人に分かってもらうのは難しいです。

アニマルピースは菅原さんの考えで活動していますので、かわいがってくれれば誰でも良いというわけではありません。手渡すのはいつも慎重です。
それでも一軒一軒訪ねるわけにもいかないので、信じて渡しています」(50代・女性)

「それ怖いって!」
(さっきまでとっても愛らしかったのに・・ごめんね〜)

「震災後にここでミニチュアダックスを引き取ったのがアニマルピースとの出会いです。
その犬は、被災して仮設住宅に入っていた方が『どうしても犬の面倒まではみられない』と泣く泣く手放した子でした。
そのことが縁で、今年の7月から『預かりボランティア』をやってます。
今日は5匹連れてきて、さっき1匹もらわれました。
その子にとっては引き取り手が決まってくれるのが一番いいですし、うれしいことではありますが、寂しい気持ちもあります。

でも1才とか2才過ぎて、引き取り手がいなかったらどうするか、についてはよく2人で話し合っています。」(ご夫婦と小学6年生の男の子家族)


代表の菅原とみえさんの自宅でも常時約20匹の猫(現在は約30匹)と、現在15匹の犬がいます。

「現在自宅で引き取っている犬たちは高齢だったり、病気だったり、中には震災後に親戚をたらい回しにされた後、保健所に持ち込まれた犬もいます。
猫も同様で、成猫や病気を持っていると引き取り手はほとんどいないので、うちで世話をしています。

私がこの子たちを責任を持って面倒見るためには、自分の年齢も考えると、これ以上は引き受けられないのが実状です。
私自身の体調なども考えて、このアニマルピースの活動もあと3年で終わりにする予定です。それまでに殺処分数がゼロになったら良いですねぇ」

「犬も猫も大事な家族」
宮城県動物愛護推進員も務めるアニマルピース代表の菅原とみえさん(後列左端)と
ボランティアの皆さん(有志)

◆ 平成23年・・・・犬336頭、猫2,526匹
◆ 平成24年・・・・犬345頭、猫2,690匹
◆ 平成25年・・・・犬227頭、猫2,334匹

これは宮城県内で保健所に持ち込まれ、飼い主が現れないまま殺処分になっているイヌとネコの数です。

数字だけでは伝わらないかもしれませんが、これは、冷たく固いコンクリートの狭い部屋で飼い主が現れるのを待ち続け、不安で怖い気持ちのまま、人の手でこの世から消されていった命の数です。
そしてその数をゼロにするのは人の手によってしか成されるません。

この日常の中では私たちが知らないだけで、動物たちの東日本大震災もまた終わっていないのかもしれません。
温かな “人の手” で、人にとっても人の言葉が話せない動物たちにとっても、1日も早く大震災が終わったと思える日が来る。そう信じていたいと思いました。

☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆

【アニマルピースの家族募集会】

場所:ダイシン泉店
日時:毎週日曜日(12月まで) 午前11時〜午後4時
(※ 暴風暴雨の日は中止になる場合があります)
ダイシン泉店(松森)
http://diy-daishin.co.jp/shop/data_izumi.html

★ 尚、飼い主になるためには一定の条件があります。 詳しくは直接家族募集会へおいでください。

【一時預かりボランティア募集】
現在引き取り頭数が多く、早急に募集しています。
 幼猫・子猫・成猫
 子犬・成犬
預かり期間/猫の場合:5日~2カ月
      犬の場合:3カ月~6カ月

【物資の募集
◆ 仔猫・成猫・老猫用缶詰、ドライフード、粉ミルク(幼猫用)、トイレ砂
◆ 成犬・老犬用ドライフード、缶詰、栄養ドリンク・・・その他

☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆
【ご寄付のお願い
餌代・物品などの他、ワクチン接種・不妊手術・病気治療の医療費に高額な出費となっています。
この活動へご理解、賛同していただける皆さまのご支援、ご協力をお願いいたします。

〈振込先〉
郵便局 郵便振替口座 02230-1-47659
    名義 アニマルピース

銀 行 七十七銀行 八幡町支店 普通 5467861
    名義 アニマルピース


◆ 上記全ての内容について詳しくはホームページをご覧ください。
アニマルピースホームページ
http://www.anip.biz/


飼い主のいない猫の不妊去勢事業について
野良猫を保護し、宮城県獣医師会獣医師会会員の病院において、不妊・去勢手術を受けさせた団体または個人に、手術後、費用の一部が返還されるというシステムです。
すでに確立していた仙台市に加え、宮城県でもこの7月22日から施行されました。

※ 詳しくは宮城県公式ホームページ内、食と暮らしの安全推進課「動物の適正飼養及び動物愛護の推進」を参照ください
http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/shoku-k/doubutuaigo-new.html#funinkyosei


(取材日 平成26年9月14日)

みんなの「手」で子どもたちを育てる「手の市」(気仙沼市)

$
0
0
kaiiです。

平成26年8月24日、NPO法人パラリンピックキャラバンが主催する「手の市」が気仙沼海鮮市場海の市2階会議室を会場に開かれました。


このイベントは、「たくさんの手で復興を促す」の意味で、世代を超えて手をつなぐたなコミュニティづくりの支援事業として実施されました。


「手の市」では、気仙沼で手作りをする方たちの作品の展示販売や、気仙沼で活動する団体による人形劇、絵本の読み語り、紙芝居などが行われました。


気仙沼で手芸作品などを制作する女性たちが、作品を持ち寄り販売していました。


主催したNPO法人「パラリンピックキャラバン」の中山薫子さんは、
「多くの方においでいただきました。今後は、もっと多くの方に声を掛けて子どもたちも参加できるイベントとして年に2回ほどのペースでこれからも開催していきたいです」
と話していました。


作品を見に来ていた、気仙沼市内の仮設住宅で生活する60代の女性は、
「お友達に誘われて家族で来ました。色とりどりの作品を見ているだけでとても楽しい気持ちになれます。このようなイベントに来ると離れてしまった知人にも会えるのでとてもうれしいです」と話していました。

気仙沼女性の器用さとバイタリティーを感じるイベントでした。

(取材日 平成26年8月24日)

「ママと赤ちゃんの復興まちづくりin石巻」開催のお知らせ(石巻市)

$
0
0
kaiiです。
東日本大震災直後の避難所には、子どもと抱えて避難してきたお母さんの姿や妊娠中のお母さんの姿がありました。
被災した直後にkaiiが避難した避難所にも、ミルクもオムツもありませんでした。
赤ちゃんが泣くと周りの人に気を遣って赤ちゃんを抱きかかえて寒い外へ出て行く母親の姿もありました。
妊娠中の母親の中には、震災のショックで体調を崩す人もいました。

石巻市で子育てと家庭支援をしているNPO法人「ベビースマイル石巻」は、震災時のマタニティ・子育て世帯への情報不足を感じた母親たちが、つながりを強化することで、緊急時に活かせる地域社会とのネットワークを構築することや、震災で失われた子供の遊び場の提供、震災のケアなどのサークル活動を通して、石巻市に引っ越してきた方とも交流をはかり、みんなで子育てを楽しむ場を作るなど「親子の震災ケア」を活動の中心にしています。

ベビースマイル石巻が開催するサロンの様子
(写真提供;ベビースマイル石巻)
「ベビースマイル石巻」の代表理事荒木裕美さんは、母親としての震災の経験を全国各地で講演し、伝えてきました。

荒木さんはいつか地元で、震災後に母親になった人やほかの地域から引っ越してきた人たちに自分たちの経験した東日本大震災伝えることが必要だと考えていました。

「今回のシンポジウムには、誰でも参加できます。私たちのまちの防災計画に妊婦・子育ての視点を入れたり、当事者自身のセルフケアも含めた備えの必要性について、被災地からこそ発信したい。石巻市が復興して『みんなが暮らしやすいまちになるために何が必要か、みんなが生活しやすい町、子育てがしやすい町とはどんなまちなのか』を参加いただいた方たちと考えたいと荒木さんは話します。

==========================

ママと赤ちゃんの復興まちづくりin石巻 



開催日:平成26年10月24日(金)
時間:午前10時から午後12時30分
開催場所:石巻市向陽地区コミュニティーセンター
       (石巻市向陽町4-9-11)

*あらかじめ申し込みが必要です。

主催:特定非営利法人ベビースマイル石巻
    文部科学省科学研究補助金 基盤研究(B)(海外学術調査)25301013 (代表 山地久美子)
共催:文部科学省科学研究補助金 基盤研究(c)研究課題番号25380869(代表 田間泰子)
協力:東北すくすくプロジェクト chibito
後援:石巻市 社会福祉法人石巻市社会福祉協議会 
    お産と子育てにつよいまちづくりチーム
    一般社団法人 宮城県助産師会

問合わせ先:特定非営利法人ベビースマイル石巻(荒木)
         0225-24-8304

(取材日 平成26年10月18日)
Viewing all 1285 articles
Browse latest View live